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タイヤ交換

 今年はエルニーニョ現象で冬型の気圧配置が長続きしないため、観測史上類を見ないほどの暖冬なのだそうだ。去年の今頃は大雪が降って、凍りつくような寒さだった。それと比べれば、ここ数日寒くはなったといっても、まだまだ大したことはない気がする。
 しかし、用心というものは早め早めにしておくものだ。いろんなことで泥縄式の生活を送っている私であるが、ことバスのタイヤに関してだけは常に先回りするように心がけている。生徒の大事な命を預かっているのであるから、それは当然のことだ。溝が減ってスリップしやすくなったら、すぐに新しいものと買えるし、寒さが少しでも厳しくなれば、全車スタッドレスタイヤに交換する。私の住む町は、名古屋から20kmほど東に位置するだけであるから、さほど寒冷地ではない。しかし、1年に1度か2度は毎年積雪があり、少し山間部に行くと長く雪が残っている。そうした場合に備えてタイヤを交換しておくのだが、その作業がなかなか大変だ。送迎用のバス4台のタイヤ全部を私一人で交換するのは正直面倒だ。スタンドに持っていけばあっという間に済むのだが、1台交換するのに2500円かかる。4台で1万円、やっぱり自分でやろうという気になってしまう。
 
 
 
このタイヤの列を見ただけで尻込みしそうになるが、そんな甘いことも言ってられない。去年ホームセンターで買ってきたジャッキとスパナと私の力だけで交換しようというのだから、F1のピットのような目にも止まらぬ速さで作業ができるはずもない。ゆっくりでいいから、しっかりやろう、と気持ちを引き締めながら作業を始めた。

  

スパナでナットを緩めておいてから、ジャッキを架って車体を上げて、タイヤを外す。普段力仕事をしない私のような惰弱な人間には、これだけでも結構きつい。いくらバットの素振りや腕立て伏せをずっと続けているといっても、使う筋肉がまったく違う。力を入れるたびに筋肉がきしむのが分かる。

  

スタッドレスタイヤを運んできて、装着する。あとは、スパナでナットを締めていくのだが、このタイヤのホイールは人から安く譲り受けたアルミホイールで、見た目はかっこいいのだが、ナットを通す穴が狭い。そのため通常のスパナでは穴の大きさにあわず、ナットを締め付けられない。それを見かねた私の父が研磨機でスパナの先端部を削ってくれて、何とか穴の中に入るようになった。ジャッキも押しやすいように、鉄の棒を継いで長くしてくれた。私ではとても思いつけないような創意工夫が施されていて、使いやすく作業の能率も上がる。


もう動かなくなるまで、腕の力で締め付けておき、あとは足でスパナをグイグイと押していって、ギュッギュッと音がするまで締め付ける。自分でやったものは何となく信用がおけないので、何度も確かめてから、1本のタイヤの交換が終わる。あとはこれを繰り返していくだけなのだが、1台目は1時間近くかかってしまった。(工具をあれこれ探すのにかなり時間がかかってしまった。いつものことながら、まったく準備が悪い)。

 2日かかかって何とか4台分作業を完了したのだが、1万円節約するのも大変だ。だが、この労力が無駄になっても全く構わないから、雪よ、降らないでくれ!!
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冬の草花

 今週になってぐっと冷え込んできた。朝は早起きしなくてもすむ私だが、塾が終わる深夜12時近くになると、吐く息が真っ白になる。これからしばらく寒さに凍える日々が続くのかと思うと心が重くなる。周りを見回しても、冬枯れの野原が目に付き、物悲しさが募ってくる。

 

しかし、自宅や近所の家の庭先には、この季節でも人目を惹く草花が結構咲いているものだ。少し写真に収めてみた。

  
まずは南天。左は親戚の家に生えていたものだが、葉まで真っ赤で大きな実がたわわに生っていた。木全体が真っ赤な印象を受けるほど鮮やかな赤だった。中央は実が白い南天、珍しくて思わず写真を撮った。こういう種類なのか、何かの不都合で赤くならなかったのかは分からないが、変り種のような気がする。右は我が家の庭の南天。南天という木は縁起がいいという話で、塾の入り口にも植えてある。

 

家の横に生えている山茶花。花弁が散って枯葉の間に重なっている様子が、一幅の絵のような趣があった。などと、洒落てみたところで、この花が山茶花だというのは今日初めて知った。それまではずっと椿だとばかり思っていた私が、念のためにと思って父に尋ねたところ、「椿は玄関の前にある木だ、これは山茶花」とたしなめられてしまった。まったく、48年この家に住んでいてそんなことも知らないのか、と言わんばかりの顔をされてしまった。


落ち葉といえば、銀杏の葉が敷き詰められて、黄色い絨毯になった様子はやはりきれいだ。先日名古屋へ行ったときに、盛んに落葉していたのには驚いた。私の市では葉などもう全てとっくに落ちてしまったというのに、やはり私の住む市は名古屋よりも寒いんだなと、改めて田舎住まいを実感した。


実際は口で言うほど田舎ではないと思っているのだが、こんな柚子の実が生っている家が近所にあると、やっぱり田舎なのかなと思わないでもない。落ちていた実を拾い上げて香りを確かめたのだが、何も匂わなかった。柚子といえば柚子湯にすると、かなりよい香りが浴室を満たすものなのだが、どうして何も匂わなかったんだろう、不思議だ。

 

左は大きめの鉢に植えられた4本の葉牡丹。小ぶりで実にかわいらしい。右は父が買ってきた、門松用の立派な葉牡丹。父はゆっくりと新年の準備をしていてくれる。来週になったら、門松作りを始めるだろう。木の葉牡丹もそれまで待機していてくれなければならない。

  BGMにはサイモンとガーファンクルの『冬の散歩道』をどうぞ。
  
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「武士の一分」

 「武士の一分」を見た。一緒に行った妻は藤沢周平の原作を少し前に読んでいたし、何と言ってもSMAPヲタである以上、映画の内容はほとんど把握していたようだ。私は、雑誌や新聞などで時々散見した程度で、詳しい内容はほとんど知らなかった。第一、「武士の一分」という題名自体、何となく分かるようで実際はよく分かっていないという感じだった。「一分」とは何だろう。見終わって、言葉の意味はだいたい分かったつもりだが、念のために調べてみた。
 【一分(いちぶん)】
   一身の面目。一人前の人間としての名誉。体面。「―がすたる」

 木村拓哉演じる三村新之丞は藩主の毒見役を勤める下級武士、妻加世(壇れい)と安らかな生活をおくっていた。ところが毒見の職務中に貝の毒にあたってしまった三村は、一命は取り留めるものの失明してしまう。苛立つ三村に加世は懸命に尽くす。夫のこれからの身の上を相談すべく訪ねた番頭(ばんがしら)島田藤弥に、口利きの代償にと、操を奪われてしまう加世。その甲斐あってか、三村は今までの石高を保証され、一生養生するようにとの沙汰を受け取る。しかし、妻の不貞を知り、「武士の一分」を守るため、加世を離縁し、盲目の身ながら島田に復讐の刃を研ぐ。
 ここまでなら、上司に妻を寝取られた下級武士の憤りからの復讐劇で終わってしまうところだが、三村は己への沙汰が、藩主の鶴の一声で裁定されたものだと知り、妻加世も島田に騙されていたのだと知る。ここに至って、「武士の一分」を守るためであった復讐が、己と妻との失われた絆への意趣返しへと変わる。三村は加世のたすきを鉢巻として額に巻き、仇敵島田に挑む。

 というのが私の見たこの映画のあらすじだ。劇中三村が3度その言葉を発したように、「武士の一分」を全うするための果し合いであったものが、いつしか、騙し奪われた妻の夫への真心に殉ずるための果し合いに変わって行ったところにこの物語の奥行きの深さを感じた。妻が買ったパンフレットの冒頭に、山田洋次監督が
 「映画『武士の一分』はやさしい愛妻物語であり、白刃閃く復讐譚でもありますが、この映画を通して、ぼくたちは江戸時代の地方の藩で静かに生きていた先祖たちの姿を敬意を込めて描く、ということにしたいと思います」
と述べているが、見終わった今、この言葉がすっと心の中に染みとおってくる。

 私は正直言って、木村拓哉には期待していなかった。木村の演技は今までTVドラマで何度か見たことがあるが、いつも同じで変わり映えのしない演技に辟易していた。妻にそんな不満をぶつけても、
「それは周りのスタッフが何も言わないで、いいよいいよとおだててばかりいるからよ」と木村の側にたって弁護する。確かにそうかもしれないが、それなら山田洋次のような大御所の監督の下で映画を撮ったのなら、彼の真価が分かるのではないだろうか、いや、化けの皮がはがれるときがやっと来た、などと意地悪な気持ちもあった。  
 案の定、映画が始まってすぐは、なんだやっぱりいつものキムタクじゃん!と見る気が俄かに失せてしまった。ところが、失明した三村を演じ始めてからの木村に驚いた。抑えながらも、激しい心の葛藤を演じる彼の姿に私はいつの間にか引き込まれてしまった。途中でトイレに立ちたくなったが、緊張した場面の連続で、立ち上がる機会を逸してしまった。それほど迫真の演技を木村拓哉は見せてくれた。「キムタクなどと呼ぶのではなく、俳優木村拓哉がスクリーンの中に存在していた」、私の見終わった時の第一印象だ。それは勿論、山田監督の手腕によるところが大きいのだろうが、図らずも木村拓哉の器の大きさが証明されたような気がする。(褒めすぎかな・・・)

 映画館を出て、昼食を食べながら話していたときの妻の得意そうな顔つきが、この映画のすばらしさを一番物語っていたように思った。
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プレゼント

 私には、今現在6人の甥・姪がいる(来年の夏にはもう1人増える予定)。その子達に毎年この時期になるとクリスマスプレゼントを贈ることにしている。今年は中3の姪が図書カード、中1の甥と小4の姪がそれぞれニンテンドーDSのソフト・「ポケモン」パールとダイアモンド、小3の甥もDSソフト「星のカービー」を贈った。1人1人に欲しいものを確認したから、皆満足してくれたと思う。しかし、双子の甥と姪はまだ2歳半で、何が欲しいかなどということをたずねることもできないので、自然親の意向に従うことになる。今年は服が欲しいということで、2週間ほど前に買いに行った。それを昨日の日曜日に家族全員でとりにやってきた。

 

久しぶりに「ミキハウス」の服を買った。娘が幼かった頃はよく買ったものだが、余りにポピュラーになりすぎていつしか買う気がなくなってしまった。息子の時にはほとんど買っていないし、その後親戚に子供が生まれたときも違うブランドでお祝いしていた。なので10年ぶりくらいに「ミキハウス」の服を買ったことになる。姪にはピンクのワンピース、甥にはトレーナーとズボンを買ってやったら、あと3000円追加したら、写真のバッグがもう一つもらえると言われたので、仕方ないなと靴下を買ってバッグを2つもらってきた。「3000円では買えないものですから」などと店員に乗せられてしまったのかもしれないが、子供たちに見せたら気に入ってくれた。帰るまでずっと肩にかけていてくれていたから、私としても奮発した甲斐があった。
 
 双子も2歳半近くなって、会うたびに成長のあとを見せてくれる。以前とは違って、家の中に入っても泣くことはなくなり、それぞれが訳の分からぬことをずっとしゃべり続けている。私の父などは、「外国語を話すなよ」などと目を細めているが、私も妻も同じように双子たちの前ではただひたすら微笑んでしまう。もう何年かして孫ができたなら、もっと甘い爺ちゃん・婆ちゃんになってしまいそうな気がして、ちょっと不安になってくる・・。
 甥っ子は他所に出かけると、興奮するのか、じっとしていないそうだ。我が家でもやたら走り回って、動き回っていた。最近でんぐり返しができるようになったらしく、嬉しいのか何度も繰り返してくれた。

  

 

なかなかの身軽で、グリングリン繰り返していたが、余りに暴れすぎたのか、夕食を食べたあと、全部ゲロゲロと吐き出してしまった。弟も義妹もその処理にてんてこ舞いしていたが、来年になってもうひとり子供が増えたらいったいどうなるんだろう。かなり心配な気もするが、今までなんとか乗り切ってきた弟夫婦だから頑張っていってくれるだろう。私には大したことは何もできないけど、これからもクリスマスなどの節目節目ではささやかながらプレゼントをして、少しでも役にたっていかねばならないと思っている。


妻の描いた甥っ子の顔。



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デリカシー

 昨日バスの中で聞いた小学4年生の会話。
「あの子ってさあ、男の子の前でも関係ないよね」
「うん、デリカシーがないよね」
えっ?デリカシー?おいおい、君たち意味を理解して使ってるのかい?・・・私は思わず聞いてみた。
「ねえ、デリカシーってどういう意味なのか知ってるの?」
「まあ、だいたいは」
「それじゃあ、教えてよ」
「恥ずかしがらないで、っていう感じかなあ」
う~~ん、そうか、そう意味に使っているのか・・・。しかし、小学4年生が使う言葉じゃないだろう。どうしてそんな言葉を知っているんだろう。たずねてみようとしたら、その子の家の前に着いてしまった。
 彼女は小学4年生と言っても、身長が155cm以上あって大人といってもいいような体格をしている。顔立ちも大人びていて、そうしたカタカナ言葉を使ってもおかしくないだけの風貌は備えているが、なんと言ってもまだ10歳になったばかりだ。そんな子がよく「デリカシー」なんて言葉を知っていたものだと感心した。相手をしていたのは、同じ4年生ながら身長127cmの、1年生と間違えられそうな小柄な子なので、余計にその子が大人びて見えたのかもしれない。
 が、私こそ「デリカシー」の意味をきちんと把握しているのだろうか。delicacy に対する訳語なら、「優美・上品さ」「繊細さ」など幾つか頭に浮かんでくるが、日本語の中に入ったカタカナ語としての意味は少しばかりニュアンスが違うような気がする。そこで、念のために調べてみた。
 【デリカシー】
   ①心や感情などの繊細さ。こまやかさ。
   ②様々な事柄の取り扱いに細心の注意を要すること。微妙さ。
と、「国語大辞典」にあった。
 私は昔からよく、「あなたにはデリカシーがないんだから」と妻に言われてきた。確かに、自分が自己中心的で思いやりに欠ける人間であるのは認めるが、「デリカシーに欠ける」などと言われると、かなり辛い気持ちになる。それは、己の心に繊細さが足りないと言われることであり、自分の感受性の拙さを非難されるような気がして、まさしく痛いところを突かれたような気がするからかもしれない。まあ、あれほど繰り返し難詰されても一向にデリカシー溢れた人間になれていないから、私は根っから繊細さに欠けた人間なんだろう・・・
 
 しかし、最近は余り聞かなくなっていたこの言葉を、小学4年生の口から聞けたのは面白かった。小さなうちからこうした言葉を知っているなら、今町を闊歩している女子高生たちのようにはならないのではないだろうかと思う。最近よく見かける、革靴のかかとを踏み潰して、まるで突っかけ感覚でぞろぞろ歩きながら、突然大声を上げて笑い出したり、しゃがんだりして周りを通行する者たちをぎょっとさせるような振る舞いなど、決してするようにはならないだろうと思う。町に溢れかえる、デリカシーの欠如した愚行を繰り返す若者たちとは一線を画す者に成長して行ってくれるではないだろうか、と期待してしまう。
 たぶん、この子は家庭で親がそうした言葉を使っているのを習い覚えたのだろう。もちろん戒めの言葉として使っているから、子供もそういう意味で使うのだろう。家庭の躾というものは、やはり親が範を垂れることこそ大事だ。子供の教育には家庭の力が不可欠だ。改定された教育基本法でも家庭の躾というものが重要視されており、それにはまったく異論はない。しかし、それはあくまでも自発的なもの、親から子へ連綿と伝えられていく「家庭の力」とも言うべきものであって、国家が強制するものではないように思う。どんなものであっても、強制などされたらなかなか受け入れることは難しい(強制されなければ何もやらない子供たちが多いことも否定できないが)。
 改定案が成立する一連の過程を見直してみると、実にデリカシーを欠いた段取りでここまでたどり着いてしまったのが、残念で仕方ない。デリカシーを欠いては「美しい国」など、とてもできないと思うのだが・・・
 
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ふかひれ

 昨日は、名古屋まで3つの目的をもって出かけた。
 1つ目は、問題集を買うこと。センター試験もあと1ヵ月後に迫り、もうそろそろ実戦形式の予想問題をやり始めなければいけない時期なので、私の住む市内には売っていない、「センター試験予想問題パック」を求めに行った。


左から、駿台・Z会・河合塾・旺文社の4種類である。毎年受験生にはこの4つをやるように指導しているが、さすがにここまで押し迫ってくると、誰も文句を言わずにせっせと問題に挑んでくれる。予想問題などと銘打ったところで、当たる確率は低いだろうが、本番と同レベルの問題をまとめて解いておくことは、必ず役立つはずだ。息子には少し前に渡しておいたが、どれだけやっただろう、気になる。
 2つ目は、松坂屋美術館で開かれている「スヌーピーの世界展」を見に行くこと。これは私が新聞の広告欄で見つけて、妻を誘ってみた。昔からスヌーピー好きの妻も楽しみにしていたようだが、いざ入り口まで行って、ちょっと様子が違うことに気づいた。


私たちは、スヌーピーの作者、シュルツを中心にして、スヌーピーの歴史とか原画の展示とか、そういった展覧会だろうと想像していた。しかし、入り口近くに貼ってあった大きなポスターには、「大谷芳照が訳したスヌーピーの世界展」、さらには「多くのスヌーピーファンに愛された大谷芳照アート展」と書かれていた。「えっ?どういうこと?」と私たちはしばし考えた。入り口からチラッと見ることのできた壁に貼ってある絵も、確かにスヌーピーは描かれているが、そこに墨と思しき筆致で言葉や絵が加えられている。「う~~ん。どうも大谷って人がスヌーピーを使って何かを描いてるんだな・・」。大谷芳照という人物をまったく知らない私には、これが精一杯の解釈だった。「要するに、スヌーピーと大谷っていう人がコラボレーションしてるってことなの?」などと、妻がなかなかうまいことを言ったが、そんな感じなのではないだろうか。結局、入場料が惜しくなって、観覧するのはやめてしまった。
 少しばかり意気消沈した私たちは、昼食を食べることにした。実はこれが3つ目の、私としては一番の目的であった。と言うのは、食べるものを決めていたからだ。それは「ふかひれラーメン」。以前妻が食べるのを眺めていて、いつか機会があったら自分でも注文しようと思っていた、いわば念願を果たそうと思ったのだ。松坂屋10階にある「中華料理 龍門」のメニューにあるもので、ちょっとばかり贅沢な昼食を楽しんだ。

  

まずは、左から妻の注文した「海鮮焼きそば」、「カニ入りフウヨウハイ」「えび餃子」。そしてこれが、私の注文した「ふかひれラーメン」!

 

ふかひれが姿煮状態で1枚丸ごと入っている。ふかひれ自体はほとんど味がしないが、スープを吸い込んでとろとろになるまで煮込んである。箸でつまもうとすると崩れてしまう。ふかひれを丸ごと食べたことはなかったので、なかなかの感動ものだったが、私が食べていると、「コラーゲンがたっぷり」とおどけた妻の言葉が面白かった。
 忙しい年の瀬、しばし忘我のひとときであった。
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なでしこジャパン

 昨日、一昨日と2日連続でドーハ・アジア大会の中継を見た。一昨日が女子バレーの決勝、昨日が女子サッカーの決勝だった。2日とも深夜1時半過ぎにテレビをつけたら、たまたま中継が行われていた。
 女子バレーは、何だかいつでも世界大会をやっているような気がしていささか食傷気味だ。大会が近くなると、中継するTV局があの手この手を使って宣伝に努める。選手もバラエティー番組に出演したりして、ちょっとしたタレントのようだ。そうした番組を見ていると、日本の女子バレーはかなり強いような気がしてくるが、大会が始まるとそれが単なる幻想であったことがすぐに分かってしまう。スポーツなんだから、純粋に選手の必死な姿を映し出すだけで十分だと思うが、TV局は過剰な演出をしなければ気がすまないようで、真剣に見ているこちらがバカらしくなってしまうことさえある。確かに選手を強化するにはお金もいるから、そうした方面に選手の力を借りるのは仕方ないのかもしれないが、余りにそれが前面に出てしまうと、見る者の興味が半減してしまうということにもういい加減気づいてくれてもいい頃なのに、と残念に思う。
 決勝は中国との対戦だった。ドーハで開催されているため、あの「ニッポン、ニッポン!!」という大声援がない分、落ち着いて選手のプレーに集中できた。第一セットをあれよあれよと言う間もなく日本が先取した。先の世界選手権では1セットも取れなかったそうだから、幸先のよいスタートではあったが、ここまで見たら2時半を過ぎてしまったので、結果を楽しみにしながら布団に入った。翌朝、もしかしたら、と楽しみにして結果を調べたら、期待に反して、第二セットから3セット連続で奪われて、惜しくも中国に敗れてしまっていた。「やっぱり・・」とがっかりしたが、少しは明るさが見える結果ではないのだろうかと、余りバレーに詳しくない私ではあるが、今後に希望をもった。

 昨日のサッカーは、北朝鮮が相手だった。後半から見始めたのだが、私には初めての女子サッカー観戦だった。なので、選手を一人も知らないし、男子と同じ45分ハーフであるのも初めて知った。グランドも男子と同じ大きさなので、選手一人一人の体格が男子選手よりもかなり小さい女子選手は、TVでは本当に小さく見えた。しかし、選手の動きは皆速いし、とにかく走り回る。スピード感は男子の試合よりもあるように思えた。選手同士の当たりも厳しいものがあるし、反則すれすれのタックルも随所に見せた。前半をシュート0本で終わってしまった日本は後半に入っても、守勢に回ることが多かったが、キーパーのファインセーブもあって、なんとか北朝鮮の攻撃をしのいでいる、という状況だった。
 「面白いなあ」と思わず声が出てしまうほどだったが、息を呑むような試合展開に集中していると、一人の選手が気になりだした。縦横無尽に走り回り、攻撃から守備、守備から攻撃と、まさに八面六臂の活躍をしていた選手だ。私が注目したのは、そのプレースタイルもさることながら、彼女のヘアースタイルに驚いてしまったからだ。


この男子日本代表ディフェンダー・中澤佑二なみのボンバーヘッドをした選手は、背番号11のフォワード、荒木理恵子選手だ。見ていて華麗なプレーをする選手ではなさそうだが、ボールへの集中力はすごいプレーヤーだと思った。
 結局この試合は、PK戦の末日本が敗れてしまったが、この荒木選手を知っただけでも私は観戦してよかったと思う。彼女について少し調べて、
 『スーパーマーケットの西友でレジ打ちのアルバイトをしながらサッカー選手をしており、L・リーグという女子サッカー選手の「もうひとつの顔」として話題になった。2005年元旦に配られた西友の折込広告では、社のイメージキャラクターとして起用され、晴れ着姿で登場した』。
というプロフィールを知ってから、一層彼女のファンになってしまった。華やかなスポットライトを浴びているバレー選手に比べると、認知度はかなり低い女子サッカーではあるが、こうした地道な努力を重ねる選手が続けば、いつかは花開くときが来るだろう。
 頑張れ、女子サッカー!

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600回

 この記事で600回目の投稿になる。100回、200回の時はそれなりの達成感もあってこのブログで嬉しがったものだが、1年を過ぎて400回、500回はまったく気づかないうちに過ぎていた。それなのに今回は、1週間ほど前に「もうすぐ600回だ」とふっと気づいてしまい、何だか素通りするのも寂しいかなと思って、ちょっとした記念に書き留めておこうと思った。
 近頃は野球の選手が、何か節目の記録を達成しても、「単なる通過点ですから」などと話すのをよく耳にする。そこに到達したらそれで終わりというものではないのだから、それも当然のことであり、更なる高みを目指して精進しようという意気込みがこちらにも伝わってくる。しかし、私が今、「600回となりましたが?」などと感想を求められたとしても、決して「通過点」などという言葉はおこがましくて使えない。なにせ、最初から何かの目標を持って始めたものでもないし、今でも何かを成し遂げたいと思っているわけでもないのだから。それでも1年前なら、1年間は毎日休むことなくこのブログを書き続けようと自分に課題を押し付けていたから、それに呻吟しながらも「1年はなんとか!」などと自分に鞭打っていた。しかし、それを曲がりなりにも成し遂げてからは、まったく無目的にネットの世界を漂ってきたような気がする。いつか書いたように、くらげのようにプカプカ漂いながら、沈むともなく泳ぐともなく、浮遊感に身を委ねながら、己の気持ちのなすがままに任せて、ネットの海で遊んでいる気がする。
 よくブログを始めるきっかけを、「情報を発信したいから」などと言っているのを見かけるが、私には発信したい情報などない。そもそも、大した知識を持ち合わせていない私にそんなことができるはずもない。600という投稿数はそれなりに大した数ではあると思わないでもないが、実感の伴わない数でもある。私はいったい600回も何を書いてきたのか。毎回の記事をカテゴリーによって分類しておく癖があったなら、自分の書いてきたものにどういう傾向があるのか漠然とではあるにせよ、分かるかもしれないが、無精者の私にはそんな面倒なことはできない相談だ。それに自分の書いたものを読み返すことはめったにしていない。なので、重複した記事を書いたことが間々あるのかもしれない。でも、同じことしか書けなくなったら、見苦しいだけだから、書くのはやめようと思っている。惰性とかマンネリとか、そんなものが見え始めたら、きっぱりとやめようと思っている。(今のところ自分ではなんとか持ちこたえていると思っているのだが、どうだろう・・)
 しかし、今はこのブログを書くのが楽しい。チョコもプリンもアンも私だ。松井秀喜もSMAPもカミュも私だ。憲法9条もイマジンも「悪魔のささやき」だって私だ。ぐっちゃぐちゃにかき混ぜて何がなにやら分からなくなっているような気もするが、これこそが今の私だ。今日は何を書こうかな、今度はこんなことを試してみようかな、などと仕事の合間に考えるのが楽しくて仕方がない。馬鹿なことをやってみたいという気持ちもあるし、自分でも驚くような論文を書いてみたいという気持ち、どこかにぶつけたいけれどどこにもぶつけられない思いを書き留めておこうという気持ちもある。いくつもの思いが交錯しながら、様々な感情に心を乱されながら、毎日生きている私というものをこのブログ上に書き綴っているとするならば、ここは自分にとってはなくてはならない、カタルシスの空間なのかもしれない。
 「何故ブログを続けているの?」と問われたなら、「心の平衡を保つため」と答えるのが今の自分の思いを最も端的に表しているように思う。感情に押し流されることなく、「心の平衡」を保てなければいい仕事はできない。心の中にゆとりというか、遊びというものを持っていなければ、人はついてこないような気がする。一生懸命努力しながらもどこかに遊び心を持ち、他人にも寛容になれるような人間になりたいと常に思っている。そのためには、まだまだこのブログに助けられることは多いだろう。
 決して肩肘張らず、淡々と続けていきたいものだと思っている。さて、いつまで続くことやら・・・
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しわ

 若い頃は額にしわが一本もないことがちょっとした自慢だった。何をするにしてもしわなど寄せずにできるんだ、などと偉ぶりたかっただけかもしれないが、自分の額にしわなど似合わないとさえ思っていた。それがいつごろからか鏡など見なくなり、しわのことなどまったく意識せずに日々暮らすようになった。そんなものを気にしてはいられなくなったというのが本当のところだが、少し前にはっと気づいたら、額に何本かのしわが刻まれていた。びっくりしたが、年をとればそれも仕方ないことだと、自分を慰めた。年をとると、いろんなものに妥協するようになるが、妥協する自分に「仕方ない」と慰めるのも上手になっているのが悲しい。結局は現状に流されて、その流れを押しとどめようとする意欲が出てこないのもまた悲しい。そうやってどんどん老けていくのだろうか・・
 
 最近妻から「眉間にそんなにしわを寄せないで」とよく注意される。えっ?と、眉間に指を当てると、確かにその辺りがこわばっている。自分ではまったく意識していなかったが、身近にいる者には気になっていたようだ。「そんなに力まなくてもいいじゃない。リラックス」と妻は忠告してくれるが、確かにいろんなことに力が入りすぎているような気もする。中学受験を目指す小学生の成績がなかなか向上してこないとか、高校受験が近くなってものんべんだらりと過ごす者が多いとか、日々塾の生徒と接していると不満が募ってくる。それを子供に吐き出せる場合もあれば、我慢しなければならない場合もある。そうした折には、きっと眉間にしわを寄せてイラついているだろう。そんな形相をしていては、生徒が気軽に質問もできないではないかと反省するのだが、なかなか優しい顔ばかりしていられないのが現実だ。そうした場合、眉間を指で撫でながら、「リラックス、リラックス」と妻が言うように唱えてみる。そうすると、不思議に力が抜けて、ほっとできる。「そんなに神経過敏にならなくてもいいじゃないか」と呟きながら、眉間に集まった力をほぐしてやると、かなり気持ちが楽になる。

 「残念ながら、ある年齢を越すと、誰でも自分の顔に責任がある。わたしのときたら・・・。」

という一節が、A・カミュの「転落」にある。10代の頃に読んだはずだが、どういうわけだかこの一節を鮮明に覚えている。その後、いろんなところでこれと同じような表現を見聞きしたことがあるから、昔からよく言われてきたのだろうが、私は「転落」で初めて知った表現だった。その時は、ある年齢に達した人間はその顔を見ればどんな暮らしをしているのかが分かってしまうのかな、と漠然と思っただけだった。しかし、今改めてこの一節を読んでみたら、かなり恐ろしい言葉だと思った。確かに、己の行動に己が責任を持つのは当然であり、その責任を全うしながら生きていくものだとは思うが、その一つ一つが己の顔に刻み込まれていたとしたなら、顔のしわ一本一本がその人の人生を語るものであり、そのしわにも私たちは責任を持たねばならないこととなる。そういう観点で見た場合、私の眉間のしわは何を象徴しているのだろう?己の力の足りなさにに対する憂いなのか?うまくことが進まないことへの苛立ちなのか?己の思いが相手に伝わらないことへの憤懣なのだろうか?・・・いくらでもある。
 
 しわとは、木に刻み込まれた年輪と同じようなものかもしれない。樹木の年輪を見れば日の当たる方向が分かると言うが、それと同じように、私のしわの深さや長さを見れば、私の己の人生に対する思い入れの度合いを測ることができるのかもしれない。だとすれば、私の知らぬうちにできてしまったものだとはいえ、私は額や眉間のしわに責任を持たねばならないだろう。このしわは、否が応にも私の生き様を映し出しているのだから。
 鏡を見ることは少なくなった。普段は、しわにさほど意識することはない。しかし、私は自分の顔で知らず知らずのうちに自らを語ってしまっているのだ。たまには鏡を見て、己の顔をチェックすることも必要なのだろう。
 
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白菜とカニ

 先日このブログにゴジ健さんがニュースを貼り付けて下さったように、豊作で価格が低迷している白菜を生産調整するため、全国の産地で、トラクターで踏みつける方法を使い、白菜の廃棄処分が行われているようだ。
 白菜は、今年は天気がよすぎて例年よりも大豊作となったため、売っても赤字になってしまい、折角作ったのに廃棄にするしかないのだそうだ。なんでも、涼しかった去年の価格と比べると、今年は約3分の2以下の10kg250円程度。この値段で売ったとしても出荷するためには、箱代が80円、流通経費が200円かかるそうなので、売価250円よりも経費280円の方が多くなってしまう。したがって、赤字になるくらいなら廃棄処分にしたほうがいい、という判断のようだが、実にもったいない話であるが、同時に仕方のない話でもある。
 
 私の父の畑でも豊作だったようで、連日畑から白菜をとってきては近所に配ったりしている。もちろん自分でも漬物にするため、作業を続けているようだ。父の作業所を覗いてみたら、白菜だらけだった。

 

塩や唐辛子などと一緒にポリ製の大きな樽に漬けてある。まだ一樽しかできていなかったが、大きな漬物石が上に乗せてあったので、きっとおいしいものができるだろう。まだこれから何樽も漬けるようなので、出来上がったら家族でせっせと食べなければならないだろう。
 もちろん今でも白菜は食卓によくのぼる。日曜日は、到来物のカニと一緒に鍋にして食べた。

  


  

カニは殻から身をとるのが面倒なので、私はあまり好きではないのだが、このカニはあらかじめ身が殻から外してあったため、あれこれせずにすぐに食べられた。しかも肉厚なので、カニのうまみを十分味わうことができた。白菜がカニのエキスを吸い込んで、口に入れて噛んでいると、じゅわっと海の味が広がる。アツアツの白菜をふーふー言いながら食べていると、体が暖まってきて汗さえ出そうになる。鍋料理の醍醐味を味わうにはまだ幾分気温が高めな日ではあったが、冷えたビール片手に鍋をつついていると、まさしく至高のひと時をすごすことができた。ああ、満足・・・

 って、一体何が言いたかったのかよく分からなくなってしまったが、最近我が家はカニに恵まれている。こんなものももらった。

 
おいしそう・・・


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