令和3年
中村哲さんを偲ぶ
出生から大学卒業まで
2年後、母の実家(玉井家)がある同県若松市(現在の北九州市若松区)に移り、
6歳から大学卒業まで古賀町(現在の古賀市)で暮らした。
古賀市立古賀西小学校、西南学院中学校、福岡県立福岡高等学校を経て、
医師免許取得後
以来、20年以上ハンセン病を中心とする医療活動に従事する。
7000m峰ティリチミール登山隊に帯同医師として参加した。
パキスタン・アフガニスタン地域で長く活動してきたが、
パキスタン国内では政府の圧力で活動の継続が困難になったとして、
以後はアフガニスタンに現地拠点を移して活動を続けている。
1996年に医療功労賞を受賞し、03年にマグサイサイ賞を受賞した。
2004年には皇居に招かれ、
当時天皇であった明仁、皇后の美智子、皇女・紀宮清子内親王(当時)へ
アフガニスタンの現況報告を行った。同年、第14回イーハトーブ賞受賞。
2008年には参議院外交防衛委員会で参考人としてアフガニスタン情勢を語っている。
また、
「天皇陛下御在位20年記念式典」にも、
天皇・皇后が関心を持つ分野に縁のある代表者の一人として紹介され出席している。
2010年、水があれば多くの病気と帰還難民問題を解決できるとして、
クナール川からガンベリー砂漠まで、総延長25kmを超える用水路が完成し、
約10万人の農民が暮らしていける基盤を作る。
2016年、現地の住民が自分で用水路を作れるように、学校を準備中。
2018年、アフガニスタンの国家勲章を受章した。
2019年10月7日、アフガニスタンでの長年の活動が認められ名誉市民権を授与された。
銃撃事件・没後
2019年12月4日、アフガニスタンの東部の州都ジャラーラーバードにおいて、
車で移動中に何者かに銃撃を受け、右胸に一発被弾した。
負傷後、現地の病院に搬送された際には意識があったが、
さらなる治療の為にパルヴァーン州にあるアメリカ軍のバグラム空軍基地へ
搬送される途中で死亡した。
中村が襲撃されたこの事件に対してターリバーンは報道官が声明を発表し、
組織の関与を否定。
一方アフガニスタン大統領はテロ事件であるとする声明を発した。
12月7日、カブールの空港で追悼式典が行われたのち、
遺体は空路で日本に搬送された。
追悼式典では大統領のアシュラフ・ガニー自らが棺を担いだ。
告別式は12月11日に福岡市中央区の斎場で営まれた。
バシール・モハバット駐日アフガニスタン大使、久保千春九州大学長らが弔辞を読んだ。
中村と同様にアフガニスタンへの医療支援を目的とするNPO法人カレーズの会を
率いていたアフガニスタン系日本人医師レシャード・カレッドは、
中日新聞の取材に応じて、生前の中村について
「互いの活動を励まし合い、相談し合う関係」であったと述べ、
「寡黙で男らしく、優しい九州男児を絵に描いたような人だった」
と中村の人柄を述懐して冥福を祈った。
福岡県警は刑法の国外犯規定に基づき殺人容疑で捜査を進めており、
司法解剖の結果、死因は肝臓損傷による失血死とみられると発表した。
追悼の声
中村の死去を受けて、政界からは以下のような発言がなされた。
- 内閣総理大臣・安倍晋三:「中村先生は、医師として医療分野において、また、灌漑事業等において、アフガンで大変な貢献をしてこられました。なかなか危険で厳しい地域にあって、本当に、本当に命懸けで様々な業績を挙げられ、アフガンの人々からも大変な感謝を受けていたというふうに、我々も知っておりますが。しかし、今回このような形で、お亡くなりになられたことは本当にショックですし、心から御冥福をお祈りしたいと思います。」
- 内閣官房長官・菅義偉:「中村医師を含む方々が犠牲となったことは痛恨の極みだ。今回の卑劣なテロは許されるものではなく、わが国は断固として非難し、今後とも日本人の安全確保のために全力を尽くしていくとともに、アフガニスタンの平和と発展のために引き続き貢献していきたい」
- 自由民主党政務調査会長・岸田文雄:「中村さんの大きな功績を改めて振り返り、敬意を表し、ご冥福をお祈り申し上げたい。国際社会では厳しい現実が存在し、日本人が命をかけて頑張っている。今後、中東への自衛隊派遣の問題など、国際社会との関わりを政治の立場から真剣に考えていかないといけない」
- 自由民主党幹事長・二階俊博:「誠に無念で、ご家族の心中を思うと大変胸が痛む。何の罪もない尊い生命を奪う卑劣で残忍なテロを断じて許すことはできない。政府は、真相究明を徹底的に行い、このようなテロが二度と起きないよう、最善の努力を尽くすべきだ」
- 国民民主党外交・安全保障調査会長・渡辺周:「国会で参考人として証言し、当時の民主党でも貴重な意見をいただいた。『何をしてはいけないか。殺してはいけない、戦争に関わってはいけない』という直接いただいたことばを思い起こし、世界の平和と日本国民の安全のためにどのような行動をとるべきか、常に考えなければならない。われわれがきちんと役割を果たすことをお誓いし、心からご冥福をお祈りしたい」
- 公明党代表・山口那津男:「私も中村さんに会って話を聞いたことがあるが、アフガニスタンの貧しい人たちを助けるために支援してきた方で、銃撃で命を奪われたことは許しがたい。アフガニスタンの復興と安定を作り出すため、中村さんの志はこれからも消えることなく、多くの人が共有し、努力していくべきだ」
- 日本共産党委員長・志位和夫:「憲法9条に基づく国際貢献とは何かということを身をもって体現された方だ。自衛隊の海外派遣の動きがあった際には、『非軍事の国際貢献が危険にさらされる』として、必ず反対していたのが大変心に残っている。中村さんを失ったことは、世界にとって損失だ。心から哀悼の意を表したい」
追贈 等
2019年12月23日、政府は中村への旭日小綬章の追贈と内閣総理大臣感謝状の授与を決定。
27日に行われた授与式で授与式で内閣総理大臣・安倍晋三は遺族と面会し、
「(中村さんは)アフガニスタン国民や難民のための医療活動、
かんがい事業などで輝かしい業績を上げ、国際人道支援に多大な貢献をした」
と生前の功績を称えた。
授与式の後に遺族は取材に応じ、「本当は無念で残念だが、みなさまの支援で継続してアフガニスタンで緑の大地が広がっていくことを願っている」「ぺシャワール会はこれからも継続していく。父も何より願っていることで、家族もそれが願いです」と語った。
授与式には駐日アフガニスタン大使のバシール・モハバットや、
ペシャワール会の村上優会長らも立ち会った。
2020年1月、ガンベリ(英:Gamberi)公園にドクターサーブナカムラ記念塔が建設された。
同年7月、第6回食の新潟国際賞の大賞を受賞。
同年8月、佐賀大学の研究チームが、新種のタマバエの学名を、
Massalongia nakamuratetsui と命名。和名はミズメタマバエとなる。
2021年1月14日、アフガニスタン政府は人道支援活動の功績をたたえて
中村の肖像をデザインした切手を発行することを発表した
(切手には現地語と英語で事績が記されている)。
人物
- 西南学院中学校在学中に日本バプテスト連盟香住ヶ丘バプテスト教会(福岡市東区、当時は香椎伝道所)でF・M・ホートン宣教師よりバプテスマを受けた。当時の香住ヶ丘教会はまだバプテスマが行われたことがなく、教会にとって中村は最初期の生え抜き教会員だったという。
- 自身はクリスチャンである。同時に現地の人々の信仰や価値観の在り方を尊重して活動を続けていた。
- 福岡高等学校時代の同期に原尞がいる。また内科医で九州大学第23代学長・久保千春は大学で同級だった。
- アフガニスタンでの活動について、「向こうに行って、9条がバックボーンとして僕らの活動を支えていてくれる、これが我々を守ってきてくれたんだな、という実感がありますよ。体で感じた想いですよ。武器など絶対に使用しないで、平和を具現化する。それが具体的な形として存在しているのが日本という国の平和憲法、9条ですよ。それを、現地の人たちも分かってくれているんです。だから、政府側も反政府側も、タリバンだって我々には手を出さない。むしろ、守ってくれているんです。9条があるから、海外ではこれまで絶対に銃を撃たなかった日本。それが、ほんとうの日本の強味なんですよ。」と語り、憲法9条の堅持を主張した。また佐高信に対しても「アフガニスタンにいると『軍事力があれば我が身を守れる』というのが迷信だと分かる。敵を作らず、平和な信頼関係を築くことが一番の安全保障だと肌身に感じる。単に日本人だから命拾いしたことが何度もあった。憲法9条は日本に暮らす人々が思っている以上に、リアルで大きな力で、僕たちを守ってくれているんです」とも語っている。
- 佐賀大学農学部などの研究チームは、太良町の多良岳で2018年に発見したタマバエの新種を昆虫好きとして知られていた中村医師に因みMassalongia nakamuratetsuiと命名した。和名はミズメタマバエ。
家族・親族
- 小説家の火野葦平は母方の伯父である(妹が中村の母)。
- 父方の親族は、1945年の福岡大空襲でほぼ全滅している。
- 父の中村勉は、1903年生まれ。給仕として働いていたところ、その英才を松永安左衛門に認められて給費生として福岡県福岡工業学校に入学し、早稲田大学を経て、再び若松に戻り、火野葦平と交流を深めていた。同時に左翼運動にも力を入れ、指導的立場にいた。しかし、日本労働組合全国協議会での反戦・労働運動などを理由に1932年2月24日に治安維持法違反で逮捕され、懲役2年、猶予5年の判決を受けた。玉井組の下請けとして中村組を立ち上げ、戦後は沈没船のサルベージなどを生業にしていた。
- 外祖父で若松において港湾荷役業を営んでいた玉井金五郎が映画『花と竜』のモデルとなった。
- 西日本新聞記者で同社北九州本社代表を務め、現在はプロサッカーチーム:ギラヴァンツ北九州代表取締役社長の職に在る玉井行人は従兄弟に当たる。
- 長女の秋子がやはりペシャワール会事務局で、2020年1月から活動している。
著書
単著
- 『ペシャワールにて 癩そしてアフガン難民』石風社 1989年
- 『ペシャワールからの報告 現地医療現場で考える』河合ブックレット 1990年
- 『アフガニスタンの診療所から』筑摩書房 ちくまプリマーブックス 1993年 のち文庫 2012年に一旦絶版、2019年急逝に伴い緊急復刊
- 『ダラエ・ヌールへの道 アフガン難民とともに』石風社 1993年
- 『医は国境を越えて』石風社 1999年
- 『医者井戸を掘る―アフガン旱魃との闘い』石風社 2001年
- 『ほんとうのアフガニスタン―18年間“闘う平和主義”をつらぬいてきた医師の現場報告』光文社 2002年
- 『医者よ、信念はいらないまず命を救え! アフガニスタンで「井戸を掘る」医者中村哲』羊土社 2003年
- 『辺境で診る辺境から見る』石風社 2003年
- 『アフガニスタンで考える―国際貢献と憲法九条』岩波ブックレット 2006年
- 『医者、用水路を拓く―アフガンの大地から世界の虚構に挑む』石風社 2007年
- 『天、共に在り―アフガニスタン三十年の闘い』NHK出版 2013年
共編著
- 『空爆と「復興」―アフガン最前線報告』ペシャワール会共編著、石風社 2004年
- 『丸腰のボランティア―すべて現場から学んだ』ペシャワール会日本人ワーカー著、編纂 石風社 2006年
- 『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る アフガンとの約束』澤地久枝聞き手 岩波書店 2010年
中村哲を題材とした作品
- 三枝義浩「アフガニスタンで起こったこと 〜不屈の医師 中村哲物語〜」前、後編 講談社『週刊少年マガジン』2003年24号、25号
- さだまさし「ひと粒の麦~Moment~」 アルバム『存在理由~Raison d’etre~』のラスト曲 2020年5月20日発売
- 蘭華「愛を耕す人/ ねがいうた」2020年10月7日発売徳間ジャパンTKCA-91307
関連
- 川原尚行 : スーダンで同様の海外支援活動を行っている医師。九州大学医学部の後輩に当たる。
- 伊藤和也 : アフガニスタン日本人拉致事件で拉致・殺害されたペシャワール会職員。
- Nakamuratetsu : 活動に共感した発見者が名づけた小惑星。2020年6月3日発表。
捜査関係者や知人によると、TTP地方幹部の男はパキスタン北西部出身。
年齢は中年で、誘拐による身代金を資金源としていたとされる。
昨年6月、捜査線上に浮かんだTTP地方幹部の男が潜伏する
東部クナール州の隠れ家を捜査当局が急襲したが
銃撃戦になりその合間に取り逃がした。
今年1月29日仲間と首都カブールで襲撃事件を起こし現場で警備員に撃たれて死亡。
逃げ帰った仲間が男の家族やTTPに死亡を知らせた。
TTP報道担当者らが朝日新聞通信員の取材に明かした。
また、男が懇意にしていたTTPのメンバー2人によると、
男は生前に悩んだ様子で
「共犯者が(中村さんを)撃ってしまった」と話していたという。
この共犯者はアフガニスタンから出国し、
現在はパキスタン北西部に潜伏しているとの情報がある。
事件は、ガニ大統領が監督する最重要事件に指定され、
捜査当局が関係先の捜索を進めている。
捜査幹部は「残る共犯者を特定し、動機の解明につなげたい」と語る。
(バンコク=乗京真知)朝日新聞社
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母方の実家(玉井家)の祖父母=玉井金五郎とマンの影響
幼少期を過ごしたのは、港湾労働者が多くいた北九州市若松区。「職業に貴賤はない」。人として大切なことは何かを教えた祖母の言葉と、故郷の景色に溶け込んだ労働者の姿が人生の原点。玄界灘に面した若松区は明治以降筑豊から運ばれた石炭の積み出し港として栄え、中村さんの母方の祖父、玉井金五郎は港湾荷役業を営んだ。親分肌で、血気盛んな労働者を束ね、祖母のマンとともに火野葦平の小説「花と龍」のモデルにもなった。
「おばあちゃん子だった」夫妻の息子だった若松区に住む玉井史太郎(82)は幼いころの中村さんをよく覚えている。そのマンさんは汗まみれで働く人々に一目置いており「差別はいけない」と中村や史太郎に繰り返し言い聞かせた。2人は強い偏見を受けることもあった在日コリアンの労働者の「お兄ちゃん」によく遊んでもらっていた。
12月11日の告別式では活動を始める前の中村さんが身近な病で亡くなってしまう海外の貧しい人の姿に心を痛め「命の不平等」を強い口調で語っていたエピソードが明かされ、マンさんも仏教の教えからどんな命も大切にするよう説き、昆虫や植物を愛し人間社会の不条理に敏感だった中村さんに影響を与えた、と史太郎さんはみる。
中村と金五郎は風貌が似ていた。弱い立場の人を助けようと前に出て動いたり、正しい者が勝つと信じて突き進んだりする姿もそっくりだった。「最初はチョウが見たくて海外に行ったのに、目の前の困った人を助けたいと汗を流し続けてきたのは、哲君らしい」
金五郎とマンは中村が子供のころ他界。玉井家邸宅は、市指定史跡「火野葦平旧居『河伯洞』」として公開され、史太郎さんが管理人を務める。帰国した中村も時折若松を訪れ、懐かしんでいたという。