もう落ち着きましたか?と聞かれれば、漸く落ち着いてきました、と応える。
しかし、手紙にも書いたように、妻が家に居ないことが当たり前で、全く気にならなくなるということは在り得ない。
我が家では、この先永遠に妻が居ないのだ。
そこに穴が開いていることには、多分慣れるのだろう。
でも、慣れたからといって妻のことを忘れることは、絶対にない。
今はまだ家の中に、妻が暮らしていた頃そのままに遺品が置いてある。
妻のベッドはそのまま、クローゼットを開ければ衣類が掛けてある。
洗面所には妻が使っていた乳液とか化粧道具などもそのままだし
食器もスリッパもなども置きっ放しだ。
事あるごとに妻のことは想い出す。
ただ刻が経てば、その妻を想い出す度に悲しんだり涙を流したりはしなくなる、というだけのことだ。
妻が居ない、母親が居ないということは、家族それぞれの心の中にあるジグソーパズルの、肝心なピースがどうしても埋まらないということだ。
どんなに探しても、そのピースは見つからず、埋めることができない。
だから、仕方がなく肝心な部分が欠けたジグソーパズルを、それぞれが心の壁に掛けている。
いつしか、その欠けた部分が余り気にならなくなるのかもしれない。
でも何かの切っ掛けで、欠けていることに気がつき、悲しくなってしまう。
この繰り返しなのだろう。
ひょっとして僕のジグソーパズルの欠けているピースは2~3個かもしれないが、子供たちのは10個も20個も欠けているかもしれない。
それだけ母親の存在は大きいのだろうから。
パズルの欠けたピースが、永遠に埋められないと気に病んでいるのに
「そのうち自然にピースは埋まるさ(=時間が解決)」とか
「別なピースを持ってくれば、多少合わなくてもはめ込めば良いさ(=再婚)」
的な、デリカシーが欠如した発言もたまにはある。
ピースが埋められない辛さは、経験者しか分からないとは思うものの、その気遣いのなさには、憤りを感じる。
しかし、手紙にも書いたように、妻が家に居ないことが当たり前で、全く気にならなくなるということは在り得ない。
我が家では、この先永遠に妻が居ないのだ。
そこに穴が開いていることには、多分慣れるのだろう。
でも、慣れたからといって妻のことを忘れることは、絶対にない。
今はまだ家の中に、妻が暮らしていた頃そのままに遺品が置いてある。
妻のベッドはそのまま、クローゼットを開ければ衣類が掛けてある。
洗面所には妻が使っていた乳液とか化粧道具などもそのままだし
食器もスリッパもなども置きっ放しだ。
事あるごとに妻のことは想い出す。
ただ刻が経てば、その妻を想い出す度に悲しんだり涙を流したりはしなくなる、というだけのことだ。
妻が居ない、母親が居ないということは、家族それぞれの心の中にあるジグソーパズルの、肝心なピースがどうしても埋まらないということだ。
どんなに探しても、そのピースは見つからず、埋めることができない。
だから、仕方がなく肝心な部分が欠けたジグソーパズルを、それぞれが心の壁に掛けている。
いつしか、その欠けた部分が余り気にならなくなるのかもしれない。
でも何かの切っ掛けで、欠けていることに気がつき、悲しくなってしまう。
この繰り返しなのだろう。
ひょっとして僕のジグソーパズルの欠けているピースは2~3個かもしれないが、子供たちのは10個も20個も欠けているかもしれない。
それだけ母親の存在は大きいのだろうから。
パズルの欠けたピースが、永遠に埋められないと気に病んでいるのに
「そのうち自然にピースは埋まるさ(=時間が解決)」とか
「別なピースを持ってくれば、多少合わなくてもはめ込めば良いさ(=再婚)」
的な、デリカシーが欠如した発言もたまにはある。
ピースが埋められない辛さは、経験者しか分からないとは思うものの、その気遣いのなさには、憤りを感じる。