この3連休、実家に帰っていたkaneurikichiji 。
お盆以来です。
お盆には、近くて遠い史跡をやっと訪れましたが、今回も行って来ました・・・
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/74/a04d9f6b95ffd55f91e62dd02250c323.jpg)
新治郡衙跡(国史跡)です。
なぜここが新治郡衙、すなわちこの新治郡の役所跡だと分かったのかというと、発掘調査で焼けた米などが発見され、「常陸国新治郡に災※あり。不動倉十三宇、穀九千九百九十石を焼く」という『類聚国史』巻173の記述に合致するということで、新治郡の役所跡だと断定されたのです。
※災とは大火事のことです。
その発掘調査が行われたのは、早くは戦前の1941・43年。
しかも、それが文献の記録と合致させる成果を収めたのは驚きです。
そうした発掘史にも残る遺跡が実家の近くにあるのは誇らしいことですが、そこに歴史を学ぶようになって四半世紀も足を伸ばさなかったのは恥ずかしいこと。
もっともっと精進しなければと思いながら遺跡にしばしたたずんでいました。
お盆以来です。
お盆には、近くて遠い史跡をやっと訪れましたが、今回も行って来ました・・・
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/74/a04d9f6b95ffd55f91e62dd02250c323.jpg)
新治郡衙跡(国史跡)です。
なぜここが新治郡衙、すなわちこの新治郡の役所跡だと分かったのかというと、発掘調査で焼けた米などが発見され、「常陸国新治郡に災※あり。不動倉十三宇、穀九千九百九十石を焼く」という『類聚国史』巻173の記述に合致するということで、新治郡の役所跡だと断定されたのです。
※災とは大火事のことです。
その発掘調査が行われたのは、早くは戦前の1941・43年。
しかも、それが文献の記録と合致させる成果を収めたのは驚きです。
そうした発掘史にも残る遺跡が実家の近くにあるのは誇らしいことですが、そこに歴史を学ぶようになって四半世紀も足を伸ばさなかったのは恥ずかしいこと。
もっともっと精進しなければと思いながら遺跡にしばしたたずんでいました。