下の品だから「下品」
下品の代表として「性」がある。
「性」を正面から取り上げるのはワシでは無理だ。
とても深遠すぎて雑記で書ける相手じゃない。
肉体界と精神界(心の世界じゃないぞ)から、
聖界(真界)への乗り物としての能力を秘めている。
しかも生き物は全て備え付けている。
チベット亡命政府のある北インド、ダラムサラ。
かつての宮殿名ノルブリンカの名をつけれれた文化センター。
そこで見たチベット仏教の大曼荼羅図中心の御神体図。
男女交合神は腹の底が震えるほどの波動があった。
「性」の遥か深く、とんでもない世界がある。
グレちゃん(創造主)がオチャメだというのが、
これ(性)一つとってもわかるだろう。
ワシが話せる(書ける)のは「性」の極一部だけだ。
その更に一片として「下品」部分がある。
でも今回は書かないぞ。
興味のある人にしか話さないぞ。
聞きたかったら、講演依頼を申し込んでくれ。
「下品を愛する事」と
「下品な振る舞い」は正反対の位置にある。
ところが世の中は「下品」に眉をしかめ、
「下品な振る舞い」の政治家達に投票(応援)する。
常識って、かなりおかしい(可笑しくないか?)
ワシは上品はよく判らないが、
「上品な振る舞い」は判る。
ワシにはなかなか出来ないのだが、
「上品な振る舞い」は敬愛する。
「下品」好きと「上品な振る舞い」は矛盾しないのだ。
故マザー・テレサのフィルムを見た。
膿と垢だらけの病人を抱きしめていた。
あれが「上品な振る舞い」というものだ。
自他を融(解)かして行動する。
そこに塊(こだわり)はない。
「やわらぎ」と「やすらぎ」だけがある。
マザー・テレサの行動を評して誤解がある。
「自分を捨て、他の為に生きている」
そう語られ、書かれる事がある。
それは違う。
自分を捨てた行動で「生命」は続かない。
自他を融かした(解放させた)から偉大なのだ。
ワシが無条件で平伏する聖人の一人でもある。
また硬い話になったかなぁ・・・
ウン○話が硬くては苦しむなぁ。
明日こそ、軟かなウン○話を!
ファイト! オー!!(そんなことでファイトするのか?)
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
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