父方の祖父二吉(1880-1952)については、以前、「ファミリー・
ヒストリー」の一つとして書いた(→こちら)。
二吉は、孫文の支援者として、中国を走り回っていたようだが、
養父恒二から「少し腰を落ち着けなさい」と言われ、最終的に外
務省の職員となったと伝わっている(中国語はペラペラだった)。
自宅のPCで検索すると、二吉の資料(史料)が国会図書館にあ
ることが分かったので、7月15日(木)の暑い一日、国会図書館
を訪れた。国会図書館は6年ぶりだ。
9時30分開館に対して15分ほど前に行くと、既に資料を調べに来
た人が何人か並んでいる。
9時20分に扉がオープン。リュック、カメラなど持ち込み禁止の
物をロッカーに収納して、30分の開館を待つ。
ロッカー収納にやや手間取り、結局30番目くらいとなった。
9時30分から順次入館。早速空いている端末に落ち着き、案内人に
教えてもらい、検索開始。
端末は400台以上あるので慌てることはなかった。
1.端末からデジタルデータを呼び出して、印刷を申し込む。
2.デジタルデータがないものは、図書の現物を閲覧請求して、コ
ピーの申し込みをする。
<それらによって得られた主な資料(史料)>
1.『原理日本』昭和11年6月号<しきしまのみち>(和歌投稿)
山海関 ×二吉
とつとこと驢馬(ロバ)あゆみゆく川べりのせまくしあれば脚たどたどし
たどたどしく重荷を負ひてゆく驢馬の鞭にうたるる状のかなしき
長き鞭の端につけたる赤き切れの遠くはあれど目にいちじるし
打たれては物に驚く状に見えて疾く疾く走る驢馬はかなしき
長城を築きてここに二千年のいにしへしぬぶ春まだ寒きに
長城のほとりにすみていにしへかはらぬ状につ馬をなつかしむ
『原理日本』昭和11年6月号 p60-61 右ページ 2-3段目
2.『日中戦争対中国情報戦資料 第1巻』(粟屋憲太郎、茶谷
誠一編・解説)
外務省対支文化事業ニ対スル駐平武官ノ所論ニ関スル件
外務大臣有田八郎殿 山海関 副領事 ×二吉
(機密第232号) 昭和11年8月8日
「対支文化事業」とは、義和団事件(1900-01)で得た賠償金の
多くを、中国における反日感情緩和のため、中国での文化事業に
充当しようと進めていた(詳細→こちら)。欧米に倣ったもの?
「北平(北京)駐在海軍武官今井少佐の所論大様左記ノ如シ」と
して、
図書館設立などは有意義である。しかし、この財源を北支の農村開発に使用
することは北支民衆に対し、日本が領土的野心を有するような印象を与え、
排日思想を高揚させる結果を招く虞れがある云々--参考までに報告する
という趣旨が有田外務大臣に報告されている。
昭和11(1936)年当時、二吉は「山海関」(→こちら)に勤務し
ていた。
ちなみに二吉の養父恒二(1862-1928)は、昭和3(1928)年8月
8日、青島(チンタオ)の日本総領事館官舎で亡くなったことが分
かっている。--二吉は当時青島で勤務していたと考えられる
(恒二66歳没。二吉は当時48歳)。
それにしても二吉はどこで中国語を覚えたのだろう?
--知っている人はみんな亡くなった?
外務省対支文化事業ニ対スル駐平武官ノ所論ニ関スル件の一部
外務大臣有田八郎殿 山海関 副領事 ×二吉
(機密第232号) 昭和11年8月8日
--「戦前昭和史」の史料の一つ。外務省内で関係者の閲覧サイ
ンがある。
祖父自身や父が見たら、何と言ったかしらん。
二吉が生きた時代はもはや歴史の世界?
私もあと50年もすれば、歴史の世界かしらん。
「歴史上の人物」とは間違っても言われない?
8:02 桐蔭生(?)が並ぶ。
8:07 あざみ野
8:56
8:57
9:02
9:04 有楽町線ホームを歩いて
9:07 国会議事堂方面改札
9:07
9:07
9:08
9:09 国会議事堂警備中 テロリストはいないかな?
9:09
9:10
9:11
9:12
9:12
9:13 あらら、早くも並んでいる。
9:14
9:18
9:20 「はい、お二人ずつゆっくりどうぞ」
9:21
このように透明なビニール袋に必要な物を入れて入館する。
館内は
「飲食禁止」
「カメラ機能禁止」
「最寄りの水分補給可能エリアは本館回廊」
(資料を利用しながらの水分補給は禁止です)
「端末の利用が終わったら、(登録)カードを抜いてください」
11:33 これより退出
11:35
11:35
11:36 本館 右奥が新館
11:36
11:37 本館
11:38
11:38 国会議事堂
11:39
11:40
11:41
11:43
午後は自由が丘の叔母さん訪問。
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