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カナダの生物学者、鶴牧中で講演(多摩市)

2010-11-05 | 先住民族関連
(多摩ニュータウンタイムス2010-11-04 (木) 12:16)

10月13日、多摩市立鶴牧中学校でブリティッシュ・コロンビア大学名誉教授デヴィット・スズキ博士(74)が特別授業を行った(写真)。
 スズキ博士はカナダ生まれの日系人。「人種の多様性、文化の多様性こそが人類存続の鍵だ」とのメッセージを発信、カナダ先住民の英知に環境問題の解決のヒントを見出し、環境学に初めてマイノリティの思想を取り入れた。20以上の名誉学位を持ち、09年、ライト・ライブリフッド賞(もう一つのノーベル賞とも称され、現代社会において最も火急の問題に対して現実的な解決に取り組んだ人に贈られる)を受賞。CBC(カナダ放送協会)による「存命するもっとも偉大なカナダ人」に選ばれたカナダの英雄。
 博士は10月、名古屋で開催された『生物多様性条約第10回締約国会議(CОP10)』の支援実行委員会主催による生物多様性フェア講演のため来日を果たした。多摩市教育委員会は環境教育を推進しており、鶴牧中の熱心な取り組みが今回博士の講演を実現させた。
 3年生110名が都立小山田緑地や中学校周辺の生態系を調査・発表。採取した土の中の生き物を探し、博士は「すばらしい」と称賛していた。講義の中で1年間に4万種もの生物種が絶滅し、「生物多様性」が危機的状況にあること、植物がなければ酸素が作られないことなど、40億年前の地球をイメージさせることから自然の大切さを伝えた。最後に博士の特別課外授業に生徒たちは合唱でお礼の気持ちを伝えた。同中の岩佐献造さんは「博士の“いのちの中にある地球”を読んでいたけど直接話を聴いて数倍理解出来た。土は生きていると言う言葉が印象に残った」と話し、また陳暁絹代さんは「父がカナダ出張の折り博士のことを知り、話を聞いていたがその科学者が私たちの学校に来てくれ感動です」と話した。博士のメッセージは地球を継ぐ多摩の子どもたちにもしっかり伝わったようだ。
※生物多様性条約とは生物多様性の保全を目的とした条約で、国連環境開発会議(地球サミット)に先立つ1992年5月に採択され、日本は93年5月に締結。 101101号掲載
http://www.tamatimes.co.jp/article/8638

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【幕末から学ぶ現在(いま)】(86)東大教授・山内昌之 堀利煕(下)

2010-11-05 | アイヌ民族関連
(MNS産経ニュース 2010.11.4 07:51)
 ■領土の捨て置き拒否
 徳川幕府は鎖国を唱えながら、国境や領土の観念をあいまいにするところがあった。ことに松前口と呼ばれる蝦夷地(北海道)や北蝦夷地(樺太)など北辺の地は、19世紀にロシアの影響力が浸透するに及んで、松前藩の力では先住民族のアイヌ人、ニブヒ(ギリヤーク)人、ウィルタ(オロッコ)人との関係を円滑に処理できなくなっていた。
 この難しい局面で樺太に出張し、日本の主権を守ろうとした幕吏こそ堀織部正利煕(おりべのしょう・としひろ)なのである。
 ペリー来航と同じ嘉永6(1853)年にロシアの東洋艦隊司令長官プチャーチンが長崎に入港すると、幕府は筒井政憲(まさのり)と川路聖謨(としあきら)を送って談判させた。同じころ、樺太の久春古丹(クシュンコタン、後の大泊(おおどまり))に露艦1隻が投錨(とうびょう)し、兵が上陸し駐屯地をつくった。そこで幕府は目付の堀と勘定吟味役の村垣範正(のりまさ)(のちの遣米使節)を巡見使に任命し、ロシアの南下政策に直面する蝦夷地を松前藩から公収すべきか否かを検討させた。松前藩も樺太の西岸は北緯50度、東岸は48度まで支配権を及ぼし、清国も南樺太が日本領であることを事実上認めていたようだ。
 プチャーチンが樺太現地での国境画定を希望してきたので、幕府は堀らを樺太までさらに出張させた。ところが欧州のクリミア戦争に追われるロシアは、久春古丹の守備隊を撤退させ、プチャーチンの樺太行きも取りやめになった。

 ◆樺太を探検調査し報告書
 それでも堀は1カ月も費やして樺太を探検調査した。堀らがまとめた報告書は実に素晴らしいものだ。
 「御国疆(きょう)境見込之場所」(わが国の領土と境界となる見込みの場所)の調査で感心するのは、先住民族の生活実態やロシア船渡来の状況に詳しいだけでなく、提言の内容が的確なことだ。現状では本蝦夷地(北海道)の警衛を優先し、北蝦夷地は当座の手当てにとどめるにせよ、領土を捨て置きにしていない証拠をきちんと見せておき外国の干渉に口実を与えないように工夫すべきだというのだ。具体的に力を行使できない現在、さしあたり国境の具体的画定を延期するのが得策だと政治リアリズムにも徹している(綱淵謙錠『幕臣列伝』、『函館市史』第2巻などによる)。

◆領土の実効支配主張
 堀は、将来の領土と国境の画定に備えた実際の対応策も忘れていない。樺太の先住民族はロシアに服従していないので、将来の正式領有に備え来春早々から本格的に道路を切り開き、郵便や糧米の運送に障(さわ)りが出ないように措置を講ずるべきだと主張する。領土の実効支配を口先で御題目のように繰り返すだけでは、不法な国や外国人の野心を覆すには十分ではない。それは尖閣諸島の事例で現代の日本人も毎日痛感しているところだ。堀は歴史の先を見越して実効支配の証しをきちんと立てることを毅然(きぜん)と主張したのだ。
 この現実的な意見は、安政元年の日露和親条約交渉に生かされ樺太は両国雑居地と定められ、幕府による蝦夷地再直轄(ちょっかつ)の決め手にもなった。堀がすぐ箱館奉行に任じられたのは当然である。堀が樺太でたどった足跡は興味深い。アニワ湾の久春古丹から西海岸の白主(シラヌシ)を経由して来知志(ライチシカ)に至った。北緯48度30分である。こうして堀の調査探検以来、北緯50度を日露の境界として分ける考えが日本側で浮上する。堀はいかにも江戸人らしく、ロシアの侵攻への守護神として八幡宮を勧請(かんじょう)して引き返した。堀はナヨロの海上で雄渾(ゆうこん)な詩をつくったが、綱淵氏が訓をつけた一部を挙げておきたい。
 海湾行き尽して又層峰
 万里の風塵(ふうじん) 一短●(いちたんきょう)
 吟は江山に渋して助け少なきを嘆き
 程は天地を遐(はる)かなるも能く容(い)れらるるを喜ぶ
 堀利煕は、国益を背負って海岳(かいがく)をものともせず北域に至った。万里の風塵を一本の短い杖(つえ)でしのぎながら、ロシアとの境界とすべき北緯50度に近づく堀の勇姿が寒風ふきすさぶ北冥(ほくめい)に影絵のように浮かび上がる。堀の偉業で思い出すのは、歴代の自民党政権が尖閣諸島を「捨て置き」同然にし主権の証しを公に刻まなかったことだ。野党自民党は民主党外交を追及するだけでなく、その政権下で尖閣の作為や不作為が何故に起きたのか、固有の領有権が外国の理不尽な否定に毎日曝(さら)される遠因は何なのか、自民党政権の長年の失策を堀の勇気と胆力に学びながら謙虚に検証すべきであろう。(やまうち まさゆき)
●=竹かんむりに功の力がおおざと
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/101104/acd1011040803001-n2.htm

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