かねうりきちじの横浜・喫茶店めぐり

珈琲歴四十年の中の人が、珈琲豆荷揚げ量日本一を誇る横浜港のある町の喫茶店でタンザニア産コーヒーを飲み歩きます

地名は大切に~新治郡衙跡で改めて思う

2013年12月25日 | 旧ブログ記事(文化財関係)
新治 にいはり が、なぜつくばと並んで由緒ある地名なのか。

それは、日本最古の歴史書である『古事記』にその名が見えるから。

しかも、誰もが知っている伝説上の人物、日本武尊が登場する場面で、です。

大和から今の関東地方を支配するために父、景行天皇から派遣された日本武尊。

甲斐の酒折宮(さかおりのみや、甲府市酒折付近か)で、夜を越すことにした日本武尊が、

   にいばり つくばを過ぎて 幾夜か寝つる
    新治や筑波を通り過ぎてから幾夜寝たのだろうか

と詠ったところ、御火焼翁(みひたきのおきな)という、いわば火の番をしていた老人が、

  かがなべて 夜には九夜 日には十日を
    日数を重ねて、夜は九つの夜、昼だと十日です

と返したと言います。
  ※このため、酒折では連歌発祥の地とされているようです。

4ー7ー7に対して、5ー7ー7で返しているので、現在の連歌とは少し形式を異にしていますが、一般的にはこれが連歌の起源とされ、そのこともあって、連歌は“筑波の道”とも呼ばれます。

というわけで、『新治』は古くからあり、しかも重要な地名なのです。

 遺跡近くの国道50号沿いにある石碑

それが、今ではJR水戸線の新治駅にしか残っていないのは、歴史を研究している者としては、少し寂しいですね。
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真壁郡にあるのに新治郡衙?

2013年12月24日 | 旧ブログ記事(文化財関係)
史跡 新治郡衙跡は、旧真壁郡協和町(現在は筑西市)にあります。

郡衙=郡の役所なら、新治郡衙がなぜ真壁郡に?と思われる方もいらっしゃるかも。

しかも、ちょっと前まであった旧霞ヶ浦町・旧千代田町(合併して現在ではかすみがうら市)は新治郡でした。

画面右の峰が二つある山が筑波山。

その最近までの新治郡は、遺跡から見える筑波山の向こう側。

どうしてそうなったのかというと、新治郡が所属する常陸国では、郡が分割されたり、荘園が多く割かれたりしたため、消滅する郡もありました。

小栗御厨がある新治郡もそのひとつ。

ただ、安土桃山時代の1594年、常陸国で太閤検地が行われた際、古代の郡名が復興され、霞ヶ浦の北側の地域が新治郡とされたのです。

でも、どうせ復活させるなら、同じような地域に当てはめればよかったのに。

それはまぁそうとして、最近、「にいはり」の名をきちんとした形で、復活させられることが可能だったんですけどねぇ。

それは、旧協和町が周りの下館市・明野町・関城町と合併した時。

新市の名を「にいはり市」にすればよかったのにと思うのは、筑西市になってからそこに住んだことのない者の勝手な言い分でしょうか?

でも、『にいはり』の名前は、お隣の『つくば』と並んで、古くから見られる由緒ある地名なんですけどねぇ。
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近くて遠い3~新治郡衙跡に行って来ました

2013年12月23日 | 旧ブログ記事(文化財関係)
この3連休、実家に帰っていたkaneurikichiji 。

お盆以来です。

お盆には、近くて遠い史跡をやっと訪れましたが、今回も行って来ました・・・



新治郡衙跡(国史跡)です。

なぜここが新治郡衙、すなわちこの新治郡の役所跡だと分かったのかというと、発掘調査で焼けた米などが発見され、「常陸国新治郡に災あり。不動倉十三宇、穀九千九百九十石を焼く」という『類聚国史』巻173の記述に合致するということで、新治郡の役所跡だと断定されたのです。
 ※災とは大火事のことです。

その発掘調査が行われたのは、早くは戦前の1941・43年。

しかも、それが文献の記録と合致させる成果を収めたのは驚きです。

そうした発掘史にも残る遺跡が実家の近くにあるのは誇らしいことですが、そこに歴史を学ぶようになって四半世紀も足を伸ばさなかったのは恥ずかしいこと。

もっともっと精進しなければと思いながら遺跡にしばしたたずんでいました。
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まだまだ、これから~大悲山の石仏のまわりの状況

2013年12月21日 | 旧ブログ記事(その他)
見学した大悲山の石仏は南相馬市小高区にあります。

ここは福島第1原子力発電所から北に約20kmのところにあり、現在では避難指示解除準備区域になっています。

立ち入りは自由だけれども、そこで夜を越すことは禁じられています。

東京の日暮里駅が起点の常磐線も・・・


起点から276.883km地点の北の内踏切から東京方面(左)と仙台方面を見る。

この近辺では不通。

そして、津波で流された家も・・・・



こんな感じで残されていて、車も・・・・

 

まったく片付けられていません。

復旧すらなっていないこの状況に、戸惑うしかありませんでした。

まだまだ、これから。

まずは、復旧なることを祈るばかりです。

そして、kaneurikichiji ができることをお手伝いしたいと思っています。
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被災された人々の心を癒やすお薬師さま~南相馬・薬師堂石仏へ行ってきました

2013年12月20日 | 旧ブログ記事(文化財関係)
発掘調査が行われていたのは観音堂石仏だけでしたが、同時に薬師堂石仏の説明もしていただきました。



こちらの覆堂は健在。

堂内に入り、引き戸を越えると・・・・・



目の前にお仏様が。

かなりの迫力です。

臼杵磨崖仏は見たことがないのですが、今まで見たことのある磨崖仏、大谷磨崖仏、



富山は上市町の日石寺や、



奈良は室生寺近くの大野寺磨崖仏に比べて、かなり間近で拝むことができます。

実はこの仏様、厳密にはどんな尊格は不明と言うしかないようですが、言い伝えで『薬師堂』と言われているので、薬師如来としてよいのでしょう。

説明されていた方も、そのようにおっしゃっていました。

造られた時期は、これも不明ですが、首が太く、肩も張っていて、量感が豊かなことから、いわゆる貞観仏に近いものがあるようです。

世紀でいえば9世紀中頃から後半にかけてでしょうか。

観音堂石仏に少し先行するのかもしれませんが、差はそれほど大きくないようです。



本尊の他に・・・

 こちらは本尊に向かってすぐ右側の浮彫の像

浮彫の像が五体、線刻の像が四体。

観音堂石仏にも彩色が残っていましたが、薬師堂石仏のはそれよりさらによい保存状態でした。

こんな間近で見られる磨崖仏は貴重です。

避難指示が解除されて、自由に見学できる日が一日も早く訪れますように、心から祈っています。
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