共 結 来 縁 ~ あるヴァイオリン&ヴィオラ講師の戯言 ~

山川異域、風月同天、寄諸仏子、共結来縁…山川の域異れど、風月は同天にあり、諸仏の縁に寄りたる者、来たれる縁を共に結ばむ

今日はショスタコーヴィチの誕生日〜初めての交響曲《交響曲第1番》

2022年09月25日 12時12分12秒 | 音楽
昨日の雨天から一転して、今日は穏やかな晴天に恵まれました。ここ数日の偏頭痛も落ち着いて、だいぶ心地よく過ごせる休日となりました。

ところで、今日9月25日はショスタコーヴィチの誕生日です。



ドミートリイ・ドミートリエヴィチ・ショスタコーヴィチ(1906〜1975)はソビエト連邦時代の作曲家です。

ショスタコーヴィチは1906年9月25日、ポーランド系で度量衡検査院主任の父親とペテルブルグ音楽院を卒業したピアニストの母親との間に誕生しました。ドミートリイ少年は9歳から母親にピアノを習い始めると異常なほどの上達ぶりをみせ、さらに作曲にも大きな関心を示して《自由の賛歌》というピアノ曲を書きあげました。

1915年に私立の学校とグリャッセルの音楽学校という二つの学校に通い出したショスタコーヴィチは、1917年、二月革命で警官が子供を殺害するという事件に衝撃を受けて《革命の犠牲者の行進曲(葬送行進曲)》というピアノ曲を作曲しました。1919年には母親の出身校でもあるペトログラード音楽院に入学し、ピアノと作曲を学びました。

この頃から作曲活動も活発になり、ピアノ曲のほか、未完に終わったオペラ《ジプシー》やオーケストラ伴奏歌曲、リムスキー=コルサコフ作品のオーケストラ編曲も行いました。1922年に父親が亡くなったことによってショスタコーヴィチ家の経済状態は貧窮に陥りますが、指導教員でもあったアレクサンドル・グラズノフ(1865〜1936)が手をさしのべてくれたおかげで学業を続けることができました。

1925年には作曲科を修了し、卒業作品の《交響曲第1番》作品10の初演は大成功を収めました。この作品はソヴィエトだけでなく西欧でも演奏されたことでショスタコーヴィチの名一躍世界に広まり、これが作曲家としての本格的なデビューになったといえるでしょう。

1926年春に新設された大学院に入学したショスタコーヴィチは、《交響曲第1番》の成功にも関わらず、ピアニストとしての実力の高さからも進路を決めあぐねていました。翌1927年1月には第1回ショパン・コンクールに参加しますが、急性盲腸炎のためいつも通りには弾けず、結局第1位にはレフ・オボーリン(1907〜1974)が選ばれて、ショスタコーヴィチは特別賞を受賞することになりました。

受賞後、新作の《ピアノ・ソナタ第1番》作品12を各地で演奏する一方、1927年3月末には国立出版所音楽部門から、その年の秋に控えた十月革命10周年記念式典で演奏される作品の作曲を委嘱されました。同年にはピアノ組曲《アフォリズム》作品13を書き上げ、大胆なオペラ《鼻》作品15にも着手しました。

同じ1927年の8月から9月、ショスタコーヴィチはレニングラード近郊のデッツコエ・セロのサナトリウムで盲腸炎手術後の休養をとっていましたが、同地で工業大学の物理の学生ニーナ・ヴァルザルと出会い、のちの結婚へと繋がって行きます。この年の暮れにはスターリンによる独裁体制も始まりましたが、これがその後のショスタコーヴィチの作曲家人生を大きく翻弄し苦悩させることとなります。

そんなショスタコーヴィチの誕生日である今日は、処女作ともいえる《交響曲第1番》をご紹介しようと思います。先程も書きましたが、《交響曲第1番》作品10は音楽院の卒業制作作品として発表されたものです。

1924年の夏にショスタコーヴィチはクリミア半島で結核の療養をしていましたが、回復後にレニングラードへ戻った直後の10月に音楽院の卒業も控えていたため、交響曲の作曲に着手することとなりました。第1楽章と第2楽章は同年12月初旬に、翌1925年1月に第3楽章をそれぞれ完成させ、第4楽章は本人が友人に宛てた手紙の中で

「一向に進んでいない」

と漏らしていたほど作曲に行き詰っていましたが、3月下旬には1週間ほどで一気呵成に書き上げました。

1925年5月6日、音楽院作曲科の卒業試験で2台ピアノ用に編曲した本作がグラズノフやマクシミリアン・シテインベルク(1883〜1946)らを前に披露されました。その時の反応は様々だったものの結果は概ね良好で、公開演奏が決定しました。

しかしグラズノフから

「序奏部が斬新すぎる」

という理由で、和声法の規則に則って自らが和声付けをした部分を示してその箇所を訂正するよう要求されてしまいました。ショスタコーヴィチはその意見に渋々従ったものの、結局公開演奏の直前に本来の和声に戻してグラズノフの意向を完全に無視して初演してしまったため、グラズノフは機嫌を害してしまったといいます。

《交響曲第1番》作品10は1926年5月12日、ニコライ・マルコの指揮によるレニングラード・フィルハーモニー交響楽団の演奏によって初演されると熱狂的な反応を得て大成功を収め、第2楽章がアンコール演奏されました。この交響曲の発表によりショスタコーヴィチは『現代のモーツァルト』と喧伝され、成功と同時に作曲者の名を国際的に知らしめることになりました。

また当時レニングラード・フィルに客演していたブルーノ・ワルターはこの交響曲に感銘を受けて、1927年5月5日にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮して国外初演を行いました。このワルターの演奏をきっかけとして、オットー・クレンペラー、アルトゥーロ・トスカニーニ、レオポルド・ストコフスキー、アルバン・ベルクといった様々な指揮者や作曲家から賞賛されて西側への紹介が行われ、ショスタコーヴィチは音楽界に衝撃的なデビューを果たすこととなりました。

第1楽章や終楽章での金管楽器の輝かしい旋律は、後の大曲《交響曲第5番》を彷彿とさせるものがあります。また、第2楽章や終楽章ではオーケストラの中でピアノが大活躍しますが、これも優れたピアニストだったショスタコーヴィチならではの使い方といえるでしょう。

そんなわけで、今日はショスタコーヴィチの《交響曲第1番》作品10をお聴きいただきたいと思います。20世紀の音楽界を震撼させた、若き日のショスタコーヴィチのデビュー作をお楽しみください。



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