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夕日

 夏の夕日は大きくて力にあふれている。天高くあるときは「日輪」という言葉がふさわしいほど灼熱の塊のように見える。それが地平線に沈もうとする瞬間、崩れたような形を見せてくれることがある。ほんの一瞬のことではあるが、たまたまそういう場面に遭遇すると驚く。


こんな雄大な夕日を目にすると、どうしても阪田寛夫の詩「夕日がせなかをおしてくる」を思い出してしまう。

     夕日がせなかをおしてくる
     まっかなうででおしてくる
     歩くぼくらのうしろから
     でっかい声でよびかける
      さよなら さよなら
      さよなら きみたち
      ばんごはんがまってるぞ
      あしたの朝ねすごすな

     夕日がせなかをおしてくる
     そんなにおすなあわてるな
     ぐるりふりむき太陽に
     ぼくらも負けずどなるんだ
      さよなら さよなら
      さよなら 太陽
      ばんごはんがまってるぞ
      あしたの朝ねすごすな  

 小学生の頃、夏休みは本当によく遊んだ。朝から夕方まで暑いさ中、外を走り回っていた。太陽と一日中駆けっこしていたようなものだ。そんな私がもし今子供だったら、やはり同じように外で遊ぶだろうか。--たぶん遊ばないだろう。まず第一に近所に遊ぶ相手がいない。私の住む校区では、1学年が15人前後しかいない。男子はその半分としても、それが広い校区に散らばっているのだから、休みの日などはなかなか顔を合わすことはできない。それに、もし遊ぶことができたとしても、クーラーのきいた快適な部屋でTVゲームをやることになってしまいそうだ。Wii でも Play station でも本当に面白いゲームがたくさんある。わざわざ熱い思いをする気は起こらないだろう。暑い夏に汗をかいて真っ黒になりながら自然に体を鍛える、そんなことは現代の子供たちを取り巻く環境からは望むべくもないことのようだ。
 子供たちがそんな生活をしていたら、夕日をまともに拝むこともあまりないのかもしれない。太陽が沈む頃は、TVで子供向けの番組が放送される。親にしてみても、暗くなりかける時間に子供が外をふらついているよりも、家の中にいてくれたほうが随分安心だ。交通事故、つれさり、変質者・・、不安材料を探せばいくらでもある。そんな危険にわが子をさらすのを承知で、暗くなるまで外で思いっきり遊んでいらっしゃいとは簡単に言えるものではない。
 ノスタルジーに耽るつもりはないが、少し前までは当たり前の夕方の情景だと思っていた阪田寛夫の詩も、だんだんと現実離れしたものになっているようだ。そんな社会になりつつあるのは悲しいし、何とかしなくちゃとも思うのだが、時の流れをおし戻すことは簡単ではない・・。困ったものだ。
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