水上陽平流の表現でいろいろな事を書いています。本館は http://iiki.desu.jp/ 「氣の空間」
マジメな人は狂いやすい。
この「少し」が出来ないのだ。
足るを知らないのだ。
「いいかげん」は、とても深い知恵なのだ。
(と、自画自賛、独善独尊)
病(闇)になりやすいタイプがいる。
マジメな人達だ。
何でもマトモに受ける。
「春の氣」もマトモに受ける。
心の病も同じだ。
不マジメは心の病にならない。
(体の病にはなるけど・・・)
桜の花には狂気が混じっている。
多くの先達が見抜いていた。
春の氣は、狂気を伴っている。
文学は物語ではない。
そこには深い観察がある。
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
マトモに狂うと生命は破滅に向かう。
だが、少しの狂いは活性する。
少しはナニかに狂うのが、元気のコツでもある。
少し色香に狂うのは、若返りの秘訣でもある。
「狂い」は使い方で活用できるのだ。
昔から諺にもある。
バカと鋏は使い方・・・。
政治家だって役人だって、使い方で役にたつのだ。
ほとんどは正誤や善悪や優劣ではない。
使い方なのだよ。
コツは「少し」にある。
「足るを知る」というのは深い意味があるのだ。
小さく満足することではないぞ。
大きな満足に役にたつのだ。
それは、狂い、も同じだ。
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
「春の氣」は生命力を活性する。
生命を刺激して活性する。
調和が追いつかないまま刺激する。
否応なしに活性する。
元気というよりも・・・少し狂うのだ。
狂いは生命の刺激でもある。
春は狂いの時と空間なのだ。
調和力が不足している人達がいる。
その人達に「春の氣」は刺激が強すぎる。
だから・・・少し辛いかもしれない。
生命の低下の辛さではない。
生命の刺激で活性するのだ。
だが、それは不調和をまねくのだ。
いいような、迷惑のような・・・。
色っぽさの微妙な人妻に惚れられるようなものかなぁ・・・。
(全く例えになってない・・・)
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
相似象の多重構造。
この世の仕組みだ。
自然の仕組みだ。
生命の仕組みでもある。
神の仕組みでもある。
だから、人の仕組みでもある。
「ゆらぎ」も相似象の多重構造だ。
「ゆらぎ」の内に「ゆらぎ」がある。
「ゆらぎ」の外に「ゆらぎ」がある。
更にその外側にも「ゆらぎ」がある。
更に更にその外側にも・・・・
(こ、これ・・・前の文章と同じだ・・・
あ、あぁ、ボケと疲れがらんでぶぅ・・・古っ!)
「春の氣」は変化度が強い。
「小さなゆらぎ」から外れている。
「大きなゆらぎ」の範囲ではある。
外れてしまった分が微妙な影響を与える。
ある人達には、影響が出てしまうのだ。
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
「ゆらぎ」は多重構造になっている。
この世の仕組みも同じだ。
自然の仕組みも同じだ。
体(生命)の仕組みも同じだ。
だから神の仕組みも同じだ。
何も難しい事はない。
とても・・・ワンパターン。
グレちゃん(創造主)は何も考えてない。
とても・・・メンドウクサガリ屋だ。
自然は「ゆらぎ」だ。
だが「小さなゆらぎ」と「大きなゆらぎ」がある。
更に「もっと大きなゆらぎ」がある。
更に更に「もっともっと大きなゆらぎ」がある。
更に更に更に・・・あぁ、つ、疲れた・・・。
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
変化と安定がスムーズに変換される時、
それを「調和」という。
安定だけだと「停滞」になる。
「濁り」は安定から生まれる。
安定だけの人生は濁るのだよ。
変化の連続は「狂い」となる。
狂いは「破滅」を生む。
刺激(変化)だけの人生は破滅する。
片寄った人生は苦労するぞ。
ブッちゃん(仏陀)は2500年前にそう言った。
中道という言葉で。
「調和」は安定でも変化でもない。
ゆらり、ゆらりと揺れ動く様だ。
「ゆらぎ」は自然(神・生命)の性質だ。
ワシはそれを「いいかげん」と名づけた。
賛同する人は・・・少数だ・・・。
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
全ては生命だが、活性は「波」である。
その波紋を作る一つに「春」がある。
春という時間と空間がある。
春という「氣」がある。
生命を刺激する波動となる。
刺激は反応を呼ぶ。
反応とは「狂い」の事だ。
「狂い」は「恒常」を呼ぶ。
「狂い」と「恒常」の動きが「やわらぎ」となる。
生命は「やわらぎ」で大きくなれるのだ。
生命は自然であり存在であり神である。
自然は変化と安定を常に繰り返す。
一時の休みもなしに・・・。
諸行無常とはそういうことだ。
万物流転とはそういうことだ。
それは生命の姿でもある。
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
春の氣。
一定の時間であり、一定の空間に限定される。
その時間内だけ刺激がある。
その空間内だけ刺激がある。
生命と存在に刺激をする。
物質を存在させるモノ。
それを「生命」という。
単純に生きているだけじゃない。
「生命」は「存在」である。
そして・・・「神」ともいう。
「生命即神」
浅い意味ではない。
全てが存在であり、
全てが神である。
そして、全てが「いのち」でもある。
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
何度か書いた事がある。
春は生命力を刺激する。
それは生物に限らない。
というか・・・通常の生物の概念は狭い。
生物は「存在」だ。
存在するモノ、全て生物。
だから春は全てに刺激する。
ただし、春のエリア内に限ってだ。
春の海は途中で変わる。
春の雲も途中で変わる。
春の空気も途中で変わる。
春は一定の空間なのだ。
それは一定の時間でもある。
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
口から飛び出たパスタは短い草の生えた土に転がった。
キ:「おっとっと。ゴメン、ゴメン」
キリストはパスタに謝ってからフッと息で土を弾き、愛しそうに口に入れた。
それを見ていたゲシュナムは少し真顔になった。
ゲ:「こうして食事をしているだけで、深い学びが出来ます」
キ:「ゲシュはん、学びなんてしなくていいんだぴょ~ん」
ブ:「ゲシュはんは、まだ人間社会の癖が抜けてねぇから仕方ねぇよ」
ゲ:「はぁ・・・解ってまんが、一応、ワイの役目があるようやし・・・」
理解されきれなかった超二大偉人の引出し。
どうやらゲシュナムはその紹介役でもあるようだ。
そもそも偉人が簡単に理解されるはずもない。
偉人も異人も変人も似たようなものらしい。
偉人の理解は未来で開かれる。
それは仕方が無いものだ。
ゲ:「料理する。いただく。生きていく。生き方。同じやなぁ・・・」
ブ:「何も難しい事ぁねぇぜ」
キ:「そうさ~♪愛こそ全て~♪」
ゲ:「キリちゃん、ずぅ~と同じ言葉を言ってたんやねぇ」
キ:「それしか~♪ないじゃん~♪」
それにしても・・・酷い声と酷い音程と酷い歌詞だった。
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」