有名音大生が本気で、「トルコ行進曲」を弾くとこうなる。。
おはようござますZzzzz いかがお過ごしでしょうか。
貴方にとって、今日がより良い一日であります様に
実家のお墓参りに帰る。
お盆前ではありますが、訳あって早目に、実家のお墓参りに行って参りました。 実家はJR出雲市駅から神戸川をさかのぼること、約20kmの清流と緑に囲まれた自然豊かな所で、他には、何もないド田舎です。
こんな感じの道を国立公園三瓶山を目指して上ります。
山陰の耶馬渓と呼ばれる、「立久恵峡」の渓谷沿いに、どんどん上って参ります。
何もないとは申しましたが、実は出雲風土記に「須佐之男命の終焉の地」と記される、本家本元の『須佐神社:大社造り』があります。 出雲風土記によると、
「この国は私の御魂を鎮め置くのにふさわしい」と須佐之男命が仰ったとあります。
でもやっぱり・・・神社の森には、ただならぬ気配を感じるのです。
蝉しぐれを聴くと、「あぁ~、実家に帰ったんだなあ~」と、思うのであります。
蝉しぐれおはようございます!
貴方にとって、今日も善き一日であります様に。
コオニヤンマ
ニホンカワトンボ
クロハトンボ
イシガケチョウ
随分、暑くなって参りました。 公園などでは、蝉しぐれも聞こえて来ます。 蝶やトンボもよく見られる様になって参りました。
猛暑の夏も、もう直ぐそこまでやって来ています。 コロナ禍でマスク着用は必須。 熱中症にご注意を
おはようございます! !(^^)!
今日は(7・20)、32℃越えの暑い一日、皆様いかがお過ごしでしたでしょうか。
今日は、借りていた本を返す為、図書館に朝早くから出掛けました。 今日は図書館は休館日であることすっかり忘れていました。 返却ポストに本を返すと、その足で城山の探鳥パトロールに回って見ました。
先日から、城山の森に来る度に、気掛かりだった野良猫二匹。 今日もおりましたが、一人で生きて来た野良は、人を怖がり呼んでも寄って来ません。 食事は、多分野ネズミ等を捉えて食いつないでいるのでしょうか? 厳しい生活環境で健気に生き抜いておりました。 良く見ると右耳の(グレーの猫)先っぽを、食いち切られているではないですか。。。。。可愛で見ていられません。 なので、早速、「動物愛護団体」に連絡して見たいと思います。
先日から、天守の下の段の杉林の中に、一羽のアオサギが居ます。 多分、幼鳥ではないかと思います。(杉の木の上の巣から落ちた幼鳥では・・・?) 至近距離まで近づいても、ゆっくりと道を譲るだけです。 近くの内堀に餌場はたくさん有るので、小魚を捕食して生き抜いているのでしょうか。
内堀には、ご覧の様にたくさんのアオサギが、浅瀬で小魚を捕食中です。
今日の探鳥パトロールは、動物界の厳しさを思い知らされる事となりました。
遠い日の思い出
『注文の多い料理店』 序
わたしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、きれいにすきとおった風をたべ、桃(もも)いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗(らしゃ)や、宝石いりのきものに、かわっているのをたびたび見ました。
わたくしは、そういうきれいなたべものやきものをすきです。
これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです。
ほんとうに、かしわばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかったり、十一月の山の風のなかに、ふるえながら立ったりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。 ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたないということを、わたくしはそのとおり書いたまでです。
ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでしょうし、ただそれっきりのところもあるでしょうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。 なんのことだか、わけのわからないところもあるでしょうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。
けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾(いく)きれかが、おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません。
大正十二年十二月二十日 宮沢賢治
少し山道に分け入ってゆくと、かつては、人の手により植栽されたと思われる花や雑草が生い茂り、静寂の中に、ひとり取り残されたように咲き誇っているのです。
アガバンサスもアザミ(モンシロチョウ)も・・・
アベリアの花には、沢山のミツバチが蜜を吸っています。
近くには、既に使われなくなったミツバチの巣箱が・・・今は使われていない。
道の脇には、ガクアジサイが・・・
アザミの花モンシロチョウが・・・
朽ち果てた廃屋の庭では、キジバトが水浴びを・・・
過疎で失われゆく、廃屋が・・・
「廃屋」に、幼き日に見た農村(実家)の、原風景を見た様な気がする。
松江城山稲荷神社
神社創建時の逸話
1638年(寛永15年)、家康の孫・松平直政が松江に来た時、枕元に一人の美しい少年が現れたという。 その少年は「私はあなたを全ての災厄からお守りする 稲荷真左衛門 です。 城内に私の住む場所をお作りくださるなら、城内の建物はもちろん、江戸のお屋敷まで火事からお守り致しましょう」と告げて消えた。 そこで直政は城内に稲荷神社を建てたと言われている。 そのことからこの神社の「神札」は「火難除け」として、町中のどの家にも貼られていたようである。
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)もこの神札が「松江の唯一の防火設備」と話をしている。 言わば一枚の紙きれが魔除けになるとする、そんな日本人の信仰心は八雲にとって衝撃的に映った様である。 きっと枕元の謎の美少年が、今も、約束どおり松江城・松江の町を守っているに違いない。
千匹もの石の狐が社を囲むように鎮座している。 石狐は風化して苔むし、崩壊しているものもある。 かっては2000体以上有ったらしい。
小泉八雲は、城山内の散策が好きで(私と一緒(笑))、稲荷神社にも毎日のように通い、「お気に入りの石狐」があったと言われる。 松江の情緒をこよなく愛した八雲には、稲荷神社はとても神秘的な場所であった様だ。 八雲は愛妻セツ(士族の二女)やいろいろな人から怪談や昔話を聞いて、それを自分の六感で感じ取って、『知られぬ松江の面影』等に、著している。 ここ稲荷神社は、八雲の感性に合った場所の一つであり、もしかしたら・・・こうして人知れず、狐と毎日対話をする中から、インスピレーションを感じ取っていたのかもしれない。
ホーランエンヤと城山稲荷神社
松江の城山稲荷神社(御城内稲荷)で10年毎に行われる式年行事です。同神社のご神霊を船渡御によって松江市東出雲町の阿太加夜神社(あだかやじんじゃ)にお運びし、7日間の祈願ののち、城山稲荷神社にお還りになる船神事です。
初日の渡御祭は、神輿船を囲んで約100隻の船行列が壮観です。ホーランエンヤというのは、櫂伝馬船が櫂を漕ぐ時の掛け声から名づけられたとも、また「豊来栄弥」から生じたことばとも言われています。
城山稲荷神社は松平直政が寛永15年(1638)松江に入国した翌年、藩内の平穏を祈って稲荷神社を創建し、後に築城時からあった若宮八幡宮を合祀し、現在にいたっています。祭りは直政公が入府してから10年目の慶安元年(1648)の凶作により、五穀豊穣を祈って御神霊を船渡御によって阿太加夜神社に移したことに始まります。
櫂伝馬船が、曳船を努めるようになったのは、文化5年(1808(直政の入府から170年後・第八代斎恒))の御神幸の折、大橋川から中海にでる馬潟沖で風雨が激しくなり神輿船が危険になったのを馬潟の漁師が助けにでて阿太加夜神社まで無事にお送りしたことに始まります。
船行列は、城山稲荷神社から堀川を通り、大橋川へ出たが、現在は、堀川の水深が浅いこと、堀川に掛かる橋の架け替えや添架物により橋の通過が難しいこと、櫂伝馬船の大型化により狭隘区間の通過が危険であることから大橋川で御神輿をお待ちし、船行列を編成し阿太加夜神社に向かいます。
祭りの第1日目、御神霊が大橋川まで運ばれ、神輿船に移されます。船行列は、阿太加夜神社氏子船団を先頭に、清目船、櫂伝馬船、神器船、神輿船、神能船、両神社氏子船などが連なり、延々1キロに及ぶ大船団です。いずれも色とりどりののぼりや旗をひるがえし、「ホーランエンヤ」とはやしながら、賑やかに漕ぎ進みます。5隻の櫂伝馬船には、十数名の漕ぎ手、舳(へさき)に立つ剣櫂(けんがい)、艫(とも)では采を振ります。これは、代々口伝によって受け継がれてきたもので、馬潟、矢田、大井、福富、大海崎、の5地区の人たちが奉仕します。
行列は見物人の見守る中を、大橋川から中海へと進み、夕刻、阿太加夜神社へ着き、御神霊が安置されて、初日の行事を終えます。
翌日から7日間、阿太加夜神社で祭事が営まれ、中日には櫂伝馬船の乗り手も加わり、中日祭があります。
9日目は還御祭で初日と逆のコースで大橋川をさかのぼり、御神霊は城山稲荷神社にお帰りになられます。
先人積み重ねてきた文化、大衆の信仰によって支えられ、370年余りも伝承されたホーランエンヤは、厳島の管弦祭、大阪の天満天神祭とともに日本の三大船神事の一つに数えられる国内最大級の船神事で、最近では令和元年(2019)5月に開催されました。
2012年に松江城の近くにホーランエンヤ伝承館も開館しました。
今日は、初代松江藩主・松平直正公が生母月照院の霊碑を安置するため復興したと言われ、第二代藩主が、松平家・九代藩主の菩提寺とした、山陰の紫陽花寺として有名な「月照寺」に、紫陽花の花を撮りに出掛けた見ました。
この月照寺は、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)も大好きな寺であったとされ、著書「知られぬ日本の面影」にも登場しています。
この大亀が、夜な夜な境内の蓮池や、市中を徘徊したと記されています。(小泉八雲著)
コロナも府県間交流が緩和された為でしょうか、観光客で賑わいを見せていました。
なぜか浴衣姿の人が多かったです。
モデルさんです。
♥マークの紫陽花も有りました。
今日はこれにて終了。
今日も朝から雨模様
雨の似合う花は「紫陽花」が相場。。。。。と思っていましたが、案外そうとばかりは言えません。
オオデマリ
カシワバアジサイ
バラ(バレリーナ)
みんなみんな、時には雨が似合う。
人も様々。。。偶には一雨欲しいなと思う人もある。 「晴耕雨読」。。。晴れの日は畑を耕し(しかし、種を撒いたら、一雨欲しい。)、雨でも降ればゆっくり、お家で本が読める。 人様々。
今日も朝一番に一声鳴いて、「イソヒヨドリ」も雨を感じたのか、そそくさとどこかへ飛んで行ってしまいました。 とさ・・・
モンシロチョウも・・・
ポピーも・・・
コブハクチョウも・・・
カラスも・・・
カメも・・・
ニャンコも・・・(お借り画像です)
お馬さんも・・・(お借り画像です)
みんな、みんな・・・同じこの星に住む生き物なんです。 そして人も・・・そこには、優劣付け難い。(勿論、異論もありましょうが・・・) 思い遣り、みんなで大切にしましょう。 さすれば、そこには「平和が実現」するのです。
美義屋牧場の「プーちゃんです。」どうぞよろしくお願い致します。(笑)
ワンコも、人を幸せにしてくれる「癒し力「」があります。
松江城の森に探鳥に出掛けた際の一コマです。 思う様には「野鳥」は見付からず。。。馬洗い池(戦国時代に騎馬を洗った池)のところまで来た時のこと。。。タヌキ??? の様な姿を、確かに見た。 急いで撮った写真が こ れ!
生まれて初めて目にした、それは「アナグマ:ムジナ」でした。 振り返り、振り返り足早に遠ざかって行き、水路の穴に消えて行きました。
穴に消えてしまった「アナグマ」の事を、思いながら出雲には、むかし昔、こんな「民話」がある事を思い出しました。
「高田六左衛門の夢」
出雲の片田舎、高田の予頃(よごろ)という所に、六左衛(ろくざえ)という名の鉄砲撃ちがいた。
六左衛は怖いもの知らずな男で、ある冬の日のこと“鬼の穴”へ行くと言い出した。 鬼の穴とは、中に鬼が住んでいると言われる深い洞窟で、この辺りの者は誰一人として近づく者はいなかった。
六左衛は女房が止めるのも聞かず、翌朝早くに鬼の穴の中に入って行った。 ところが、真っ暗な洞窟の中で、六左衛は深い穴に落ちてしまった。 すると、落ちた穴の先にかすかな明かりが見える。 六左衛が明かりに向って歩いて行くと、そこは出口だった。
洞窟から出てみれば、そこには見事な田畑が広がる村があった。 今日は村のお祭りと見えて、村のあちこちから楽しそうなお囃子が聞こえてくる。
ところが、一軒だけ家族が泣き悲しんでいる家がある。 六左衛が事情を聞けば、この村では毎年、氏神様の祭りの夜に娘を人身御供に差し出さねばならず、今年はこの家の娘がクジに当ったのだと言う。 豪胆な六左衛は、これを聞いて自分が娘の身代わりになると言い、長持の中に入った。
真夜中を過ぎた頃、果たして社の中から二匹の化け物が現れた。 六左衛はここぞとばかり、長持に開けた穴から化け物に向って鉄砲を打った。 夜が明けてみれば、社の裏手のほら穴の中には、二匹の大ムジナが息絶えている。 これが化け物の正体だったのだ。
六左衛は村の人たちから感謝され、お土産をたくさんもらって自分の村に帰った。 するとどうしたことか、村に帰ると六左衛の家が跡形も無く消えている。近くを通りかかった爺さまに話を聞けば、その爺さまの爺さまから聞いた話で、昔、ここに六左衛という鉄砲撃ちがいたと言う。
こんなことなら鬼の穴なんかに行くんじゃなかったと、六左衛は庭の片隅にある女房の墓の前で泣いた。 すると、女房が六左衛を呼ぶ声が聞こえる。 気がつけば、六左衛は囲炉裏の前でうたた寝をしていた。 そう、これまでの事は全部、六左衛がうたた寝していて、見た夢だったのだ。
このことがあってから、六左衛は「かかあの傍(そば)が一番。」と言い、その後六左衛は、鬼の穴に行くなどと言わなくなったそうだ。
ムジナは、この他にも民話の世界によく出て来る動物で、いずれも「人を化かす。」とあり、あまりいい印象で取り扱われてはいない様だ。 ことわざにも「同じ穴のムジナ」とは、「一見違っているように見えるが、実は同類である」と言うことの例えで、主に悪い意味で用いられることが多。 これは、ムジナやタヌキが、同じ穴を住処として利用する事に由来すると言う説もある。
何れにしても、これでは「ムジナ」に立つ瀬が無いので。。。一 言・・・とても可愛い動物で、人間が近付くと一目散に逃げました。(怖かったのかも。)
映画「光をくれた人」
アリシア・アマンダ・ヴィキャンデル
映画「光をくれた人」は、二度観しました。 この女優・アリシアさんは、幼少の頃からダンサーを夢見て、留学までして頑張った人の様ですが、足を負傷してその夢を断念。 その後は、女優になる夢を追い続け、「愛をくれた人」では、遂にアカデミー助演女優賞やゴールデングローブ賞を受賞するなど、努力の人です。 諦めなければ、夢は必ず実現することを、体現してくれた人でもあります。 因みにアリシアは、この映画で共演したマイケル・ファスベンダーと、映画の公開年に結婚していますので、同時進行形で、もう一つの夢を追い続けた人なのかも。(笑)・・・・・ともあれ、映画の方はとてもいい映画でした。 一度、ご覧あれ!
さて、今日の野鳥は、必ず撮りたいと言っていた、「キジ(雉)の母衣打ち」動画が、遂に撮れましたのでUPしたいと思います。 この『母衣打ち』と言うのは、雉の雄が独特の声で鳴いた後に、両羽を体にしっかり付けてバタバタさせることを言います。
雉の鳴き声は「ケーン」という高めの音が特徴的で、他には同じ鳴き方をする鳥は見掛けません。
母衣打ちをする理由については、繁殖期などに鳴き声を出して縄張り争いのをするためであると言われています。
一方では、雌を呼び寄せるために母衣打ちをすることが多く、その母衣打ちによる鳴き声や羽の音で寄って来た雌と交尾をする為ということです。(繁殖の為の儀式の様なものです。)
おあはようございます。
今日は朝から曇天ですが、心に太陽をさあ、さあ元気で行きましょう。
バラ「エレーヌ・ジュグラリス」の花を頂きました。 このバラの花名には、話せば長~く(笑) そして深~い謂れがありまして。。。
羽衣伝説の「羽衣の松」
ひとりの漁師が、松に掛かっていた美しい羽衣を見つけ、持ち帰って家宝にしようと思いました。 その時、木の陰から天女が現れ、「私の羽衣ですから返して下さい。」と声を掛けました。 漁師は、この羽衣返すので、天人の舞を見せて欲しいとお願いします。 羽衣を身にまとった天女は舞い踊ります。 その躍動に羽衣も翻ります。 天女は徐々に天へと上がり、霞の彼方へと消えていきました。
この様な「羽衣伝説」が残っている、三保の松原(日本三大松原の一つ)にある「羽衣の松」ですが、初代は、1707年の富士宝永山噴火の際に海中に没したと伝わっています。 二代目も樹齢650年を越えて衰退し、2010年には世代交代が行われ、今は三代目の「羽衣の松」だそうです。
エレーヌ・ジュグラリスの碑
フランスの舞踏家:エレーヌ・ジュグラリス(1916年~1951年)は、日本の能に興味を持ちました。 特に西洋に数多く伝わる「白鳥伝説」に通じ、ヨーロッパの人々にも分かりやすい能楽作品の一つ「羽衣」を研究し、独自の「羽衣」を創り、各地で上演して好評を得ました。 しかし彼女は35歳という若さでこの世を去ります。
能楽・羽衣の舞台である「三保の松原」に、生前、憧れを抱いていたエレーヌの遺志を果たすために、夫のマルセルがエレーヌの遺髪を携え美保を訪れました。これを機に、1952年にエレーヌ・ジュグラリスの遺徳を忍んで記念碑が建立されている様です。
エレーヌの碑には、夫 マルセルが妻・エレーヌに捧げた言葉が、フランス語で刻まれ、石碑には以下の和訳が書かれてあると言います。
※ 美保の浦 波渡る風 語るなり パリにて「羽衣」に いのちささげし わが妻のこと 風きけば わが日々の すぎさりゆくも 心安けし ※
と、まあ。。。一輪のバラ(エレーヌ・ジュグラリス)にもこの様な、物語があるのです。
いつか静岡方面に行く機会があったら、是非とも行って見たい地です。