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野次馬

 私の市の市議会議員選挙は早くも終盤を迎え、選挙カーからの叫び声も悲鳴に近くなってきた。誰も応援していない私はただじっと様子を窺っているだけだが、近隣に住む候補者の動向はやはり気になる。A候補の選挙事務所には人が少ないだとか、B候補は動きが活発だとか、もれ伝わってくる情報も多くなってきた。そんな折、私が以前このブログで取り上げた市会議員候補の応援に、衆議院議員の亀井静香がやって来ることになり、物好きな私は出かけてみた。
 午後2時に近所の空き地で応援演説をするという話だったから、先に用事を済ませておこうと1時頃に選挙事務所の横を通ったら、もう亀井議員が壇上に上って演説を始めていた。
  「おお、亀井静香だ!」とまるで芸能人を見たような反応をした
 妻に、「写真を撮ってくれ」とカメラを渡した私も同じくらいミーハー
 だが、こんな田舎に全国的に知名度の高い人物が来ることなん
 て滅多にないことだから、ついつい浮かれてしまう。議員の「どう
 せ泣くなら、勝って泣きましょうよ」などと、浪花節的な第一声は
 車の中からでも聞こえた。さすがに、演説はうまいものだな、と感
 心しながらその場を通り過ぎた。
  用事を済ませて、また選挙事務所の近くを通ったら、人だかりがしていてまだ亀井議員はいるようだった。「じゃあ、見に行くか」とすぐ横にある親戚の家の駐車場に車を停めて、事務所まで歩いていった。すると、演説を聴きに来た人たちと記念撮影をしている議員の姿が見えた。「何てサービス精神の旺盛なおっさんだ」と感心したが、さすがに近くまで行くのは憚れた。離れたところに立っていたら、私の従姉妹が子供を抱いてやって来たのでしばらく話をした。すると、
「本当は空き地でやるはずだったけど、人が少ないから選挙事務所の前でやることになったよ」と裏話を教えてくれる。さらに、「あの背広の人たちは警察だって。5人いるらしいよ」と小声で話すので、じっと見ていたら、確かに耳にイヤホンをした男たちが亀井議員が動くのを囲むようにしている。絶えず周囲に目を配りながら、油断ない素振りをしている。「本当だ!」と思ったが、長崎市長が銃撃されたばかりだから、要人の警護には神経を尖らすのも当然だ。長崎市長の死は私にも大きな衝撃だった。犯人が市との間にトラブルがあったとも報道されているが、暴力によって物事を解決しようとしては絶対にならない。そうした当たり前のことが当たり前でなくなりつつある現代の危うさが浮き彫りにされたようで暗澹たる思いがする。
 そうした身の危険がいつ及んでくるかもしれない恐怖を、事件後政治家誰もが味わっているだろうが、それにひるんではならないと思う。亀井議員もそうした決意を持って全国を遊説して回っているのだろうが、表面上はあくまでも飄々としている。写真撮影が終わった後は壇上に戻ってなにやら訳の分からぬ歌を一曲歌った。陽気というか豪胆というか、いくら護衛に守られているとはいえそこまで伸びやかに振舞えるのはすごいものだ、などと言っては買いかぶりすぎだろうか。


応援を受けた候補者は、亀井議員の所属する政党から公認をもらって選挙戦を戦っている。初めは政党の公認候補というのを前面に押し出していたが、反発する声が高まったのか、途中から政党名を叫ばずに、「地元の候補」というのを連呼するようになった。亀井議員の応援で事態が好転するとは思えないが、私としては政治の中央で長く活動できる男のしたたかな一面を間近で見られたのは勉強になった。やはり女性と記念写真を撮るときは相手の肩に腕を回して親密さをアピールすることが肝要なんだな・・・。
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つんどく

 買ったはいいが、数ページ読んだだけでもうそのまま打っ棄ってしまった本が何冊もある。特に新書は買った本の半分くらいがそんな扱いになってしまう。最近では、村井哲之「コピー用紙の裏は使うな」(朝日新書)を書名に惹かれて買ってしまったが、1枚何十銭のコピー用紙の裏紙を惜しんで使うことで、対価に払うものの方がはるかにコストが大きいことを7項目に分けて箇条書きしてあるのを読んで、もうこんな細かなことに付き合って入られないと、わずか18ページ読んだだけで読むのを止めてしまった。これこそが無駄遣いの代表だ、とコスト削減を本旨とした本を買ったのを後悔するのは笑えぬアイロニーである。
 そもそも新書はある一つのテーマに沿って、最新の知識や考えなどを学ぶにはもってこいの書物であるから、題名を見て直感的に面白いかなと思うとどうしても飛びついてしまう。だが、いざ読み始めると文章が雑だったり、論の組み立てが冗長で散漫だったり、素人の私が見ても内容が浅薄だったりして、急に読書意欲が萎えてしまうものが少なからずある。著名な作家や研究者が著した新書はやはりそれなりに興味深く最後まで読み通せるものが多いが、聞いたことのないような作者の場合には当たり外れ(もちろん私個人の趣味を基にしてだが)が大きいように思う。
 以下にここ半年くらいの間に空しくお蔵入りしてしまった新書を、供養の意味も込めて、買った動機や読まなくなった理由を簡単にコメントしながら、列記してみようと思う。

『数学を愛した作家たち』(片野善一郎・新潮新書)・・夏目漱石について書かれた箇所を読んだら、「後はもういいか」と思ってしまった。なんだか安手の文学入門書のようでイヤになった。
『99.9%は仮説』(竹内薫・光文社新書)・・字も大きくて読みやすいが、文系の人間が科学の楽しみを知ろうと思って無理をするといつの間にか遠ざかってしまう好例。でも、これは続きを読みたいと思っている。
『ウェブ進化論』(梅田望夫・筑摩新書)・・ブロガーとして、ウェブのことを少しくらいは知らなくちゃと買ってみたが、どだい私には理解不能なことばかり書いてあった。作者の名前が「もちお」と読むことを知って、妙に感動した。
『エルメス』(戸矢理衣奈・新潮新書)・・ブランドの王者エルメスについて興味がないのは名古屋人じゃないと名古屋近郊在住者が背伸びをしたのが仇になってしまった。エルメスの歴史を勉強してもなぁ。
『日本人の遺訓』(桶谷秀昭・文春文庫)・・これは本当に読みたいと思って買ったのに、1ページも読んでないのはなぜ?日本武尊から三島由紀夫まで32人の日本人の遺訓に関して書かれたものであるから、必ず読む!
『ブッダは、なぜ子を捨てたか』(山折哲雄・集英社文庫)・・新聞の書評欄につられて買ってみたが、受験期で忙しくて本を読む時間的余裕がなかったせいなのか、全く読んでない。いい本だそうだが・・。
『昭和33年』(布施克彦・ちくま新書)・・この題名を見れば昭和33年生まれの私はどうしたって買ってしまう。買った後で、著者が33年生まれではないことに気づいて、急に意欲が冷めてしまい1ページも読まないままになっている。
『上品な人、下品な人』(山武也・PHP新書)・・3分の1くらいは読んだが、「こんな立派なことが書けるんですから、さぞやあなたは上品な方なんでしょうね」、と作者に言いたくなって読むのを止めてしまった。
『「かわいい」論』(四方田犬彦・ちくま新書)・・ノリで買ってしまった本。どんなノリかは忘れたけど、軽い気持ちで買って、ちょっと読んでそのまま・・。という典型的なパターン。これじゃあダメだよなあ。


 まだ他に何冊も部屋に転がっているが、こんなに未読のまま放置された本があるのが分かって何だか気が重くなってきた。しかし、いくつもの出版社が競って新書を発行するようになったのだから、その内容に優劣があるのは当然のことであろう。要は、題名や帯のキャッチコピーに惑わされず、ちょっと立ち読みして本当に読む気がするものだけを買えばいいのだろう。今までのように何でもかんでも手当たり次第買ってしまう愚だけは改めなければならない。
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ふき

 スーパーの買い物に付き合ったら、妻がふきを買おうとした。
「何でふきなんか買うんだ?」
「だって、もらったたけのこがまだ残っているから。たけのこといえば、ふきでしょう」
「そうかもしれないけど、ふきはなあ・・・」


私はふきが嫌いだ。ほろ苦い味も好きじゃないけど、あの長い茎を食べると必ずと言っていいほど、筋がすっとのびて歯の間に引っかかったりするのがいやだ。まさに食物繊維という感じがするが、どうにも好きになれない。たけのこも余り好きではないが、それはふきと一緒に調理されることが多いからかもしれない。
 ふきについてちょっと調べてみたら、意外なことがいくつか分かった。まずは、「蕗。数少ない日本原産の野菜。 キク科の多年草で野生種は全国の山野に自生する春を告げるふきのとうはふきの花」
ふきのとうがふきの花だとは知らなかった。迂闊といえば迂闊な話だが、今日初めて知った。簡単に連想できることなのにまったく結びついていなかったのは驚きだ。


こんな可憐な花とあの細長い茎とが頭の中で結びつかなくても仕方ないと思わないでもないが、昔「ふきのとう」というフォークグループが「白い冬」という歌を歌っていたのは何度も聞いていたから、それくらい知っていてもよかったのに、と今更ながら思った。
 もう一つ驚いたのは、
「ふきは関西で消費が多く、愛知が全国の生産高の3分の2を占めています。しかも、全国で栽培されているふきの品種は、ほとんどが”愛知早生(わせ)ふき”です。露地栽培は3~5月。ハウス栽培により、真夏を除いてほぼ一年中出荷されます。」
愛知県がキャベツやウナギの生産高全国一位なのは知っていたが、ふきもそうだとは全く知らなかった。愛知県在住の私にとって誇るべきことかもしれないが、ふきで一位といっても正直余り嬉しくない。勉強にはなったが、地理の問題で「ふきの全国生産一位の県は?」などと質問されることはまずないだろうから、役立つ知識にはなりそうもない。今が旬の時期のようだが、できれば1年中お目にかかりたくない。
 私のきらいな野菜は、トマト・なす・ふきであるが、もう一つセロリも嫌いだ。セロリはどことなくふきに似た形がいやなのがきっかけになったような気がする。一・二度しか口に入れたことはないが、やたらまずかった記憶しかない。パセリも嫌いだが、あれは飾りのようなもので、敢えて食べる必要もないからどうってことはないが、いざ食べろといわれたら困ってしまう。そんな目にだけはあいたくない。
 
 妻が料理したふきを写真にとって載せるつもりだったが、晩御飯には出てこなかった。「何で?」と聞こうかと思ったが、「どうせブログに載せるんでしょう」と突っ込まれるのもイヤだから黙っておいた。まあ、ふきの料理が食卓に上っても手をつけるつもりはないから、ただただ写真を載せられなかったのが残念なだけだが・・。
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Holidays

 母さんのブログの記事がキャメロン・ディアスの映画「ホリデイ」の感想だった。読んでるうちに、題名の連想から、ふっとミッシェル・ポルナレフの「Holidays」(日本での曲名は「愛の休日」)を思い出した。

「Holidays」
Holidays, oh holidays         ホリデーズ、おおホリデーズ
C'est l'avion qui descend du ciel   それは空からおりて来る飛行機
Et sous l'ombre de son aile      その翼の影の下を
Une ville passe            町が通り過ぎる
Que la terre est basse         なんて地上は低いのだろう 
Holidays                ホリデーズ

Holidays, oh holidays         ホリデーズ、おおホリデーズ
Des églises et des HLM         教会や近代的な建物
Que fait-il le Dieu qu'ils aiment?   空に住む
Qui vit dans l'espace         彼らが愛する神は何をしているのか
Que la terre est basse         なんて地上は低いのだろう
Holidays                ホリデーズ

Holidays, oh holidays         ホリデーズ、おおホリデーズ
De l'avion, l'ombre prend la mer    飛行機の影が海をとらえる
La mer comme une préface        砂漠の
Avant le désert            前ぶれのような海
Que la mer est basse          なんて地上は低いのだろう
Holidays                ホリデーズ

Holidays, oh holidays         ホリデーズ、おおホリデーズ
Tant de ciel et tant de nuages     あれほどの空、あれほどの雲を
Tu ne sais pas à ton âge        君は分からない、君の年齢では
Toi que la vie lasse          人生が君を疲れさせる
Que la mort est basse         なんと死は遠いのだろう
Holidays                ホリデーズ

Holidays, oh holidays         ホリデーズ、おおホリデーズ
C'est l'avion qui habite au ciel    それは空に住む飛行機
Mais n'oublie pas, toi si belle    忘れないで、美しい君
Les avions se cassent         飛行機は弱っている
Et la terre est basse         地上は低い
Holidays                ホリデーズ


よく分からない詞だが、ミッシェル・ポルナレフが高い声で歌い上げるフランス語は何だか崇高な理念を歌い上げているようにさえ聞こえる。ちょっと待てよ、ひょっとしたら・・。と思い立って、自分の部屋の押入れの奥を探してみたら、あった!!ミッシェル・ポルナレフの「ポルナレフ・ナウ/ミッシェル・ポルナレフ4」と題するLPレコードが!!

 

「Holidays」が1972年の作品だから、今から35年近く前のレコードだ。よくぞ捨てずにしまっておいたものだ、と己の物持ちのよさに少しばかり感動した。だが、我が家にはもうプレーヤーがない。このアルバムを聞こうにも道具がないからどうしようもない。残念だけど、このまままた眠ってもらうしかない・・。
 しかし、この髪型といい、サングラスといい、ちょっと奇怪ないでたちだ。物珍しさを狙ったものでないことは彼の曲の確かさによっても十分理解できるが、それにしても変だ。まあ、生まれて初めてフランス語の美しさを私に教えてくれた人物だから、そう悪口も言ってられないけど。
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ワンダーランド

 岐阜にある、お千代保稲荷というところに初めて行った。商売繁盛を願って、多くの人が足しげく参拝するお稲荷さんだということは昔から知っていたが、妻が急に行こうと言い出して、物は試しと、伯母も誘って出かけた。伯母は何度も行ったことがあるようだが、如何せん道先案内人としては少々心もとない。ならばナビに頼って誘導してもらおうとセットしようとしたが、「お千代保稲荷」という施設名が登録されておらず、目的地に設定できない。「なんて役に立たないナビだ!」と毒付いてみても仕方ないので、PCからプリントアウトしたマップを持って出発した。
 久しぶりに走った高速道路は適度にスピードが出せて気持ちがよかった。岐阜羽島で下りて後はマップを頼りに進んでいったところ、すぐに案内板が出てきて案外スムーズに着くことができた。大きな鳥居の下に広い駐車場があって、200円払えば一日停めることができる。ほとんど満車で、しかもひっきりなしに車が入ってくる。

 

鳥居をくぐると参道だが、びっくりした。参道の両側がみな店屋になっていて、大勢の人が縁日のように歩いていく。実に様々な店がある。

   

   

   

すごい!!私と妻はワンダーランドに迷い込んだように叫び声を上げた。普通の日曜日の真昼間にこんな世界が展開されているとは!もうあれやこれやもの珍しいものばかりであちらの店こちらの店とさ迷い歩いているうちに稲荷に着いた。本殿近くで30円払って油揚げと蝋燭を買い、それを供える。勿論、賽銭も出しながら塾の経営がうまくいくことを祈った。

  

参道の長さに比べればあっけないくらいに小さな境内だが、いくつかの社に参拝し終えてホッとしたら、空腹を感じた。この辺りは木曽三川(木曽川・揖斐川・長良川)に近いため、川魚を使った料理が名物のようだ。とくになまず料理が有名なようで、なまずの看板を掲げた店もあった。その中の一軒の店に入って昼食を食べたのだが、珍しい物好きの妻が「なまずランチ」なるものを注文した(待っている間に地震で店が揺れてびっくり)。なまずの蒲焼があって、私も一口味見してみたのだが、淡白な味で特においしくもまずくもない。ただ、皮が硬くて噛み切れないのには少々閉口した。

 

なんだか自分の毎日過ごしているのとは全く違った世界が開けていることが分かったのは大きな収穫だった。是非また行ってみたい。
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土井たか子

 憲法改正の手続きを定める国民投票法案が、13日衆議院を通過した。今何故こうした法案を成立する必要があるのか私には理解できないが、憲法改正が己の義務であるかのように考えている安倍晋三にとっては、規定路線に過ぎないのかもしれない。
 そんな折りしも、元衆議院議長・土井たか子と評論家・佐高信との対談集「護憲派の一分」(角川oneテーマ21)を読んだ。2007年4月10日初版発行とあるから、刊行されてまだ間もない本であり、まるで国民投票法案可決を見越したようなタイミングだ。
 この本は、佐高が『「土井たか子はいかにして土井たか子となりしか」を明らかにしたいというのが私の最初のもくろみだった。「ダメなものはダメ」と改憲に待ったをかける土井たか子というパーソナリティーを通して、日本国憲法のすばらしさを知ってもらいたいという思いもあった』と語るそのままの本である。対談では佐高が聞き役に回り、「なぜ憲法九条にこだわるのか」「改憲派が変えたい”男女平等”」「アジアの中の日本」「民主政治の火を消さないために」という4つの大きなテーマに沿って、土井たか子が自らの信条を存分に披瀝している。その間に、「せいいっぱい 土井たか子半自伝」という著書の中の、生い立ちから「初当選まで」の箇所を抜粋再録したものや、三木武夫・安永良介・宇都宮徳馬各氏への弔辞・追悼文が加えられ、一冊まるごと「土井たか子本」と言ってもいいような内容になっている。
 本書を通して私が読み取った土井たか子像は、今まで私が彼女に抱いていたイメージと全く齟齬を生じなかった。生身の彼女を接したことのない私は、TVなどマスコミから発信される虚像を受け取っていただけかもしれないが、本書を読む過程でその像を修正する必要はまるでなかった。私が思っていた通りの信念を持った行動の人であった。彼女は1928年生まれだから、今年79歳になる。今なお背筋をピンと伸ばした矍鑠たる姿で、歯切れのいい発言を繰り返すことができるのも護憲という筋金が一本通った生き方を続けてきた賜物であるように思う。若い世代に護憲の精神を伝えなければならないから、とても老け込んでなどいられないのだろう。
 彼女のこうした生き方の原点は、1945年の神戸大空襲での空襲体験にあると言う。

 「戦争は人間を人間でなくしてしまう。人を狂わせてしまう。天寿をまっとうしないで命を落とす人たちが、どれほど多いことか。最初に犠牲になるのは、罪のない子供や女性である。私は逃げまどう地獄絵図の中で、明日の生命は知れないと思った。私が「反戦」を唱えるようになった原点である」(P.107)
 
 戦争体験のある人たちの平和に対する思い入れの深さは、私のように戦後の平和な時代に生まれ育って来た者には想像すらできないかもしれない。もう2度とあんなに苦しくて悲しい思いはしたくない、という決意を戦争が終わった時にほとんどの日本人が持ったはずだ。こうした日本国民の反戦への強い決意を世界に向けて宣言したのが、日本国憲法第九条であろう。したがって、反戦を自らの原点と考える土井たか子にとって「戦争の放棄・戦力及び交戦権の否認」を明記する憲法第九条もまた彼女の原点であるのも当然のことである。この原点を守り、これから先も永久に守り続けようという強い意志が、頑固とまで言われる力で彼女を突き動かしているのだ。
 以前、太田光・中沢新一「憲法第九条を世界遺産に」を読んだとき、九条を金科玉条の如く崇め奉るのではなく、現実に生きている条文として議論すべきだ、と書いたが、その思いは本書を読み終えた今も変わらない。しかし、それは九条をアンタッチャブルとせず、現実に生きる有機体として捉え、広く議論を積み重ねていく過程が大切だという謂いである。最近の、特に安倍内閣になってからの教育基本法の改定と今回の国民投票法案のように、世論の盛り上がりなどまるでないまま、独断専行して憲法改正への外堀を埋めていくというやり方には全く賛成できない。
 私が本書を買った書店では、この本のすぐ近くに、西部邁の「核武装論」という新書が並べられていた。憲法に関する議論をタブー視することなく、忌憚ない考えを表明できる環境はどんなことがあっても保証されなければならないが、さすがにこの書名には暗澹たる思いがした。しかし、そうした思い込みこそが誤解を生じる元になるものだろうから、機会があれば蛮勇を奮って読んでみなければならないと思っている。
 立ち読みでいいかなあ。
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窯垣

 昨日銀行に行く用事ができた。いつもなら車で出かけるのだが、暖かさに誘われて、息子のマウンテンバイクに乗って行くことにした。自転車に乗るなんて何年ぶりだろう。本当に久しぶりに風を全身に受けながら走って行った。途中桜が満開の公園に立ち寄ったら、風とともに舞い落ちる花びらが地面をおおっていた。きれいだなと思いながら、川面を眺めると桜の花びらが流れている。おお、と思いながら目を凝らしてみたら、きれいな色の鴨がいた。

  

見慣れない鴨だなと思って見ていたら、すぐ後ろにいつもの茶色の羽をした鴨が付いているから、羽が生え変わったのかなと思った。果たして鴨の羽が季節によって生え変わるのかどうか知らないから、なんとも言えないが、鳥嫌いの私から見てもきれいな色の鴨だった。
 銀行までの途中にいくつかの橋があるが、その欄干は皆陶器で細工が施されていて、「さすが陶器の町!」という趣がある。私の小さい時にはそんなお洒落なものはなかったが、観光客を惹き付けるためにいろいろな工夫がされるようになって来た。

  

銀行で所用を済まして外に出ても、すぐに陶器が見つけられる。銀行の外壁には陶器の展示がしてあるし、陶器店は当たり前のように店を開いている、陶器でできた小さなお社まである。本当に陶器だらけだ。

  

子供のころは、こんなに陶器だらけの町が嫌いで仕方なかった。何年経っても旧態依然たる町並みや因習に捕らわれて沈滞した空気がたまらなくいやだった。それなのに、結局この町から離れずにずっと暮らしているのだから、文句は言っても愛着はそれなりに深いのだろう。
 折角ここまで自転車で来たんだから、帰りはちょっと寄り道しようと思った。少し行けば「窯垣の小径」という散歩道がある。「窯垣」というのは、窯から出た不用になった陶器のかけらや焼き物を焼くときの窯道具を使って崖を補強したものである。そんな「窯垣」の横に細い坂道が続いていて、ちょっとした観光名所だが、私は子供が小学生だったときに1度だけ親子学級で歩いたことがあるだけだ。

  

私にしてみれば、昔から見慣れたものであり、別段感興を催すものでもないが、他所から来た人には物珍しいようだ。確かに改めて見ると、なかなかレトロな雰囲気をかもし出している。だが私に感慨を催させたものは、小道の傍らに打ち捨てられていた窯の煙突の残骸である。


苔むした煉瓦に蔦が絡まり、何十年も前に役目を終えた煙突、なんだか衰退し続ける陶器産業を象徴しているように思えて物哀しかった。私が子供だったときは至るところに林立していた煙突からの煤で洗濯物が真っ黒になるのもしょっちゅうだった。こんなにきれいな空気、きれいな川を身近にできるなんて、子供のころには想像もしなかった。嬉しいような、寂しいような・・。
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ゴミ収集

 カラスの害が全国的な規模で問題になっている。様々な知恵を絞って、多くの人々がカラスと戦っているが、利口なカラスが相手ではなかなか一筋縄ではいかないようだ。私の住む町内でも、近頃ゴミ収集の日になるとカラスが集まってきて、ゴミ袋をあさっては中のゴミを道路一面に撒き散らすのが目立ってきた。さすがにそのままにはしておけないので、気づいた人が後片付けをするようにしてきた。以前からカラスの姿は見かけていたが、最近になって彼らの暴挙がエスカレートしてきた。これでは面倒だし、汚らしいし、不衛生だしと悪いこと尽くしで何とかしなければ、と妻と話していたところ、私の父が願ってもないものを引っ張り出してきてくれた。建設現場で、落下物を防ぐために四囲に張り巡らす工事用の網だ。今までは、塾舎の横の橋のたもとに決められていたゴミ袋の収集場所を、道路わきの金網沿いに変えて、その金網にこの工事用の網を縛り付けておき、

 
ゴミ袋を持ってきた人がその網の下にゴミ袋を置いていくようにした。

 

この網はかなり目が細かいので、カラスが啄ばんでも袋まで達することはできないだろうし、たとえ穴を開けることができたとしても中身を外まで出すことはできない。それに結構重みもあって、カラスの力では巻き上げることなどできないだろう。よくぞこんなにお誂え向きなものを見つけ出してくれたものだと、今回も父の機転に感心した。しかし、カラスもさすがなもので、網を使うようになったら全く寄り付かなくなった。無駄だと分かっているものにはなんらの関心も示さないのだなあと、改めて彼らの利口さに舌を巻いた。
 逆に愚かなのは人間の方で、まだ時々元の場所(橋のたもと)にゴミ袋を置いていく者がいる。収集場所を変えたことは近所には周知徹底したはずだから、これらは多分そんなことを知らないどこか遠くの人が朝の出がけにでも置いていった物だろう、と推測していた。ところが先日、私が高校生の授業が終わった夜の11時過ぎに、生徒を送るためバスで塾を出発したところ、橋のたもとに荷物を抱えた人影が見えた。こんな時間に誰だろうと訝しく思ったが、大して気にも留めず出発してしまった。
 生徒を送り届けて戻ってきたら、行きがけに人影が見えた辺りにごみ収集袋が2つぽつんと置いてあるのに気づいた。
「あっ、あれが・・」
とその時になってやっと人影の理由が分かったが、その時になってはもう後の祭りだ、どうしようもない。
「何だよ、こんな所に置いて・・」
とブツブツ言いながらバスを降り、金網のところまでゴミ袋を運んで、網をかぶせておいた。多分少し離れたところの住民だろうから、場所の変更を知らないのは仕方ないのかもしれない。それにしても夜のゴミ出しはルール違反なのに、と少々腹が立ってきたが、その時ふっと思った。もし、バスを出すときに、あの人影がゴミを出しに来た人であると分かったなら、一体私はどうしただろうか。
 ①バスを降りていって、説明してゴミ袋を移動してもらう。
 ②そのまま出発して戻ってきてから自分で移動させる。
 ③②のように移動させた後、張り紙をして場所を変えたことを告知する。
 ④そのままにしておく。
気弱な私には①は無理だし、④はカラスが喜ぶだけで、私にはできない。③はそんなことをしても無駄なような気がするから、やっぱり②なのかな・・。
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可愛いコックさん

 火曜日、塾が終わって家に帰ったら、妻が草剛の「ぷっすま」を見ていた。私も久しぶりだったからしばらく眺めていたら、絵描き歌の「可愛いコックさん」を聞きながら実際に絵を描いてみるというゲームを始めた。草画伯は勿論のこと、ユースケ・サンタマリアら他の出演者も皆まともに描けないのには驚いた。「何でこれくらい描けないんだろう?」と不思議な気がしたが、自分でも頭の中で思い描いてみると、少々怪しいところもある。「もう随分描いたことがないから・・」などと自分に言い訳するのも情けない気がする。最近とみに記憶力が減退しているようで、なかなか思い出せないことが多い。悲しい・・。
 最後に司会者が正解として描いたのを見て、「なるほど」と納得したが、なんとなく面白くない。そこで、今から、gooブログに付いている「おえかきツール」という機能を使って、歌とともに「可愛いコックさん」を描いてみようと思う。
    
棒が1本あったとさ            葉っぱかな

    

葉っぱじゃないよ かえるだよ          かえるじゃないよ あひるだよ

    

6月6日に 雨ザーザー降って来て       三角定規にひび入って

    

あんパンふたつ 豆みっつ         コッペパンふたつ くださいな

    

あーっという間に 可愛いコックーさん



ふーっ・・、やっとできた。マウスを使って絵を描くのは初めてではないが(かつての名作「「オバケのQ太郎」」は我ながら素晴らしいできであった)、実に久しぶりに描いたものだから、難しくて仕方がなかった。それでも、まあ何とか笑われずにすむだけのコックさんは描けたものだと自負している(なんて思い上がりが激しいんだろう)。 でも、正直言えば、「可愛い」と形容できるまでの出来ではなかったのはちょっと残念だ。

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「狼少年のパラドクス」

 子供たちの学力低下を論じる時、初等教育を見直さなければならないという考えがある。「ゆとり教育」や「学習指導要領」のせいで、小学校で学ぶ習慣を身に付けていない子供たちが、中学校・高校・大学と進んでいってしまうから、計算のできない、漢字も読めない、およそ大学生とは呼べない大学生が増えてしまう・・・だから初等教育を立て直す必要がある、という考えだ。確かにその通りであろう。授業時間中まともに座っていられない子供、教師の話を聞かず勝手な振る舞いをする子供たちを勉強させるのは一苦労であるが、たとえそれが家庭でのしつけの欠如が原因であろうと、小学校で学ぶ姿勢を確立させることが急務である。そのために、現場の教師の大部分が毎日奮闘努力していると思うが、そうした意識を持ち合わせていない教師が散見されるのは残念である。
 一方、少子化にもかかわらず、最高学府たる大学が新設されたり、学部・学科を増設したりすることによって、定員割れする大学が40%以上あるという現状を正すことが、子供の学力低下の歯止めをするのに必要であるという考えもある。ほとんど勉強などしなくても大学生になれてしまうのだから、勉強などする必要がないという簡単明瞭な論理に従って、遊び続ける子供たち。彼らには、学ぶことで自らの知的好奇心を満たそうなどという意欲はまるでなく、ただ社会的に必要だから学歴だけは付けておこうという漠然とした意識しか持ち合わせていない。そうした短絡的な考えが、高校生から中学生、はては小学生にまで広がっていることが現在の教育荒廃の元凶であるという考えにも、一理あるように思われる。
 教育について議論する場合、誰もがなんらかの意見を持っている。そうした意見は皆ある程度正鵠を射たものばかりだが、どれもそれだけでは不十分でもある。子供一人一人が違うのだから、すべての子供にふさわしい教育などあるはずがない。ただ、より多くの子供たちに当てはまる教育、もしくはそこから不利益を蒙る生徒が一人でも少なくなるような教育しか望めはしない。したがって、大事なのは基準をどこに置くかだ・・などとたかが一介の塾長たる私が、国家の骨格ともなるべき教育について思いを馳せたのは、内田樹の「狼少年のパラドクス」(朝日新聞社)を読んだからである。彼の「下流志向」は、少々違和感を感じる部分があって、まだ半分ほどしか読んでいないが、「狼少年・・」は内田が自身のブログ上に公開した文章を集めたものだけあって、己の大学教授という立場から大学の危機を訴えながら、より率直に教育を論じている点で、かなり興味深く読むことができた。
 内田は、本書で一貫して大学の「ダウンサイジング」の必要性を説く。定員割れする大学が増大する中、一部の有力大学が学部・学科の統合・新設を繰り返し、圧倒的多数の志願者を集め、マンモス大学化しつつある。これほどまでに大学間の格差が明らかになってしまうと、つぶれる大学も近い将来続出するはずだ。そうした予測に対し、大学を地域の文化の核として捉える内田は警鐘を鳴らし続け、そうした危機を避けるための唯一有効な手立ては、すべての大学が一律に入学者定員を減らすことであると主張する。この大学のダウンサイジングが可能なら、定員割れをする大学を減らすことができ、入学試験によって学生を選抜することが可能となる。大学に簡単に入れないとなれば、高校生の勉強に対する意識も変わり、モチベーションも高まり、ひいては、その意識が上意下達的に小学生まで浸透するとなれば、学力低下を押しとどめることも可能かもしれない(勿論それほど単純な話ではないが)。
 だが、問題なのは内田が望むような動きが私立大学に全くといっていいほど見られないことだ。まるでチキンレースのように拡大路線を突っ走っているという。残念なことだが、彼の悲嘆慷慨はこれからも続くことだろう。

 日本の教育は「金になるのか、ならないのか」と問うことだけがリアリズムだと信じてきた「六歳児の大人」たちによって荒廃を続けている。どこまで日本を破壊すれば、この趨勢はとどまるのであろうか。
 私にはまだ先が見えない。  (p.91 「大学がなくなればゴーストタウン」)
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