昨日、帰省から帰盛したわけですが、帰省中は恒例の?近くて遠い史跡に。
行ったのは・・・・
結城廃寺跡(ゆうきはいじあと)です。
多分、実家から一番近い史跡かもしれません。
この通り・・・・
何があるというわけではないので、とても地味です。
が、長者ヶ原廃寺跡という今となってはなんという名前のお寺なのか分からなくなってしまった遺跡の調査と整備を担当する者としては、うらやましい遺跡なのです。
というのも、かつてはこのお寺、『ほうじょうじ』と呼ばれていたのが、ほぼ確実だからです。
今から約1100年前に、朝廷から独立し自ら新皇と名乗った平将門。
その将門の放棄から討死までの物語である『将門記(しょうもんき)』には、下総国結城郡(今の結城市と八千代町周辺)に「法城寺」というお寺があったことが記されています。
長く、この法城寺がどこにあったのかは不明のままだったのですが、結城廃寺跡の発掘調査で「法成寺」と記された瓦が出土したことで、結城廃寺跡が『将門記』の法城寺だということがほぼ確実となりました。
2字目が、城と成とで違いますが、
① 本来は城だが、土偏を省略した。
←瓦に文字を刻む時に画数の少なくするために、省略することはよくあることです。
② 城も成も音読みではジョウと共通するので、ホウジョウジという読み方は同じ。
←古代人は読みが同じならば、どの字を使うかはあまり気にしてませんでした。
ので、どちらも間違っているわけではありません。
このように、結城廃寺跡は、かつては法城寺あるいは法成寺という名だったことが、『将門記』と発掘調査によって明らかになったのです。
実はこのような事例は極めてまれで、かねうりきちじが知る限りでは群馬県前橋市の山王廃寺=放光寺ぐらいです。
長者ヶ原廃寺跡の話をすると、なんていう名前だったのかということをよく尋ねられます。
その時、「分からない」回答せざるを得ないのがとても悔しく、そのせいで結城廃寺跡や山王廃寺のように、名前がほぼ確定できる遺跡がとてもうらやましく感じるのです...
行ったのは・・・・
結城廃寺跡(ゆうきはいじあと)です。
多分、実家から一番近い史跡かもしれません。
この通り・・・・
何があるというわけではないので、とても地味です。
が、長者ヶ原廃寺跡という今となってはなんという名前のお寺なのか分からなくなってしまった遺跡の調査と整備を担当する者としては、うらやましい遺跡なのです。
というのも、かつてはこのお寺、『ほうじょうじ』と呼ばれていたのが、ほぼ確実だからです。
今から約1100年前に、朝廷から独立し自ら新皇と名乗った平将門。
その将門の放棄から討死までの物語である『将門記(しょうもんき)』には、下総国結城郡(今の結城市と八千代町周辺)に「法城寺」というお寺があったことが記されています。
長く、この法城寺がどこにあったのかは不明のままだったのですが、結城廃寺跡の発掘調査で「法成寺」と記された瓦が出土したことで、結城廃寺跡が『将門記』の法城寺だということがほぼ確実となりました。
2字目が、城と成とで違いますが、
① 本来は城だが、土偏を省略した。
←瓦に文字を刻む時に画数の少なくするために、省略することはよくあることです。
② 城も成も音読みではジョウと共通するので、ホウジョウジという読み方は同じ。
←古代人は読みが同じならば、どの字を使うかはあまり気にしてませんでした。
ので、どちらも間違っているわけではありません。
このように、結城廃寺跡は、かつては法城寺あるいは法成寺という名だったことが、『将門記』と発掘調査によって明らかになったのです。
実はこのような事例は極めてまれで、かねうりきちじが知る限りでは群馬県前橋市の山王廃寺=放光寺ぐらいです。
長者ヶ原廃寺跡の話をすると、なんていう名前だったのかということをよく尋ねられます。
その時、「分からない」回答せざるを得ないのがとても悔しく、そのせいで結城廃寺跡や山王廃寺のように、名前がほぼ確定できる遺跡がとてもうらやましく感じるのです...