久し振りに図書館に立ち寄り数冊の本を借りてきた。 その中の一冊に、世界的美術家(墨を用いた抽象画)で、エッセイストでもある藤田桃紅(ふじたとうこう)の、「百歳の力」が目にとまり、(そう言えばこの著者の本以前Sさんが読後感を。。。)借りて来て今読んでいるところである。
表題の通り、藤田桃紅さんは103歳の今もお元気で、創作活動に取り組んでいらっしゃる様である。 一世紀以上も一つの道を生き抜いてきた人であり、そこには我々凡人には思いもつかない、生きるための力と知恵が隠されているのではないのだろうか。。。。。私は、読書をする時には、冒頭の(はじめに)の書き出し部分と、巻末の(おわりに)あるいは(あとがき)の部分をまず最初に噛みしめて読む、癖がついている。
それは、この部分に著者の万感の思いが綴られていることが多いからである。 そう言えば、今朝の朝ドラ「とと姉ちゃん」でも、雑誌の(あとがき)部分を編集者が遺言の様な形で、書き取らせる感動的なシーンがあった。
「百歳の力」 藤田桃紅
(はじめに)
~人生、いつどうなるかわかりません。 私の百歳なんてまったく予定外です。 きょうだいの中で一番体の弱かった自分(幾度も死線を超えてきて)が、一番長生きをしてしまった。 神様がなさることというのは、人間ごときには予想できない。 人生には。。。いかに不思議ことが多いか。 若い時には、今の私を。。。予想も予定もしない、行きあたりばったり。 出たとこ勝負でずっとやってきました。 それは高村光太郎の詩『道程』と同じです。
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ほんとうにそう、いつも高村光太郎の詩を心に思い浮かべて生きてきた。 私の前には道はない。誰かが歩いた道を私は歩いているにじゃない。 人のやったことをなぞってない。 でも生きるってそいうことです。 詩の前半は私の人生に当てはまるが、後半は私の後ろに道などない。。。なくてもかまわないと思っている。~
(おわりに) ~父が授けてくれた恐れ多き 桃紅 という雅号で書や絵の世界に入り、一世紀が過ぎて二世紀目の第一に入りました。 私が尊敬して止まない葛飾北斎は、歳を重ねるとともに自然の(花鳥風月)の少しは奥まで見ることが出来るようになった。 百歳、百十歳になればどんなものも生きた様に描けるようになろう。 どうぞ長生きをされこの言葉が嘘でないことを確かめていただきたい。と語ったと言われています。私も生きているうちにどんどんやりたいことをやろうと思っています。 まだ、ふと心にかつて見ない、美しい線が走り抜ける様に感じる時があり、それを可視のかたちにしたいと思い、それは一種、熱望というような希いでもあり、この老い、老いさらばえた私の心を駆り立てます。~ と結んでいる。
またこの本で引用された、高村光太郎の詩『道程』を紐解いてみると、短い詩(一節)の終わりの部分で この遠い道程のためにも
この遠い道程のためにも
と、祈りにも似た言葉を二度繰り返している。 光太郎の「僕の後ろに道は出来る。」という言葉、それは自分の生きる道は、自分の手で切り開くという決意であって、強い思いや思考でもあったのだろうと思われるのです。
この本を読み終わって。。。人間が生きていくと言うことは、この遥かなる道のない地平線に向かって、何一つ思い通りに行かないことが多いけれども、しかし一つ一つ努力して克服して進めば、目標が何であれ、必ずや、否、少なくとも、あの地平に辿り着けるのではないのだろうか。。。。。と希望を持つことができるのでした。
マイケル・ブーブレ:「ラストダンスは私に」