Kおばちゃんのつぶやき

日々徒然に思うことの備忘録

さすらう若人のマーラー(ウイーン)

2010-09-16 23:59:47 | オーストリア
実は、ちょこっと出稼ぎに出ていたのだが、その出先でアップしようと△padを持参したのですが、過去の既にアップロードされている画像を使っての投稿の仕方ができない・・らしいでの、やめました。

つまり、△padはあくまでも『携帯扱い』なんでそうです。
なんだかなーー。だって編集画面はちゃんと見えてるのですよね。
ポップアップ機能が使えないのは判っていたので、あらかじめ画像を入れたブログを下書き投稿してたのに・・何だか変なの!と思ってるkおばちゃんです。

ああ、出稼ぎ先・・その他は暑かった!!

○6月29日(火)

オーストリア演劇博物館に何とか無事に辿り着いたkおばちゃん。早速特別展のマーラー展を見るべく2階にあがります。
で、もちろんオーディオガイドも借りました。

どうも、展示は彼の生涯別になっているようで、最初は幼いころの成績表なんかもあるようです。


彼は現在のチェコの地で生まれて、ウイーンに音楽の勉強に出てきたのは1875年の15歳の時だそうです。
その後、1878年、18歳の時に卒業。あら、早いのね。

1881年の夏でしょうか。 Bad Hallというリンツのそばの夏の保養地の小さな劇場でオペラというかオペレッタの指揮者としてデビューしたのがはじまりのようですね。
その間、卒業してからはピアノ教師なんかして食いつないでた・・のではないかと思われます。

その後も、転々としていたようで・・若き日のマーラーはそれこそ『さまよえる若者』だったようですね。


1883年、23歳のときドイツのカッセルの歌劇場の副指揮者(Kapellmeister?)となりやっと落ち着いた・・ということろでしょうか。


1888年の28歳のころにブダペスト王立歌劇場の芸術監督になったそうです。確かそのころの写真です。


で、これがマーラー氏だそうです。なんとなく判るような・・わからないような。

その後・・まあ色々とご活躍だったようで・・

で、kおばちゃんがこれから・・といってもまだ先ですが・・向かう処の当時の写真です。
ザルツカンマーグトのアッター湖畔に建てた、作曲のための『小屋』です。

その当時交流のあったナタリーバウアー・レヒナー Natalie Bauer-Lechner (1858–1921)女史への書付のようです。

彼女はビオラ奏者だったようですが、マーラーの恋人ではなかったのでしょう。このころはマーラーはまだ独身でした。
音楽的な意見を交換していたようです。

そしてこれが昨晩夜中に聞かされた交響曲3番の楽譜です。

このアッター湖で下書きをして、昨晩kおばちゃんが行った友人の家の隣で完成させた・・と家の主は言い張ってましたけど。

かなり忘れているところもあります。

そうそう、彼の歌曲『さすらう若人の歌Lieder eines fahrenden Gesellen 』は1884年かえら1885年にかけての作品だそうで、このことはやっとマーラー自身はさすらってなかったんでしょうかね。
コメント
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