人生ブンダバー

読書と音楽を中心に綴っていきます。
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川口マーン惠美『フルトヴェングラーかカラヤンか』(新潮選書)

2009-05-15 05:13:22 | 読書
2年前、カラヤン生誕100年の前年、中川右介『カラヤンとフルトヴェングラー』
(幻冬舎)が出版された。フルトヴェングラー、チェリビダッケ、カラヤンの抗争
を「整理」したものだった。

一方、昨年=カラヤン生誕100年に、本書が出版された。
本書は、ドイツ在住の著者がフルトヴェングラー、カラヤンを知る、元ベルリン・
フィルの名奏者幾人かに二人のことを2007年から2008年にかけてインタヴューした
記録である。(著者はドイツ語が話せるようだ。)

前書は、前述のようにいろいろな文献から単に「整理」再構成したものだったが、
本書はシュトゥットガルト音楽大学大学院ピアノ科を修了した著者が実際に対面し
て聴いた話なので迫力があり、おもしろかった。読み出したら止まらない(カッパ
海老煎状態)、4時間で読了してしまった。

カラヤン批判の急先鋒、ティンパニのテーリヒェンは
  音楽において一番大切なのは、感情を表現することです。感情のない音楽は音
 楽ではない。カラヤンの音楽では、感情は立ち止まったまま動かない。
と言っている。

結局、カラヤンには、当たり前のようだがプラス面とマイナス面があったというこ
とである。批判派はマイナス面を見、肯定派はプラス面を見る。音楽観の違いでも
ある。カラヤンは頭がよかった。批判する人はそれを策士と見た。大きなギャラが
入って、団員皆が潤った面もあれば、商業主義に走りすぎた面もあるのである。



いずれにしても、いくらアインザッツがそろっていても、いかに響きがきれいで
も、いかに発声がすばらしくても、そこに音楽があるわけではない!合唱であれ
ば、最も大切なのは「気持ちの発露」ということである。(無論そのためには「い
い発声・響き」というものが必要なのだが・・・・・・。)テーリヒェンのカラヤン批判
も分からぬでもない。

木下保先生は「ぼくは発声など教えない!歌いたい、表現したいモノがそこにあれ
ば、それにふさわしい発声が付いてくる」という趣旨のことをおっしゃっておられ
たようである。
木下先生の指導されたN女子大とS女子大の合唱団のどちらがうまいですか?
と先生に訊いた、私の親しいバカ(関西でいうアホ(笑)必ずしも蔑称にあら
ず。)がいたが、先生は「(結局)音楽は心だよ」と言われたそうである。




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2 コメント

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とうとうこの本が (ke)
2009-05-15 22:13:41
とうとうこの本がこのブログに登場。フルトヴェングラーとカラヤン,20世紀クラシック音楽の永遠の論争です。世界一流のオケマンからみればどちらにも本質的な差異はない。しかし,東洋の異邦人の耳には「なんといったってフルトヴェングラー」。といっても,70年以上も前の当時としても決して上等とはいえないライヴのレコード録音のカスミの向こうから聞こえてくる演奏を有り難がるのではありません。フルトヴェングラーとベルリン・フィルハーモニーの最上の演奏を最良の音質で記録した,シューマンの交響曲4番とシューベルトの交響曲第9番(今は8番)のレコードを聴いてみましょう。テーリヒェンの云うことが手に取るように分かるはずです。そして,もう一つ。宇野功芳先生流に云うなら,こういうものはCDではなくLPレコードで聴きたい。CDだとどうしても音がきれいに磨かれすぎ,演奏のよいところが失われてしまう。
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Danke Shoen! (katsura1125)
2009-05-16 11:34:01
Keさん、達意の文章、有難うございます。
フルトヴェングラーは何回聴いてもなぜかしらんひきつけられますね~。
東のはて(ファーイースト)日本にはフルトヴェングラーの研究会がふたつもあるとドイツで
も有名です。
フルトヴェングラーの生を聴いた人--まだいくらかご存命ですが--は誰しもあの音は忘れ
られないと言っています。(--直接伺ったわけではありませんが。)
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