ふろしきは、シンプルなものが飽きない。
常に使っている大風呂敷は、木綿の紺、ピンク、
生成りの大あさ、空いろのリネンなど、どれも無地。
小風呂敷は、綿は柄もので、麻は無地。
分析すると、生地の素材がよいほど、シンプルでも
通用する。安物の生地では、よほど色柄がよくないと
貧相になる。
いいたいことは、表面的な色や柄だけでなく
素材自体のもっている輝かしさにももっと
スポットが当たってほしい。安い生地は
環境にも、生産者にも、文化的にも貢献しにくい
と思うので、上質のものを大切に使いつづける
選択をする消費者がふえてほしく、それは
本物に触れる環境と、教育も大切だろう。
ふろしきは、それがただエコとか便利という機能に
限った話だけでなく、中身にあわせて器のほうが
変わってゆくという在り方が、
決められた枠やテーマや社会に無理やり合わせて
心身を消耗している現代にとって、光明となる
視点であると考えています。
また、用途の決まっていないただの
四角い布が、あれやこれに見立てられて
専門の道具以上に役だってしまうことは、
決まった役割を演じているプロよりも、
真の必要に迫られて知恵と工夫を繰り出す、
素人のめくるめくエネルギーさえも
感じさせられます。
テーマやコンセプトは大切にされるものですが、
言葉や記号として抽象的で荒っぽい大枠にすぎない。
さじ加減次第で結果は天地の差が出る。
本来はそのさじ加減こそが命で、そこに後から
意味や名前や役割を与えればよい。
テーマに縛られると、共通イメージを合わせあう
だけの再現/二番煎じとなる。
道具は手足の代用で、つくる道具の形や
仕組みに悩んだら、まず体でやってみて、
それを物に置き換えれば上手くいきます。
物をもつ位置など重心の感覚は、頭で計算するよりも
手で持ってみれば一発です。ただしその精度を
高めるには、呼吸と姿勢と重心の身体感覚を
身につけている必要があります。
道具は手足でやれる分限を超えてはならないと
考えています。何かあったときに、それを
解決する専門道具がなければ取り返しがつかない、
とならないように、人のからだで修理や制御や
代用ができるべきでしょう。非常時/災害時は
それが切に感じられます。
極端にいうと、乗り物は、馬の速さと重量を
超えてしまうと、遺伝子の身体感覚を超え、
事故の規模も大きくなります。本当は、
人の走る速さと背負える重量を基準にすれば、
その周辺地域での循環を逸脱することがなく、
旅のロマンも生まれます。その視点では、
台車やリヤカーはあまりにも便利!
道具、道具といいながらも、
ふろしきは道具ではなく、材料です。
いちから、好きな道具を、
ただ結ぶだけでつくれます。
用が済んだら、ほどけば
元の材料に戻ります。
ふろしきの時間は球体。
人は誰しもが間違うので、
元に戻せるように、つくっておくとよいです。
材料にばらせるか、分解されて土に還る。
後で間違いに氣づいたとき、
後世の人が、専門の機械や技術がなくても
すんなりと元に戻せるように。
そうしていないから、プラスチック等の
ごみ拾いという、面倒な作業が生じる。
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