共 結 来 縁 ~ あるヴァイオリン&ヴィオラ講師の戯言 ~

山川異域、風月同天、寄諸仏子、共結来縁…山川の域異れど、風月は同天にあり、諸仏の縁に寄りたる者、来たれる縁を共に結ばむ

今日はドビュッシーの交響詩《海》の初演日〜ハイティンク指揮によるライブ

2022年10月16日 12時35分12秒 | 音楽
今朝はライトグレーの雲が空一面に広がっていましたが、昼頃には陽も差してくるようになりました。こんな気持ちのいい日は久しぶりなので、今日は溜まっていた洗濯物を一気に済ませてしまいました。

ところで、今日10月16日はドビュッシーの作曲した交響詩《海》〜管弦楽のための3つの交響的素描〜が初演された日です。交響詩《海》は、


フランスの作曲家クロード・ドビュッシー(1862〜1918)が1905年に書き上げた管弦楽のための作品です。

1902年に発表した歌劇《ペレアスとメリザンド》の成功でフランス国内における作曲家としての名声をさらに確固たるものにしたドビュッシーは、翌1903年8月にこの交響詩の作曲に着手しました。9月に知人に宛てた手紙には

1.サンギネール諸島付近の美しい海
2.波の戯れ
3.風が海を踊らせる

という3つの楽章で構想を練っていることが記されています。

このうち第1楽章のタイトルは、後にフランスの詩人カミーユ・モークレール(1872〜1945)の小説と同じ『海の夜明けから正午まで』に変更されています。このため、作品そのものがモークレールの小説に何らかのインスピレーションを受けたと指摘されたり、初版のスコア(総譜)の表紙デザインにドビュッシー自身の希望により



葛飾北斎(1760〜1849)の浮世絵『富嶽三十六景』から「神奈川沖浪裏」の一部が用いられたことから、この作品からインスピレーションを受けたと指摘されたりしていますが、いずれも真偽のほどは定かではありません。

19世紀後半にヨーロッパで流行した『ジャポニスム』と呼ばれる日本趣味は、フランス国内においても顕著でした。浮世絵をはじめとする日本の美術作品が万国博覧会などを通じて紹介されると、美術をはじめとするフランスの芸術家たちに大きな影響を与えました。

特にドビュッシーが活躍したパリでは1878年、1889年、1900年とほぼ10年ごとに万国博覧会が開催されていて、当時の芸術家たちは日本文化をはじめとしたヨーロッパ以外の文化に触発されるよい機会になったようです。それはドビュッシーも例外ではなく、自宅を訪れたストラヴィンスキー(下写真右)と撮った写真を見ると



スコアの表紙に使った北斎の「神奈川沖浪裏」が壁に飾られているのが分かります。

私生活におけるドビュッシーは1889年に、リリーの愛称で呼ばれていた11歳年下の女性マリー=ロザリー・テクシエと結婚していました。その一方で、交響詩《海》を作曲中の1904年には銀行家の夫人で歌手でもあったエンマ・バルダックと不倫関係にもありました(彼女はそれ以前に、同じフランスの作曲家ガブリエル・フォーレ(1845〜1924)とも愛人関係にあった女性です)。

1904年7月にエンマと駆け落ち同然の逃避行に旅立ったドビュッシーでしたが、9月にパリに戻った後の10月には妻リリーがピストルによる自殺未遂を図り、この事件でエンマとの不倫関係は広く世間に知られることになりました。大きなスキャンダルに発展したことで世間の批判を一身に浴びたドビュッシーでしたが、結局はこの交響詩《海》を書き上げた1905年にはリリーとの離婚が成立し、後年エンマと再婚することになりました。

交響詩《海》は、そんな1905年の10月16日に初演されました。しかし、前作の歌劇《ペレアスとメリザンド》に続くような作品を期待していた聴衆からの評価は芳しいものではなく、その年の内に行われた再演でも聴衆や批評家から理解を得ることは出来ませんでした。

初演の失敗による失意のためか、その後のドビュッシーの創作活動は途端に低調なものになりましたが、1908年には再演が決まりました。しかし、再演したコロンヌ管弦楽団の指揮者エドゥアール・コロンヌ(1838〜1910)はリハーサルの段階でも曲をまとめることができず、結局公演は延期された上でドビュッシー自身が指揮をすることになりました。

作曲者自身の指揮による再演は初演時と打って変わって大成功を収め、回を重ねるとともにドビュッシーを代表する管弦楽作品としての評価を得ていくことになりました。楽譜は1905年に管弦楽版とピアノ連弾版が出版された後、この作品が再評価された後の1909年に、ドビュッシーの友人で作曲家、指揮者のアンドレ・カプレ(1878〜1925)による2台のピアノのための編曲版と、ドビュッシー自身による管弦楽の改訂版が出版されました。

第1楽章『海上の夜明けから真昼まで』は、木管からミュート(弱音器)を付けたトランペットへ受け継がれる静かに漂うような旋律と、その背後でうごめく低弦楽器のトレモロが夜明け前の薄暗さを象徴するように始まります。

第2楽章『波の戯れ』は、様々な色彩に変化をみせる旋律の断片が複雑に絡み合ったような印象を受けます。

第3楽章『風と海の対話』は、不気味にうごめく打楽器と低弦楽器が来るべき嵐を予兆するように始まると第1楽章冒頭で現れた動機が再現され波は徐々に大きなうねりになって嵐になっていき荒れ狂う嵐が収まると海は再び美しく神秘的な表情をみせた後に音楽はドラマティックに高揚していき、再び激しさを増しクライマックスを迎えます。

そんなわけで、今日はドビュッシーの交響詩《海》をお聴きいただきたいと思います。ベルナルド・ハイティンクの指揮によるアムステルダム・ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団のライブ演奏でお楽しみください。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日はカール・リヒターの誕生日〜ノイペルトチェンバロによるバッハ《イタリア協奏曲ヘ長調》BWV971

2022年10月15日 16時00分30秒 | 音楽
今日は朝は少し冷えこんだものの、日中はそこそこ気温が上がりました。夏服をしまい込んでしまわなくてよかったと、密かに思ったくらいの暖かさとなりました。

ところで、今日10月15日はカール・リヒターの誕生日です。



カール・リヒター(1926〜1981)は、ドイツの指揮者、オルガン・チェンバロ奏者です。

1926年にドイツのプラウエンに生まれたリヒターは、父が牧師をしていたこともあって11歳から教会の附属学校に通い音楽を学びはじめました。その時に、後にライフワークとなるバッハの音楽に触れていたようです。

幼少期から音楽を学んだカール・リヒターは、1946年20歳の頃にライプツィヒの音楽学校に入学。3年後の1969年には教会音楽の試験に合格して、教会専属のオルガニストとして働きました。

その後、大きなコンクールで優勝したリヒターは、東ドイツの政治体制から離れるために西ドイツに移動し、ミュンヘンにある音楽大学で講師として教壇に立ちました。1950年代初頭から合唱団の指揮者を任されるようになったリヒターは、ミュンヘン・バッハ管弦楽団を設立し、この頃から積極的にレコード録音を行うようになりました。

30歳になったリヒターは勤めていた大学の教授に昇進し、ミュンヘン・バッハ管弦楽団を率いてアメリカへ演奏旅行をするなど、精力的に音楽活動を行いました。音楽家として経験を積んだリヒターは、当時バロック音楽を専門としていたアルヒーフレーベルでバッハの《マタイ受難曲》を録音し、リヒターの代表的作品となって現代まで語り継がれています。

リヒターはバッハの作品の中でも特にカンタータを積極的にとりあげていて、20年以上の歳月をかけて、およそ70曲の収録を行いました。晩年は心臓発作や目の手術などで一時活動を中断しながらも演奏活動を続けましたが、1981年に滞在先のホテルで心臓麻痺を引き起こして54歳という若さでこの世を去りました。

さて、先程から述べているように



リヒターといえばバッハです。ということで、今日は様々なリヒターの演奏の中から《イタリア協奏曲ヘ長調》をとりあげようと思います。

ご存知の方も多いかと思いますが、《イタリア協奏曲ヘ長調》BWV 971はバッハ作曲のチェンバロ独奏のための全3楽章の協奏曲で、原題は《イタリア趣味によるコンチェルト(Concerto nach Italienischem Gusto)》といいます。《フランス風序曲ロ短調》BWV 831と共に『クラヴィーア練習曲集第2巻』として、1735年に出版されました。

曲中には「フォルテ(強奏)」と「ピアノ(弱奏)」の指示があるのですが、これは器楽合奏の協奏曲における楽器群の対比表現を、2段鍵盤のチェンバロを用いて模倣するものとなっています。この曲はバッハが存命時にも人気があり、

「単一の楽器で演奏する協奏曲の最大、最高の曲である」

という賛辞も送られていたようです。 

というわけで、今日はカール・リヒターの演奏による《イタリア協奏曲ヘ長調》をお聴きいただきたいと思います。リヒターが愛奏した



ノイペルトモダンチェンバロによる、重厚な響きをお楽しみください。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

心安らぐバッハ《ヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのためのソナタ第1番ト長調》BWV 1027

2022年10月14日 20時00分02秒 | 音楽
今日も一日曇りがちで、気温も言うほどには上がりませんでした。そんな中でも子どもたちは今月末に開催予定の運動会に向けて練習をしていましたが、半袖半ズボンの体操服姿の子どもたちは一様に寒そうにしていました。

子どもたちは主にダンスを練習していました。ただ、どれもこれもいわゆる流行りの音楽にのせてのものなので、申し訳ないのですがアラフィフのオジサンにとってはちょっとおやかましいものばかりなのです。

そんな音楽を聴き続けて帰宅した頃には、耳がすっかり疲れてしまっていました。なので、とにかく心安らぐ音楽が聴きたくていろいろと探した結果、



やはり聴きたくなったのはバッハでした。

夕方になっていたこともあって協奏曲や管弦楽といった大編成のものではなく、落ち着いた室内楽が聴きたくなりました。なので今日は



ヴィオラ・ダ・ガンバのためのソナタを聴くことにしました。

バッハがケーテンの宮廷に務めていた時 (1717〜1723)に、その宮廷楽団にはヴィオラ・ダ・ガンバの名手カール・フリードリヒ・アーベル(1682〜1761) が在籍していました。また当主のケーテン公レオポルトもヴィオラ・ダ・ガンバを嗜んだことから、バッハは3曲の《ヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのためのソナタ》を1720年頃に作曲したと一般的に言われています。

その中でも第1番ト長調は唯一バッハの自筆譜が残っていますが、音楽の特徴から考えるに、現在では失われた2つのヴァイオリンと通奏低音のためのソナタが原曲なのではないかといわれています。この作品と同じ曲に《2つのフルートと通奏低音のためのソナタ ト長調》があるのですが、これも同じ原曲の編曲の可能性があります。

優しい印象のメロディと折り重なるような16部音符の下降音型が特徴的な第1楽章、一歩ずつ踏みしめるような通奏低音にのって紡がれる心弾むようなメロディが心地良い第2楽章、ホ短調の上行音型が静かに歌われる第3楽章、弾むような主題でフーガを展開していく第4楽章と、どこをとっても魅力的な音楽が展開されていきます。恐らく、レオポルト公もニコニコしながら演奏していたのではないでしょうか。

そんなわけで、今日はバッハの《ヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのためのソナタ第1番ト長調》をお聴きいただきたいと思います。ジョナサン・マンソンのヴィオラ・ダ・ガンバ、トレヴァー・ピノックのチェンバロでの演奏でお楽しみください。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

撮っておくものですね

2022年10月13日 19時35分45秒 | 日記
火曜日にも放課後子ども教室がスタートしましたが、今日から違う小学校での放課後子ども教室もスタートすることとなりました。火曜日は普段勤めている小学校と同じ場所なので問題ないのですが、木曜日に行くことになった小学校は結構辺鄙な場所にあるところです。

大人たちが少し早目に現場入りして教室の除菌作業を始めとした準備をしていると、子どもたちがゾロゾロとやって来ました。出席をとって席に着かせてから初回ということで先生たちの自己紹介をした後、各々宿題やプリントをさせていました。

さて、子どもが何人か集まると一筋縄ではいかない子どもというのはどこにでもいるものですが、今回の教室にも大人の言うことをきこうとしない子がいました。一応宿題に手はつけたのですが、明らかに計算が間違っているにもかかわらず

「ボクはやった。」

と言い張ってガンとしてやり直そうとはしなかったのです。

はじめは他の先生が対応していたのですが、どうにも言うことを聞かないので疲れてしまったようで、私にヘルプが回ってきました。最初は私もやり直しをさせようとしたのですが、何としてでもやらずに過ごす気満々で一向に手をつけようとしません。

こういう時にはある程度引いてみるのも一つの手なのですが、ただ引いただけでは芸が無いので、どうにかテンションを上げる方法はないものか…とその場で考えました。そして、ふとその子が海老名にある小田急ロマンスカーミュージアムのファイルを持っていることに気づきました。

私:「ロマンスカーミュージアム、行ったことあるの?」

子:「うん。」

私:「そうか。そういえば、今日こんな写真撮ったんだけど見る?」

と言って私が見せたのが



これです。これは、今日出勤する時にたまたま本厚木駅のホームで撮った写真で、上り線に東京メトロ千代田線にも乗り入れているMSEが、下り線に現在では数少なくなった展望席のあるGSEが並んで停まっていたところを何の気無しに撮っておいたものです。

写真の効果はてきめん、これを見た途端

子:「スゲー!MSEとGSEが並んでる!」

私:「今日ここに来る時に、たまたま駅に停まってたロマンスカーを写真に撮ったんだよ。」

と話が弾み、そこからロマンスカートークが炸裂しました。その流れで

子:「今日家に帰ったらロマンスカーの動画観るんだ。」

という話になったので、

私:「そうか、じゃあここで宿題キチンと直しておいた方が、なんにも心配しないで動画観放題できるんじゃないの?」

と水を向けてみました。

一瞬フリーズしていましたが、その後

子:「そうだね。じゃあやっちゃおう。」

と言って間違い直しに着手し始めました。

結果的に全員が宿題を終わらせ、初日の放課後子ども教室は何とか無事に終了しました。子どもたちを送り出してから部屋の掃除と除菌作業、反省ミーティングをして解散しました。

何だかモノで釣ったような感じになってしまいましたが、とりあえず突破口を見いだせたことはよかったと思います。火曜も木曜もまだ始まったばかりですが、これから子どもたちの特質を注視しながら、楽しんでもらえる教室運営を目指そうと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヤメてくれ小田急…

2022年10月12日 18時35分18秒 | 日記
今日は昨日よりもグッと気温が下がり、Tシャツ一枚では肌寒く感じるような一日となりました。今日は体育の時間があって子どもたちは半袖短パンの体育着姿が長かったのですが、子どもたちは口々に

「寒い〜!」

と大騒ぎしていました。

それでもどうにか6時間目までカリキュラムをこなして子どもたちを下校させた後、教室の掃除やら申し送りやらをして学校を出ました。そして小田原駅に到着すると…



何だか改札口前が騒々しくなっていました。

『もしや…。』

と嫌な予感しかしない中で電光掲示板を見てみると



なんと伊勢原〜愛甲石田駅間で信号設備故障と停電のダブルコンボで、本厚木〜秦野間で運転を見合わせていたのです。折り返し運転や振替輸送も案内されていたものの、私が帰るのはよりにもよって運転見合わせなうの本厚木…ハイ、詰みました(泣)。

掲示板を見ても



運転再開見込みは『調査中』。何でも、人身事故や接触事故なら警察が来てチャッチャと捜査してくれればどうにかなるのですが、設備故障となると専門家が現地に赴いて状況判断するまでは

「◯時□分頃に運転を再開します。」

という具体的な時間のアナウンスができない…とのことでした。

こういう時に必ず湧いて出る『駅員に噛みつく無意味な暇人』もいたようですが、彼らに噛みついたところで電車が運転再開するじゃなし。なので、こちらは諦めて小田原駅のホームで運転再開を待つことにしました。

そして、程なくして

「16:30頃に運転再開の予定でございます。」

というアナウンスがあり、かなりダイヤはシッチャカメッチャカながらも、どうにかこうにか運転が再開されました。そこから更にしばらく時間をおいてようやく電車が動き出し、本厚木駅に到着した頃には18時を回っていました。

今日は横浜あざみ野の音楽教室が休みの日なので久しぶりに自宅へ直帰できると思っていたのですが、思わぬ邪魔に入られてしまうかたちとなりました。無事に帰宅はできたものの、何だかものすごく疲れた一日となってしまったのでした…。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初放課後子ども教室と桔梗の花

2022年10月11日 18時18分18秒 | 
今日の小田原は天気予報のような夏日にはならなかったものの、それでもカラッとした暑さとなりました。休み時間に外をすっ飛んで遊んでいた子どもたちは結構汗だくになり、朝にはつけていなかった冷房を慌ててつけたくらいでした。

さて、今日から3年ぶりの放課後子ども教室がスタートしました。が、予想通りというか何というか、とにかく大人も子どももシッチャカメッチャカでした。

先ず、子どもたちが教室に来るのが大人たちの想定よりもたいぶ早く、受け入れ態勢を整える間もなくグダグダに教室がスタートしてしまいました。また、本来なら来るはずの子が一人忘れて帰ってしまったようで、出席簿と人数が合わなくて大騒ぎになったのです。

加えて、教室用においてあるプリンターの調子が突然悪くなってプリントのコピーがとれなくなるという不具合まで起こしてくれて、とりあえずその場にあるものでどうにか対応しなければなりませんでした。そんなアクシデントが頻発した中で大人も子どもも探り探り状態だったので、教室終了時には大人たちはすっかりくたびれ果ててしまったのでした。

子どもたちを学童保育や帰宅組に送り出して掃除を済ませてから、今日の反省点を洗い出しました。大人側の平均年齢が高くて子どもたちの勢いに追いつかないところがあったので、その部分に関してはこちらでフォローをすることになったのですが、フォロー組もアラフィフが殆どなのでそれはそれで大変です…。

次回に向けての課題を共有して解散した頃には、すっかり日が落ちていました。そんな夕暮れの道を駅まで歩いていたら



藪の中に桔梗の花が咲いているのを見つけました。

そういえば、今年は秋の七草をまともに見ていません。先日



葛の花が咲いているところは辛うじて見かけましたが、ススキはまだ青々としていますし、萩や撫子や藤袴や女郎花に至っては全く見かけていません。

温暖化の仕業なのか何なのか分かりませんが、こうした季節の花があるべき時期に見られなくなっていることは悲しいことです。いつか古人が愛でた日本の美しい花々は、我々の前から消えてしまうのでしょうか…。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

12年に一度の妻田薬師御開帳

2022年10月10日 19時00分19秒 | 神社仏閣
今日も時折冷たい雨の降る、生憎の連休最終日となりました。気温も天気予報で言われたほどには上がらず、少し肌寒さも感じるくらいでした。

そんな中、今日は



厚木市妻田にある真言宗の寺院遍照院(へんじょういん)にやってきました。今日はこちらで12年に一度、薬師如来御縁の寅年に挙行される秘仏本尊薬師如来坐像の御開帳に参詣しました。

縁起によれば、このお寺は天平宝字5(761)年に奈良・東大寺の初代別当である良弁(ろうべん)僧正が薬師堂に詣でて七日七晩経典を読誦したところ後光が差して、東の池に青色の蓮華の白い根が満ちてまるで白い布を敷き詰めたように見えたことから白根山遍照院(しらねさんへんじょういん)と名付けたといいます。東方浄瑠璃浄土の教主である薬師如来を祀ることから、寺号も東光寺とされました。

お寺に着くと



ちょうど僧侶たちによる法要が執り行われている最中でした。法要が終わって僧侶が退堂すると御堂に上がることが許されたので、靴を脱いで堂内に入りました。

今回はフラッシュを焚かなければ堂内の撮影が許可されていたので、いろいろと撮影させていただきました。中に入ると



つい先程まで法要に使用されていた柄香炉から香の煙が立ち昇り、香の甘い薫りが満ちる堂内の正面には



極彩色に彩られた来迎柱と御厨子があり、秘仏本尊の薬師如来坐像が半開帳していました。

堂内には



山号『白根山』の扁額が遺されています。普段このお堂には入ることができないので、何度も参詣している私も初めて見るものでした。

こちらの薬師如来坐像は12年に一度御厨子の扉を開く半開帳が挙行され、60年に一度は御厨子から薬師如来坐像が直々にお出ましになる全開帳が挙行されます。恐る恐るお寺の関係者に伺ったところ、なんと全開帳は前回2010年だったとのことでした。

2010年といえばまだ拙ブログを開設する前の年のことで、次回の全開帳は48年後の2070年ということになります。つまり私が生きていれば白寿を迎える年となりますから、諦めて来世に期待しようと思います…。

御厨子の前に進むと



薬師如来坐像の右手に結ばれた五色の布が外まで延びていました。この五色の布は



境内の参道に建てられた御結縁柱(ごけちえんばしら)に結ばれていて、参拝者はこの布を手にして御本尊と御縁を結ぶことができるようになっています。

御厨子の前まで進んで御真言を唱え御尊顔を拝しましたが、半開帳なので



最大限カメラで寄ってもこれが限界でした。パンフレットの写真のよれば



このような御姿をされているようで、体部には武田信玄が北条と雌雄を決した三増合戦(みませがっせん)によって寺が燃やされた後の永禄12(1569)年の銘文があり、頭部だけは燃やされる以前の破壊を免れた室町中期の作とされる旧像を転用していると考えられています。

薬師如来の御厨子の横には



赤い小厨子に収められた小さな立像があります。



これは江戸時代に造られた秘仏本尊の『御前立(おまえだち)』で、御本尊の御開帳以外の時には



このようなかたちで御厨子の扉の前に立っておられます。

御厨子の両脇には



日輪(にちりん)を持った日光菩薩と



月輪(がちりん)を持った月光菩薩(かっこうぼさつ)が控えています。前立本尊と共に、江戸時代に作られた寄木造の尊像です。

今日は12年に一度の御縁日ということで、稚児行列も行われました。通常は一時間ほど時間をかけて地内を練り歩くのだそうですが、生憎雨が降ってきてしまったことでショートカットして早めに戻ってきました。



『妻田薬師御開扉大法要』と書かれた幡を先頭に


錫杖を持った先導役に続いて


緋傘を差しかけられた僧侶が散華を撒きながら境内に進んでくると、その後ろから



鮮やかな衣を身に纏い、烏帽子と宝冠を戴いた子どもたちが歩いてきました。そして



御堂の前に整列した子どもたちは



先程の僧侶から



一人ずつ御祈祷を受けて



稚児行列は無事に終了しました。

普段は固く扉の閉ざされているお寺の貴重な姿を拝見することができたことは、非常に有意義でした。次回の御開帳(半開帳)は、12年後の2034年です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日はサン=サーンスの誕生日〜若き日の力作《ピアノ五重奏曲イ短調》

2022年10月09日 13時33分31秒 | 音楽
今日は朝から雲が空を一面に覆い尽くす、ちょっと暗めの一日となりました。気温は23℃くらいまで上がったものの、風が冷たいのでそこまでの暖かさは感じません。

ところで、今日10月9日はサン=サーンスの誕生日です。



シャルル・カミーユ・サン=サーンス(1835〜1921)はフランスの作曲家、ピアニスト、オルガニスト、指揮者です。広く知られた作品としては

《序奏とロンド・カプリチオーソ》(1863年)
ピアノ協奏曲第2番(1868年)
チェロ協奏曲第1番(1872年)
《死の舞踏》(1874年)
歌劇《サムソンとデリラ》(1877年)
ヴァイオリン協奏曲第3番(1880年)
交響曲第3番《オルガン付き》(1886年)
《動物の謝肉祭》(1886年)

などが挙げられます。

サン=サーンスはわずか10歳でコンサート・デビューを果たすなど類い稀な才能を持って生まれ、パリ音楽院で学んだ後、はじめはパリのサン=メリ教会、その後フランス第二帝政下の公的な教会であったマドレーヌ寺院の教会オルガニストを勤めました。20年を経てオルガニストの職を退いた後は、フリーランスのピアニスト、指揮者として成功を収め、ヨーロッパと南北アメリカで人気を博しました。

若い頃のサン=サーンスは、当時最先端の音楽であったシューマンやリスト、ヴァーグナーに熱狂していましたが、サン=サーンス自身の楽曲は概して従来からの古典的な伝統の範囲に留まっています。音楽史を専門とする学者でもあったサン=サーンスは過去のフランスの作曲家が作り出した構造に傾倒し続けましたが、このことによって晩年には印象主義音楽や音列主義音楽の次世代作曲家たちとの間に軋轢を生むことになりました。

サン=サーンスは教職にも就いていましたが、実際に教壇に立ったのはパリのニデルメイエール音楽学校で教えた1度きりで、その期間は5年に満たないものでしたが、このことはフランス音楽の発展に大きな役割を果たしました。サン=サーンスの門下からはガブリエル・フォーレ(1845〜1924)が巣立っていて、そのフォーレにモーリス・ラヴェル(1875〜1937)らが教えを乞うていますが、この両名はいずれも彼らが天才と崇めたサン=サーンスの影響を色濃く受けています。

そんなサン=サーンスの作品から、今日は《ピアノ五重奏曲イ短調》をご紹介しようと思います。《ピアノ五重奏曲イ短調》作品14は、サン=サーンスが20歳の1855年に完成させた作品です。

この作品はサン=サーンスが、2つ以上の楽章で共通の主題や旋律、その他の主題的要素を登場させることによって楽曲全体の統一を図る手法である『循環形式』を採用した最初の作品です。ピアノパートはヴィルトゥオーソ風の技巧を凝らして書かれていて、曲中でしばしば協奏曲のように弦楽合奏と対置されますが、曲が進むにつれて弦楽が主導権を持つ場面が増えていき、ピアノは協調的な役割を演じていくことになります。

この曲は1854年から1855年にかけて作曲されましたが、楽譜の出版は完成から10年後の1865年のことでした。その際には第3楽章と第4楽章にコントラバスをオプションで追加した版も出版していて、サン=サーンス自身も演奏しています。

そんなわけで、サン=サーンスの誕生日の今日は《ピアノ五重奏曲イ短調》をお聴きいただきたいと思います。様々な名曲を世に送り出したサン=サーンスの、若き日の意欲作を御堪能ください。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

爽やかな秋に聴く《ブランデンブルク協奏曲第6番変ロ長調》

2022年10月08日 19時10分25秒 | 音楽
昨日の冷たい雨もあがり、今日は時折晴れ間ののぞく爽やかな秋の空となりました。最高気温も23℃と昨日の最高気温よりも10℃近くあがり、窓を開け放っていても気持ちのいい感じになっていました。

こんな気持ちいい陽気の時には、気持ちのいい音楽が聴きたくなるものです。なので今日は



バッハの《ブランデンブルク協奏曲》を聴くことにしました。

《ブランデンブルク協奏曲》は、バッハが作曲した6曲からなる合奏協奏曲集です。1721年3月24日にブランデンブルク=シュヴェート辺境伯クリスティアン・ルートヴィヒに献呈されたため、この名があります。

ただ、作曲の過程は明らかではありません。また、各6曲の楽器編成や様式などから判断して、かなり長い期間にわたってつくられた協奏曲のなかから6曲を選び、編成の大きなものから順に並べたものであると考えられています。

一応第1番から第6番まで番号が付いていますが、作曲された順番は、第6番→第3番→第1番→第2番→第4番→第5番となっています。大半はバッハのケーテン時代 (1717年〜1723年)に作曲されたものですが、第3番と第6番の2曲はその前のヴァイマル時代(1708年〜1717年)にさかのぼると推測されています。

そんな《ブランデンブルク協奏曲》の中から、今日は第6番をご紹介しようと思います。

第6番は《ブランデンブルク協奏曲》の中でもかなり古いスタイルで書かれた音楽で、協奏曲とはいいながら独奏楽器群と合奏楽器群の区別はあまりありません。楽器編成も

ヴィオラ・ダ・ブラッチョ✕2
ヴィオラ・ダ・ガンバ✕2
チェロ✕1
通奏低音(ヴィオローネとチェンバロ)

というもので、ヴァイオリンが参加しない異色の弦楽合奏曲となっています。

第1楽章は変ロ長調 2/2拍子。2挺のヴィオラが、半拍ずれたカノンによって旋律を奏でます。

第2楽章は変ホ長調 アダージョ・マ・ノン・タント 3/2拍子。通奏低音にのって2挺のヴィオラが伸びやかなメロディに交わします(ヴィオラ・ダ・ガンバは完全休止)。

第3楽章は変ロ長調 アレグロ 12/8拍子。シンコペーションが特徴な主題と、細かいパッセージを丁々発止に弾き交わす軽快な曲調が爽快です。

そんなわけで、今日は《ブランデンブルク協奏曲第6番変ロ長調》をお聴きいただきたいと思います。ヴァイオリンが全く登場しないヴィオラが主役の落ち着いた響きのアンサンブルを、楽譜動画と共に御堪能ください。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ほっこり車内アナウンス

2022年10月07日 15時40分25秒 | 日記
今日も冷たい雨のそぼ降る、生憎の空模様となりました。早めに長袖シャツを引っ張り出しておいて、本当によかったと思います。

今日で前期日程が終了するのて、今日は4時間目に子どもたちに通信簿を渡したら、給食も無しで下校となりました。それが分かっていることもあって、今日の出勤時は割りと気分も軽くなっていました。

その出勤時に



小田急線の電車に乗っていた時のことです。各駅に停車する前に車掌さんのアナウンスがあると思うのですが、今日乗った車両の車掌さんがかなり細やかな方で、

「雨が強くなって参りました。雨が吹き込むところでは、換気が可能な感覚を残して窓を閉めていただきますようお願い申し上げます。」

といった感じにいろいろと言ってくださっていました。

また、小田急線の駅のいくつかはホームの屋根が短いところがあるのですが、そういった場合にも

「次の駅では◯号車と△号車のホームには屋根がこざいません。お降りになるお客様は□号車までご移動の上でお降りください。」

といったアナウンスがあり、降車する乗客たちはその案内に沿って車両を移動して、傘をさすことなく降りていきました。

小田原駅に近づいた時には

「長らくのご乗車お疲れ様でございました。間もなく終点小田原に到着いたします。」

「現在、小田原駅近辺の気温は12℃、大変冷えこんでおります。本日は一日、ここから気温が上がらない予報が出されております。」

「どちら様も体調に十分気をつけてお過ごしください。ご乗車、誠に有り難うございました。」

と、実に細やかなアナウンスが流れました。

寒さに縮こまっていた朝の気持ちが、ひと時ほっこりしました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近気づくとこればかり…

2022年10月06日 20時55分20秒 | 日記
今日は昨日にも増して寒くなりました。朝よりも午後にかけてどんどん冷えこんでいき、夕方頃には気温が12℃にまで下がりました。

そんな中、今日は一昨日とは別の小学校の放課後子ども教室のミーティングがあって出かけていました。新たな学校に到着すると誰もいない教室に通されてしばらく待機していましたが、三々五々人が集まってくるとミーティングがスタートしました。

個人的には一昨日と一言一句違わない内容を聞かされることになったので至極ヒマではありましたが、それでもまるで初めて聞くかの如くコーディネーターさんの説明を聞いていました。しかし、いくつか説明を聞き終わる度に誰かが自身が気になったことをその都度質問するので、とにかく説明が遅々として進まないのです。

これと同じ現象は、実は一昨日にも起きていました。彼らからしたら慣れない仕事をするだけでも大変なのに、マニュアルに目を通せば、やれ『あれしろ、これしろ、あれすんな』ですから、細々と質問しなくなる気持ちも分からないではありません。

その気持ちを割り引いても、個人的には

『んなモン、始まってみなきゃ分かんないでしょ?今からそんなこと気ぃ揉んでたって時間のムダだし、早く終わろうよ〜。』

という思いが頭の中を駆け巡っていました。何しろマニュアルを読み合わせて終わりではなく備品の確認や動線のチェックもしなければならなかったので、不安な方々には申し訳ありませんが後半はちょっと話を畳ませていただきました。

いろいろと済ませて帰路につき、厚木に着いた頃にはすっかり夜になっていました。とりあえず帰宅して簡単に夕食をすませると、お茶を淹れてひと心地つきました。

ところで、私はひとつの食べ物に凝りだすと、飽きるまでズ〜ッとそればっかり食べ続けるという悪いクセがあります。そして、最近ひたすら食べ続けているのが



柿の種です。

何のきっかけでスイッチが入ったのか私にも分からないのですが、夏休み明けくらいに急に食べたくなったような気がします。定期的に柿の種を買うようになってきてからは、お茶うけというと我が家ではこれが定番化しています。

いつまたこれに飽きてパタッ!と止めてしまうか分かりませんが、もうしばらくは個人的ブームが続きそうです。とりあえず食べ過ぎないようにだけ、気をつけようと思います…。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ほくほく『パンプキンワッフル』@横浜あざみ野《雫ノ香珈琲》

2022年10月05日 18時36分35秒 | カフェ
今日の日中の小田原は、ちょっと蒸し暑いくらいの陽気でした。そんな中で運動会の練習をしていた子どもたちは、一様に汗だくになっていました。

ところが、小学校勤務を終えて小田急線で横浜あざみ野に移動すると、電車の扉が開いた瞬間  

『何これ!?寒っ!』

と思うくらい気温が下がっていました。私が電車移動していた1時間ちょっとの間に、一体何が起きたのか…と思わされるような冷え込みっぷりに、驚きを禁じ得ませんでした。

そんな冷たい空気の中を《雫ノ香珈琲》へと急ぎました。ちょっと暖かな店内に入ってホッとしてから、今日は



今月限定メニューの『パンプキンワッフル』をいただくことにしました。

お店の看板メニューであるクロワッサン生地のワッフルにスライスしたカボチャやパンプキンクリームがあしらわれ、ブルーベリーソースが散りばめられています。カボチャとブルーベリーの組み合わせはあまり想像がつかなかったのですが、いただいてみるとカボチャのほのかな甘さとブルーベリーソースの甘酸っぱさとの相性はなかなかのものです。

今日は温かいマンデリンコーヒーと共に、美味しく堪能しました。さすがにここまで寒くなると、温かいコーヒーが沁み渡ります。

明日から明後日にかけて、関東地方は更に気温が下がるようです。帰ったら、早速長袖シャツを引っ張り出そうと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小田原での新たな勤務を前に

2022年10月04日 19時30分10秒 | 日記
今日も小田原の小学校勤務があったのですが、その後にもう一つやることがありました。まだコロナ禍が世の中に蔓延る前の2019年にやっていた放課後子ども教室が来週から3年ぶりに開所することになり、そのミーティングがあったのです。

授業を終えてからそのまま当該教室に向かうと、既に何人かの方が集まっておられました。そして、来週から始まる放課後子ども教室についてのミーティングがスタートしました。

しかし、前回の時には存在しなかったコロナ対策という新たな項目が増えただけで相当面倒なことになっていました。マニュアルに目を通しただけでも、

『ここまでやらすんかい!?』

というような微に入り細を穿つような注意事項が繰り返し記載されていて、ちょっと辟易とさせられました…。

そんなマニュアルに目を通した後に、全員で子どもたちの下校の導線を確認してきました。そんなことをしていたら、あっという間に辺りが暗くなってしまったのです。

とりあえず今日のところはこれに解散…となり、各々帰路につきました。私がようやく小田原駅に到着した頃には



すっかり帰宅ラッシュが始まっていて、ちょっとゲンナリした気分でホームに向かいました。

すると、



折良くロマンスカーEXEαが連結のために入線してきたところで、そして間もなく



前方の車両と無事にドッキングしました。この光景を見たのは久しぶりです。

明日は雨模様で、そこからぐっと気温が下がる予報が出されています。一応長袖シャツは準備してありますが、さてどうなりますやら…。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋風に揺れるサボテンの花!?

2022年10月03日 17時30分17秒 | 
今日も日中はそこそこ暑くなったものの、湿度の低い爽やかな陽気となりました。吹く風はもう秋で、そろそろTシャツの上に何らか羽織ってみてもいいかなと思えるようになってきました。

そんな中、いつもと違う道を歩いていたら、道沿いのお宅の庭先に鮮やかな黄色い花が咲いていました。何だろうと思って見に行ってみると


なんと立派なウチワサボテンだったのです。

ウチワサボテンはサボテンの中でも比較的育てやすいといわれていますが、庭植えにしているもので



こんなに立派に花を咲かせているのを見たのは初めてです。夏っぽい花ではありますが、爽やかな秋風に揺れるサボテンの花もなかなかいいものです。

空を見上げれば



浮かぶ雲はすっかり秋の装いです。週末にはめっきり肌寒くなるようですが、10月に入っていることもありますから、そろそろそうなってもらいたいものだと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日は『守護天使の日』〜ビーバー《ロザリオのソナタ》より『守護天使のパッサカリア』

2022年10月02日 17時10分17秒 | 音楽
今朝はかなり涼しい空気が流れていましたが、昼前後には真夏日近くまで気温が上昇しました。昼間の気温に合わせて服装を選ぶと朝晩は肌寒いし、逆にすると日中は暑いしで、どうしたらいいのか分かりません…。

ところで、今日10月2日はカトリックでいうところの『守護天使の日』です。



写真はローマの要塞サンタンジェロ城の大天使ミカエル像です。西暦590年にペストが大流行した際、時の教皇グレゴリウス1世が城の頂上で剣を鞘に収める大天使ミカエルを見てペスト流行の終焉を感得したことから、城の守護天使として設置されました。

カトリック教会では10月2日を『守護天使の日』としていますが、その始まりは16世紀の中盤にかけてみることができるようです。それまでこの日はカトリック全体の聖務日課書には定められておらず、コルドバやトレドのような特定の地方教会で守護天使を記念する日とされていました。

『守護天使の日』が正式に教会の暦に入れられたのは17世紀初頭の教皇パウロ5世の時代でしたが、それでも当時は教会ごとに任意で記念するものだったようです。10月2日と固定された日付が設定されたのは17世紀後半の教皇クレメント10世の時代で、 最終的に現在のように10月2日を『守護天使の日』として定められたのは19世紀後半、教皇レオ13世の時代でした。

カトリックにおける守護天使に関する教義によると、クリスチャンであれ、それ以外であれ、たとえ大罪人であれ、全ての人々に決して離れることのない守護天使がついている、としています。守護天使とその守護する人間との関係については、

「守護天使は、人が自由意思を悪の方向に用いようとした時にもそれを止めさせることはしないが、その心を照らして良い方向に向けて霊感を吹き込むことだけをする」

とされていて、守護天使とのコミュニケーションについても、

「人は天使に語りかけることが可能で、天使たちはその必要性、希望、欲求によって人間に語りかけ、啓蒙する」

としています。

さて、私が『守護天使の日』と聞いて真っ先に思い浮かんだのは



ハインリヒ・イグナツ・フランツ・フォン・ビーバー(1644〜1704)の《ロザリオのソナタ》の最終曲『守護天使のパッサカリア』です。

《ロザリオのソナタ》は新約聖書にある聖母マリアへの受胎告知から始まって、キリストの成長と受難、復活からのイエスと聖母マリアの昇天、そして天界での聖母戴冠に至るまでのマリアとイエス・キリストの生涯の中から、計15のエピソードを採り上げて作曲されたものです。特徴的なのは、第1曲目と終曲以外は全て特殊な調弦(スコルダトゥーラ)で演奏するように指定されていることです。

このソナタの楽譜には、それぞれの曲のエピソードを表す銅版画が添えられています。そして、このソナタ全体を締め括る終曲の『守護天使のパッサカリア』の楽譜には



子どもの手を引く守護天使が描かれています。

パッサカリアとは元々スペイン起源の舞曲で、一定の同じ動きをするバス声部(バッソ・オスティナート=執拗低音)の上にメロディを紡いでいく変奏曲です。バロック期のパッサカリアは特に大規模なパイプオルガンに作品が多いのですが、ビーバーは敢えてキリストの生涯を描いた壮大なヴァイオリン・ソナタ集の最後に、シンプルこの上ない無伴奏ヴァイオリンのパッサカリアを持ってきました。

始めに提示される「ソ、ファ、ミ♭、レ…」という低声部の上に、短いセンテンスのメロディが次々と紡がれていきます。この「ソ、ファ、ミ♭、レ…」という音型はメロディの下支えたる低音部に留まらず、中間部では高音部に現れて曲調に変化をつけたりもするので、その展開の面白さもこの曲の魅力のひとつです。

そんなわけで、『守護天使の日』である今日はビーバーの大作《ロザリオのソナタ》の終曲『守護天使のパッサカリア』をお聴きいただきたいと思います。ドミトリー・シトコヴェツキーによるバロックヴァイオリンでの演奏をお楽しみください。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする