水上陽平の独善雑記

水上陽平流の表現でいろいろな事を書いています。本館は http://iiki.desu.jp/ 「氣の空間」

「母のこと・47」

2011-09-10 19:38:51 | Weblog



母が病弱を抑えて頑張っても限度がある。
どうやっても足りないのだ。
長兄は進学を諦めて就職した。
少しでも家計の手伝いをするためだ。

子供達も小学生の時からアルバイトをした。
新聞配達、牛乳配達、ヤクルト配達だった。
幸知区は人数が少ないので、子供でも充分だった。
もちろん私もした。
辛いとは思わなかったが、冬は苦労した。
何しろ道がないし、吹雪時は前さえ見えない。

それでも足りなかったのだろう。
自尊心の高い母が頭を下げてお金を借りてまわった。
愚痴は言わない母だったが、辛かったと思う。
厳しく働くのは我慢できる。
それでも足りなくて、借金するのが辛いのだ。
私は身に染みている最中だから、よく解る。

        
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「母のこと・46」

2011-09-09 18:43:36 | Weblog



何でも出来ることも不思議だった。
百姓仕事、山仕事、料理、裁縫、飼育、和歌短歌など。
字も上手く、知識も広く、どこか田舎にそぐわない面があった。
私が二十歳すぎからお茶(裏千家)を習い出した事があった。
その時、母は自分もお茶を習いたかったと言っていた。
(その後私は膝の靭帯を失い、正座が耐えられなく辞めた)
生活は田舎の貧乏真っ只中だが、ハイカラな雰囲気のある母だっだ。

私が大人になってから少しずつ話してくれた。
(もっと、いろいろ整理しておけばよかった・・・)
母が言うには、最初は何も出来なかった人だったらしい。
だって、ある意味お嬢様だったのだ。
身体が弱く、まぁまぁ裕福な家庭で育ったのだ。
百姓仕事など、まともにできようはずがない。

畑仕事は姑から教わったという。
キツイ性格だったらしい(父の母親だから当たり前か)
頭の良い母だ。
一度言われれば、姑の満足の動き方は出来たようだ。
料理、裁縫などは、結婚前に一通り出来たらしい。
飼育は近所の人からも教わったと思う。
山仕事は見よう見まねでこなしていた。

        
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「母のこと・45」

2011-09-08 20:51:10 | Weblog



子供心に不思議に思っていた。
母はいつ寝ているのだろう?
朝は早くから起きて、何かしら仕事をしていた。
いわゆる野良仕事だったようだ。
当時は生活の足しにと、家畜を飼っていた。

綿羊、ウサギ、ヤギがいた。
草は山ほど必要だったはずだ。
私は憶えてないが、養蚕もやっていた。
広くはなかったが、田圃もあった。
畑も山(杉植林)もあった。
しかし、大黒柱の父はいなかった。
まぁ、いない方が安心だったが・・・

日雇いでパートもしていた。
子供達(私の兄姉)は多いのだ。
何をしても、時間が足りなかったろう。
夜は針仕事をしていたのを憶えている。
何でも縫って、何でも編んだ母だった。

        
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「母のこと・44」

2011-09-07 18:54:07 | Weblog



時代に乗れぬタイプがいる。
我が家は乗れぬ血が濃いようだ。
時代に乗ることに意欲がわかない。
そもそも、他と同じ事をする意味がわからない。
人は全て個別な存在として生まれている。
顔も形も能力も環境も感性も違う。
それなのに、他と同じように生きるには無理がある。

もちろん、他と同じようにしたいなら勝手だ。
同じなら安心は大きくなるだろう。
だが、安心と冒険は別々な道だ。
安心な道は心惹かれる。
それなのに、冒険道を選んでしまう。
そういうヒネクレた血が、我が家には流れている。

大きく経済成長して、いろいろが新しくなった。
社会の影響は当然受ける。
だが、同調が苦手な分だけ取り残された。
私など会社という組織にさえ入れない。
組織で出世も面白そうなのに・・・

技は大して無いのに、職人気質を受け継いでしまった。
職人は、自分一人で歩む部分が大きい。
他と合わせる気は、ほとんどない。
ワガママなのだ。
社会的に落ちこぼれでも、父は職人気質だった。
そして、その血は私や姉に流れていた。

        
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「母のこと・43」

2011-09-06 18:43:01 | Weblog



経済成長に伴い、多くの家が新しくなっていった。
それまで家の無い人も、小さいながらも家を持った。
外国からウサギ小屋と揶揄される家でも、次々新しく建てた。
だが、我が家は大黒柱がいない・・・
そんな大きな消費はできない。
時代から取り残されたような家のままだった。

茅葺き屋根の古い家。
囲炉裏がある家。
便所が外に作られていた家。
(半分売ったから、台所や便所や風呂場は付け足した)
家の前の畑や木々もそのままだった。

後に、新しく出来なかったことが幸いした。
このような家が無くなってしまったからだ。
我が家はとても貴重な古い家となった。
材料は元々豪華なものだったのだ。
今も陶芸家の姉のアトリエとして残れたのは幸いだ。

        
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「母のこと・42」

2011-09-05 19:10:59 | Weblog



昭和30年からの約二十年は高度経済成長となった。
幾つもの要因がある。
復興に(無理しても)頑張る労働力が大きい。
円安(固定で1ドル360円)で輸出が伸びた。
石炭から安い石油となり、工業が発達。
何もなくなっていたから消費拡大の勢いも大きい。

文化面も多方に広く発展していった。
娯楽という意識がもてる時代となったのだ。
(戦時中は娯楽禁止だった)
映画、演劇、スポーツ、音楽、文芸、マンガなどの大衆文化だ。
特に歌謡曲という部門は日本中で親しまれた。

家電というモノが、次々と家庭に入り込んだ。
テレビ、洗濯機、冷蔵庫が三種の神器といわれた。
我が家も、少しずつ新しいモノが増えるようになった。
とはいえ、肝心の大黒柱がいない・・・
父親はいるが、大黒柱にはならなかった。
だから、周囲からどんどん取り残される家となった。
私の記憶はこの頃からだから、私は生まれつきの貧乏だと思い込んだ。

        
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「母のこと・41」

2011-09-04 18:38:00 | Weblog



敗戦後の日本は混乱していた。
社会も政治(国内外)も混乱していた。
アメリカ占領下の頃から独立(1952)後も混乱していた。
共産系に係わる事柄は、特に陰謀や策謀が渦巻いていた。
もちろんアメリカの意向が大きく影響している。

自由第一ラテン系裸族の私は、いろいろ縛られるのが嫌いだ。
金を多く持ったものが威張り、貧乏人を縛るのは嫌だ。
共産系の言う、皆平等などといいながら縛るのもゴメンだ。
資本主義だろうが共産主義だろうが変わらない。
平等を謳いながら権力を握り、偉くなりたがる。
だが、裏権力による陰謀で封じ込めるやり方は、もっと嫌いだ。
そういう陰険な事件が相次いで起こっていた。

それでも国民は徐々に立ち上がっていった。
毎日、暮らしていかなければならないもの。
様々な工夫がバイタリティとなった。
何もかも破壊された状態から、急速に復興しだした。
国民のほとんどは、かなり無理して働いて経済成長をしていった。

        
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「母のこと・40」

2011-09-03 20:55:21 | Weblog


今日の独善つぶやき・・・

台風による大雨の中、
東京は品川に出張治療に。
上毛高原駅では風雨だったが、東京は少し青空
蒸し暑いが、一日ほとんど降らなかった。
みなかみに帰ってきたら、雨だった・・・

「母のこと・40」

四男として私の生まれた昭和27年(1952)。
日本国として主権を回復して、独立した年でもあった。
それまで占領していたアメリカの進駐が(一応)終わった。
もちろん各地に米軍基地が今でもあり、本当の独立ではない。
沖縄は昭和47年(1972)までアメリカ軍政だった。
もちろん、今でもほとんど米軍基地があり、本当の返還ではない。

一応、体裁だけは独立国だ。
アメリカの顔色を伺い、機嫌を損ねぬように言行する政治だ。
日本が本当に独立しているとは、世界では思っていないだろう。
占領下の何でもいいなり意識が残ったままだ。
異論は私にではなく、米ロ中あたりに言ってくれ。
弱い者(国民)には強く、強い者(米ロ中)には弱くではなぁ・・・

北方四島でも同じだ。
国際間で交わした事さえ主張できない。
未だに、ロシアにすき放題されている。
住んでいた国民は追い出されたままだ。
私は、嘗ても、今も、政治家が嫌いだ。
税金を貰っているなら、キチンと独立してくれ。
異論があるなら、行動で示してくれ。

        
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「母のこと・39」

2011-09-02 19:14:47 | Weblog



戦争は超浪費の行いだ。
人命など物資より簡単に使い捨てる。
あるいは、使わないのに焼き捨てる。
兵器という高い機具で、銃爆弾という高い消耗品を使う。
それらは、人を筆頭とする生命を殺す為に使う。
大地、海、文化物、建造物を壊す為に使う。
決して、活かす為には使えないのだ。

だから、それに伴い補給品が必要となる。
一時的な特需という需要が生まれる。
日本は敗戦後に朝鮮特需という好景気となった。
もちろん、その後は不景気になったのだが・・・
その好景気の利益をアメリカが見逃すわけがない。

戦後処理費として、敗戦直後から取り立てていた。
何も無い日本だ。
当初は一般会計の半分を無理やり取り上げていた。
好景気となった日本から、更に取り上げた。
総売り上げ以上を昭和27年までに取り上げたのだ。
勝利国というのは、まさしく鬼のような仕打ちをするのだ。
その後も日本から取り上げ続け、現在に到っている。
思いやり予算、という皮肉だかアホだかわからない名前だ。


        
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「母のこと・38」

2011-09-01 15:18:43 | Weblog



昭和28年(1953)に南北は休戦協定を結ぶ。
実質は昭和27年(1952)に停戦されていた。
だが、両国とも一つの国で二つの政権という立場だ。
いつ再開戦してもおかしくない状況のままだ。
そして、私はその停戦中(1952)に生まれた。

犠牲者は莫大になった。
戦争は双方が勝手に数を偽るから正確にはわからない。
それでも、全体(軍・民間)で400万~500万といわれる。
半島に落とされた爆弾は日本に落とした4倍。
一般市民の上に爆弾を落とすことにマヒしてしまった。
赤ちゃん、子供、女性、お年寄り、病人の上に平気で落とす。

特にアメリカは南北かまわず落とした。
彼らからは、アジア人は南北も軍も民間人も変わらないらしい。
有色人種差別意識が通常概念としてあった。
同じ人間(白人)じゃないなら、何をしてもいい。
キリストの教えは、白人にのみ通用するのだ・・・
赤ちゃんの上にナパーム弾を落として、愛を謳ってもなぁ・・・
この差別意識は、今でもある。


        
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