★ 埼玉県富士見市で24歳の教諭が給食に漂白剤を入れた事件。引き続き同じクラスを担任できなかった悔しさが動機だというが、その「悔しさ」とかつての教え子の命を危険にさらすことのギャップが大きすぎて理解に苦しむ。彼女の中でどのような過程や葛藤があったのか。
★ 学校の保護者説明会で、給食の容器に鍵をかけると言った対策が話されたというが、信頼を基盤とする教育現場がここまで来たかと落胆する。大阪教育大学附属小学校やそれに続く学校侵入事件で、校門は閉ざされるようになった。「開かれた学校」という1980年代から90年代にかけての流れが一気に逆流した記憶がある。
★ この事件を受け、ある人は性善説から性悪説への転換を主張し、ある人は教員の倫理や道徳観に言及するであろう。ある人は志願者が減少し教員不足に陥った「教職」に原因を求めるかも知れない。更にある人は、この教員個人の特殊な精神性に言及するかも知れない。
★ バイトテロのご時世とはいえ、子どもを守るべき教員が子どもを危険にさらすとは、根本的に何かがおかしくなっているとしか思えない。
★ さて、今日は三島由紀夫の「真夏の死」(新潮文庫)から「花火」、「殉教」(新潮文庫)から「孔雀」を読んだ。
★ 「花火」は、アルバイトを求める学生が自分と瓜二つの男と出会い、彼に勧められた仕事をすることに。その仕事とは両国花火大会の日、「待合」を訪れる客たちの世話をすること。この「待合」には現職の大臣もやってくるとかで、瓜二つの男は、その大臣を見つめるとご祝儀をはずんでくれると謎のことを言う。結局、大臣がなぜご祝儀をくれたのかは、読者の想像に委ねられている。
★ 「孔雀」では、ある遊園地に飼われていた孔雀が殺されるという事件が起こる。殺される数日前、長時間孔雀を眺めていた富岡という男に容疑が及ぶ。刑事と男のやりとりで物語は進む。男の容姿に関してあるいは孔雀の美しさに関して細かく描写されている。
★ 「孔雀は殺されることによってしか完成されぬ」
★ 孔雀は「美」の象徴なのかも知れない。「美」は葬られてこそ永遠性を得られる。「金閣寺」にも似たモチーフか。富岡はかつて、理想的な美しさをもつ青年だった。それが今は40歳を超え、かつての美しさは見る影もない。親の財産によって生活が守られているせいか、仕事にも生きがいを感じられない。ただ漠然と生きている。若き日の自分自身に嫉妬を感じながら。
★ 最後は非現実的な終わり方になっている。果たして現実か、それとも幻か。
☆ 教員の不祥事といえば、大阪・堺市で教員が生徒に暴行(体罰というが)をはたらいて停職になった事案。こちらは比較的わかりやすい。生徒にナメられ思わずカッとしてしまったんだろう。心情はわかるが、これでは生徒と同じレベルだ。プロとしてはお恥ずかしい限りだ。
☆ 生徒にナメられない教員の風格、雰囲気、オーラってなんだろう。どうやったら得られるのだろう。