玄侑宗久(げんゆう そうきゅう:僧侶、芥川賞受賞作家)氏の「サンショウウオの明るい禅」(海竜社刊)を読んでいたら、「深追いしない」という項目立てがあった。
その趣旨は、「"深追いしない"ということは、諦めるということではなくて、事をなすには最も適した時があるので、大人はその時をあわてず待つ」というものだった。
仏教的にいえば「判断停止」ということだそうだ。
しかし、これは言うは易いが実行はなかなか難しい。
たとえば自分の場合だと20~30代にかけてそれはもう、欲しくて欲しくてたまらないオーディオ機器があったが、残念なことに安月給の身でおいそれと簡単に手に入る代物ではない。
こういうときにあっさり「判断停止」ができると良かったのだが、それもかなわず結局、手の届く範囲の中途半端な機器で間に合わせてしまい、以後、クセになって入れ替わり立ち代り2~3年おきの購入と下取りの連続となってしまった。
それはそれで結構楽しかったが、今になって振り返ってみると随分と無駄に近い投資の繰り返しだったと悔やまれる。
どうせ50歩100歩、似たり寄ったりの結果なのであのときのお金を貯めて後年、ドカ~ンと一気に投資すればたいへん効率的だったのにとつくづく思う。まあ、結果論だが。
それはともかく、「深追い」という言葉はいろんなイメージを膨らませてくれる。一般的な意味としては「未練を断ち切れずにどこまでも追いかける」と解していいだろう。
広辞苑では「深く追求すること」とあり、わざわざ括弧書きで、多く、度を過ごしてするときにいうとある。「深追いは危険だ」ということわざも添えてある。
深追いする対象もいろいろありそうだ。良い方のイメージとしてはいろんな技術開発はまずもって研究者が深追いしたことによる成果だろう。文明の発展は「深追い」を抜きにしては語れない。
ところが、人間を深追いした場合はどうだろうか。「深追いは危険」の適用はこのことかもしれない。
たとえば、情と名がつく義理人情、愛情、友情、親愛の情、広義の意味で信用もこれに入るかもしれない。いずれも人の心が絡んでいる。
ある脳科学者によると世の中で「人の心を読む」ほど難しいものはないそうだ。
これらの「情」を深追いする場合の一番の特徴は、まず採算が度外視されてお金が尺度にならないことだろう。「人の心はお金で買えない」とあるように理屈や理性抜きの世界。
よくニュースなどで男女間の別れ話のもつれから、ストーカー行為とか刃傷沙汰など数え切れないほど報道されているのがその証明。まさに「愛と憎しみは紙一重」。
大半が女性の方が被害者である。ということは男性の方が深追いしがちな傾向にあるのだろうか。良い、悪いは別にして情熱の持続性や冒険心がより強いのかもしれない。
ほら、「女心(おんなごころ)と秋〔飽き〕の空」という言葉もあるでしょう。
とにかく情に対する深追いは要注意だが、リアルな裸の人間味も垣間見えて情緒っぽい面もあるのでこの世から一掃されるのも何だか味気なし。
「熱願冷諦」という言葉がある。その意は、求めるときはひたむきに求めてやまないが、どうしても許されぬとさとると「そうかい、それならそれでよろしい」ときっぱり思い切ることだそうだ。
なかなかの境地でこれだと世の中、万事波乱なくうまく回りそうだが、いさぎよく諦めるのはいいとしても、そもそも加齢とともに「ひたむきに求める」ものが随分と少なくなってくるのも何だか淋しい。
昔はあれもこれもと随分欲しかったオーディオ機器が最近はトンと脳裡に浮かんでこない。
何とか「冷願冷諦」にはなりたくないものだが。