北海道新聞 08/27 05:00
川をせき止めて水をためるダム。ダムというと巨大な構築物をイメージしますが、ダムの高さが15メートル未満のものをため池と呼びます。北海道では明治半ばに峰延(美唄)で水田に水を引くため池が造られ、その後、農業や発電などに使うダムが各地で建設されていきました。現在、道内には全国最多の189基のダムがあります。
日本では農業用水の渇水を防ぐため、7世紀前半から、ため池が造られたとされます。日本の国土は平地が30%程度しかなく、急峻(きゅうしゅん)なため、降った雨をためる工夫をしなければ水不足に陥ることなどが理由です。
「明治以降、こうした条件の下で『富国強兵』を図り、全国で主に利水のダムが造られました。それらは農業用水や水道水、工業用水を必要に応じて供給できるようにためる役割がありました。ダムの高低差を利用して電気を作る発電ダムもあります」と語るのは、法政大デザイン工学部の溝渕利明教授(60)です。
北海道の場合を見てみましょう。「郷土史 峰樺」(峰樺連合会)などによると、道内で最初のため池は、美唄市の峰延二号川ため池です。北海道史研究協議会の白戸仁康さん(83)は「同書に、神山惣左衛門という空知集治監(現在の刑務所)の作業指導員が二号川沿いでコメ作りを志し、1888年(明治21年)から上流部で大木を切り倒して敷き並べ、土をかぶせて川をせき止め始めた。やがて小規模なため池が姿を現し、拡張工事に発展した経緯が記されている」と説明します。
こうして空知・上川地方に稲作が広がり、水田面積が増えるに伴って、1913年(大正2年)に道庁の東桜岡第一ダム(旭川)が竣工(しゅんこう)しました。土で堤体を造った高さ17・4メートルの農業ダムです。翌年には岩見沢などにも造られました。
第1次世界大戦で電力需要が高まると、18年に発電用の王子製紙の千歳第3ダム(千歳)などが完成。23年には上水道用の高さ25・3メートルの笹流ダム(函館)が建設されました。溝渕教授は「日本初で国内に数基しかないバットレスダム。構造美は必見」と言います。縦横に組み合わせた「バットレス」と呼ぶ壁で水の荷重を支える構造で、分厚いコンクリートのダムに比べて、当時高価だったセメントを節約しています。
第2次世界大戦が勃発し、国内の労働力が不足すると、上川管内東川町の工事では中国人の強制労働が行われました。「44年、忠別川から水田に引くかんがい用水の水温を上げ、冷害を回避する目的の温水ため池工事で、多くの中国人が犠牲になりました」と元東川町史編集専門員の西原義弘さん(77)は話します。
日本ダム協会によると、現在道内にあるダム189基のうち戦前に竣工したのは37基で、多くは戦後に造られました。大規模な発電ダムの建設も相次ぎ、63年には高さ61・2メートルの北電の奥新冠ダム(日高管内新冠町)も竣工しました。道内でも米国の流域総合開発に倣って、洪水調整など多目的ダムの建設が進められてきました。
98年に運用を開始した日高管内平取町の二風谷ダムは、土地の収用を巡って裁判が行われました。原告の故萱野茂さんの次男で、萱野茂・二風谷アイヌ資料館の萱野志朗館長(62)は「いまはダムの底に眠る場所で、かつて舟下ろしの伝統儀式『チプサンケ』が行われていました。アイヌ文化にとって土地はそれぞれに固有の意味をもつのです」と語ります。二風谷ダム裁判で札幌地裁は、アイヌ民族を先住民族と認め「伝統的な文化を享有する権利」も認めて土地の収用を違法としました。
近年は異常気象が頻発し、ダムの治水機能が見直されています。自然や文化とダムがどのように共生するのが望ましいのかを、考えさせられます。
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/454025
川をせき止めて水をためるダム。ダムというと巨大な構築物をイメージしますが、ダムの高さが15メートル未満のものをため池と呼びます。北海道では明治半ばに峰延(美唄)で水田に水を引くため池が造られ、その後、農業や発電などに使うダムが各地で建設されていきました。現在、道内には全国最多の189基のダムがあります。
日本では農業用水の渇水を防ぐため、7世紀前半から、ため池が造られたとされます。日本の国土は平地が30%程度しかなく、急峻(きゅうしゅん)なため、降った雨をためる工夫をしなければ水不足に陥ることなどが理由です。
「明治以降、こうした条件の下で『富国強兵』を図り、全国で主に利水のダムが造られました。それらは農業用水や水道水、工業用水を必要に応じて供給できるようにためる役割がありました。ダムの高低差を利用して電気を作る発電ダムもあります」と語るのは、法政大デザイン工学部の溝渕利明教授(60)です。
北海道の場合を見てみましょう。「郷土史 峰樺」(峰樺連合会)などによると、道内で最初のため池は、美唄市の峰延二号川ため池です。北海道史研究協議会の白戸仁康さん(83)は「同書に、神山惣左衛門という空知集治監(現在の刑務所)の作業指導員が二号川沿いでコメ作りを志し、1888年(明治21年)から上流部で大木を切り倒して敷き並べ、土をかぶせて川をせき止め始めた。やがて小規模なため池が姿を現し、拡張工事に発展した経緯が記されている」と説明します。
こうして空知・上川地方に稲作が広がり、水田面積が増えるに伴って、1913年(大正2年)に道庁の東桜岡第一ダム(旭川)が竣工(しゅんこう)しました。土で堤体を造った高さ17・4メートルの農業ダムです。翌年には岩見沢などにも造られました。
第1次世界大戦で電力需要が高まると、18年に発電用の王子製紙の千歳第3ダム(千歳)などが完成。23年には上水道用の高さ25・3メートルの笹流ダム(函館)が建設されました。溝渕教授は「日本初で国内に数基しかないバットレスダム。構造美は必見」と言います。縦横に組み合わせた「バットレス」と呼ぶ壁で水の荷重を支える構造で、分厚いコンクリートのダムに比べて、当時高価だったセメントを節約しています。
第2次世界大戦が勃発し、国内の労働力が不足すると、上川管内東川町の工事では中国人の強制労働が行われました。「44年、忠別川から水田に引くかんがい用水の水温を上げ、冷害を回避する目的の温水ため池工事で、多くの中国人が犠牲になりました」と元東川町史編集専門員の西原義弘さん(77)は話します。
日本ダム協会によると、現在道内にあるダム189基のうち戦前に竣工したのは37基で、多くは戦後に造られました。大規模な発電ダムの建設も相次ぎ、63年には高さ61・2メートルの北電の奥新冠ダム(日高管内新冠町)も竣工しました。道内でも米国の流域総合開発に倣って、洪水調整など多目的ダムの建設が進められてきました。
98年に運用を開始した日高管内平取町の二風谷ダムは、土地の収用を巡って裁判が行われました。原告の故萱野茂さんの次男で、萱野茂・二風谷アイヌ資料館の萱野志朗館長(62)は「いまはダムの底に眠る場所で、かつて舟下ろしの伝統儀式『チプサンケ』が行われていました。アイヌ文化にとって土地はそれぞれに固有の意味をもつのです」と語ります。二風谷ダム裁判で札幌地裁は、アイヌ民族を先住民族と認め「伝統的な文化を享有する権利」も認めて土地の収用を違法としました。
近年は異常気象が頻発し、ダムの治水機能が見直されています。自然や文化とダムがどのように共生するのが望ましいのかを、考えさせられます。
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/454025