世間は年老いても社会的地位が高い者、「賢者」とのイメージがある年長者に「ああいうふうになりたいからマネをしよう」となったり、年長者が本を出すとベストセラーになることはそう珍しいことではない。
高齢者は「知恵者」であったり「暴走の抑止力」の役割を担っていた部分があるが、今や「今も若い高齢者」という自己矛盾を内包させて現実逃避して自らの老いをないものとするよう自己暗示に励んでいることに虚しさを感じないことは「恥知らず」のレッテルを貼られても致し方ないが、こういう考えの「若い高齢者」を礼賛する若者は少なくない。若者は「自分は歳をとらない」という一度は若い頃考えていて、そのまま考えが変わらない人や「自分の衰え」に気付いて『人は朽ちるもの』と気付く人もいる。
スフィンクスのなぞなぞ(ギリシャ神話より)フェキオン山の スフィンクス が通りかかる人間に問いかけたという「朝は四本足、昼は二本足、夕は三本足。. この生き物は何か?. 」というなぞなぞは世界的に有名である。
ご存じの方は多いと思いますが答えは「人・人間」であります。
赤ん坊の時は這い這いするので手足を使っているので「四本」
這い這いが終わり歩くようになると「二本」
年老いて杖を突くようになると「三本」
というわけですが、人間は時間の経過と共に変化していくものです。まっ、最近は「二本足から即ベッド」が多いのかも知れませんが、一時期「ぴんぴんコロリ」っていうのも流行りましたね。『逝くときは元気なときに』という矛盾ですよね、サプリや青汁なんか飲んで長らえる、長らえられるのかわかりませんが…。体が弱って正常に働かなくなると「こんなハズでは無かった」と思うのでしょうか?施設や病院に追いやられ自宅で死ぬことも許されず人生を終える。そんなことを子供の指示で行われる。本人の意思は抜きで・・・。
人間の「老いた人」への対処は民族の風習・風土によって大きく違うようです。本書では膨大な調査や資料で語られています。日本では何回かリメイクされた「楢山節考」は実際の風習を元に書かれたようです。このことも本書の中で取り上げられています。また、調査で明らかにされた少数民族の中では「老い(老人)」の存在は二分化されていて、「老いへの尊敬と畏怖」、「隆盛期を終えた廃物」(この表現は私が誇張しています)で「尊敬と畏怖」では老いてなお役割があり、かつ呪術的な力があるとされ、また子や孫から子孫繁栄をもたらしたという尊敬の念を持って亡くなるまで丁重な扱いを受ける。反対に「老い」を『役割を終えた者』、『集団の中の厄介者』、『無駄な食い扶持』と認識される集団の中では、「自死」を求められたり、集団のことを考え、また先達の行いを見て自主的な「自死」をしたり、自ら家族から遠ざかって野垂れ死にしたり、食べ物も与えられず亡くなるようなことがあり、そのことを自分の身に置き換えると、少なくとも一日は頭から離れなくなりそうです。(笑)
(五十まえにして片付ける人の手間を考えて整理しようかな…)
自分が親や祖父母になると「自分のお陰でみんなここまでに成ったんだ」という『幻想』は現在の日本では捨てた方が良いようです。多くは前述したように病院→施設へ送り込まれそこで亡くなると言うのは「常識化」されているのですが、いざ我が身にそれがもたらされるとどう感じるのか?自分の親に対して終末期をどのような形で対応するのかで自分たちの子供達が自分が終末期になった時に反映されるのではないかと思います。
また次の中間発表に続きます。
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