福永陽一郎先生(どうしても「先生」を付けないと書けない。)は昭和元年生ま
れ。今も生きておられれば、83歳である。残念ながら平成2(1990)年に63歳で亡
くなられた。
私の学生時代、福永先生の最も近くにいたというわけではないが、私は気さくでニ
コニコとして、好き嫌いがハッキリした福永先生が好きだった。音楽評論の文章も
お上手だった。私の学生時代、無作法ながら一、二回、鵠沼の先生のお宅におじゃ
ましたことがあったが、先生の書斎の机上には「文章表現辞典」が置かれていたこ
とを思い出す。
ロリン・マゼールがクリーヴランドだったかとブラ1を演奏した時(新宿厚生年金
大ホールだったかしらん。)、クライマックスとならないフィナーレが終り、聴衆
がそれでも「盛大な」拍手をする中、1階の客席で背の高い人がさっと立ち上が
り、脱兎のごとく退場する人がいた。私はあわててその方向を見た。福永先生だっ
た。先生にとっては耳を覆いたくなる思いだったのであろう。当時、先生は55歳前
だった。
本書「世界の指揮者」編には、小澤征爾を含む17人の指揮者についての評論が掲載
されている。とくにカラヤンの分析、評論はその論理、結論、筆力とともに優れた
もので、絶対に真似はできない。
れ。今も生きておられれば、83歳である。残念ながら平成2(1990)年に63歳で亡
くなられた。
私の学生時代、福永先生の最も近くにいたというわけではないが、私は気さくでニ
コニコとして、好き嫌いがハッキリした福永先生が好きだった。音楽評論の文章も
お上手だった。私の学生時代、無作法ながら一、二回、鵠沼の先生のお宅におじゃ
ましたことがあったが、先生の書斎の机上には「文章表現辞典」が置かれていたこ
とを思い出す。
ロリン・マゼールがクリーヴランドだったかとブラ1を演奏した時(新宿厚生年金
大ホールだったかしらん。)、クライマックスとならないフィナーレが終り、聴衆
がそれでも「盛大な」拍手をする中、1階の客席で背の高い人がさっと立ち上が
り、脱兎のごとく退場する人がいた。私はあわててその方向を見た。福永先生だっ
た。先生にとっては耳を覆いたくなる思いだったのであろう。当時、先生は55歳前
だった。
本書「世界の指揮者」編には、小澤征爾を含む17人の指揮者についての評論が掲載
されている。とくにカラヤンの分析、評論はその論理、結論、筆力とともに優れた
もので、絶対に真似はできない。
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