『東北偉人物語』、見本の本が届きました。
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2月27日出版予定ですが、とっても読みごたえがあります。
「南極をめざして-探検家白瀬矗」(秋田・おおぎやなぎちか)
「自分には知らない世界がまだまだある」と考えていた白瀬矗(のぶ)は、北極探検家になる夢を見ていた。
まだ人が住んでいない千島列島を軍人として探検したときは、寒さで亡くなる隊員もいた。
ところが48歳の時、アメリカのピアリーが北極点に着いたと知る。
ならば南極点を、とめざすが資金は乏しく、木造の帆船を改造したもので出発した。
流氷のなか嵐にもまれ引き返し、シドニーで翌年を待つ。
南極の地に上陸したが、すでにアムンセンついでスコット隊が南極点に到達していた。
極点まであとわずかとなったとき、食糧不足と体力の限界から、白瀬は進むのをやめ、銅の箱を埋め旗をたて「大和雪原」と名付けた。
極点まであとわずかとなったとき、食糧不足と体力の限界から、白瀬は進むのをやめ、銅の箱を埋め旗をたて「大和雪原」と名付けた。
南極点に向かったスコット隊全員が遭難死するなか、白瀬隊は一人の死者も出さずに帰還した。
「鬼と呼ばれた写真家・土門拳」(山形・井嶋敦子)
「鬼と呼ばれた写真家・土門拳」(山形・井嶋敦子)
山形県酒田市で貧しい子ども時代を過ごしたあと、土門は6歳で東京へ行った。
若い頃は画家を目指していたが才能に限界を感じ、反社会運動にも加わり、
数回留置場に入れられ死を覚悟したこともあったが、知りあいのつてで写真家のもとへ行く。
見映えをよくするため修正する写真を「こんなのは本物の写真じゃない!」と憤り、自分らしい撮影にのめり込んだ。
「日本工房」という制作集団に入り腕を上げていくが、土門の写真が日本工房の責任者の名前で発表され、日本工房をやめた。
東京明石町の長屋で弟子たちと共に暮らし、土門は次々に写真を発表していく。
肖像写真は「絶対非演出の絶対スナップ」と考えまさにその人を写しだし、 「文楽」「古寺」など日本の文化を撮影していく。
原爆が落とされたあとの広島では怒りの写真集『ヒロシマ』を出版し、廃鉱になった炭鉱の町では『筑豊のこどもたち』を世に出す。
二度の脳卒中で体が不自由になっても写真への熱はさめず、室生寺を何度も撮った。
酒田市名誉市民第一号に選ばれ「全作品を酒田市に寄贈」した土門拳。
記念館は日本の写真専門美術館第一号となった。
「民が安らかに暮らせる国を-仙台藩初代藩主・伊達政宗」(宮城・佐々木ひとみ)
天然痘で五歳のとき右目を失明した梵天丸だったが、学問で心を豊かにし、
「民が安心して暮らせる世をつくりたい」という父輝宗の意思をつぎたいと考える。
片倉小十郎から武芸を学び、11歳で元服し伊達政宗と名乗り、18歳で伊達家の当主となる。
小手森城に火を放った政宗は奥羽の大名たちを震え上がらせたが、畠山の謀反により二本松で父輝宗を失う。
七千で三万の軍を討とうとし、負けはしなかったが戦で多くの家臣を失う。
「京へのぼるように」という手紙を無視し、蘆名軍と戦い、奥羽66郡のうちの30あまりを手に入れた。
秀吉から北条氏を討つ戦いに参戦せよと伝えられ、遅れて少人数で参上し、
「千利休殿に茶の湯を教えていただきたい」と頼むと、秀吉は会ってくれたが、妻を人質に出すことに。
徳川の天下になったとき、居城を千代(せんだい)に移すことに。
「仙台」とあらため、城作り街作りを行い、水田を作り、支倉常長をヨーロッパに送った。
政宗は、戦国の世と太平の世ふたつの時代を生きぬいた武将だった。
「この道を行く-版画家・棟方志功」(青森・田沢五月)
志功がなまって「スコ」と呼ばれた子ども時代は、視力が弱かったが絵が上手かった志功。
鍛冶屋のお父さんは賞を獲るほど腕が良かったのに家は貧しかった。
兄に負ぶわれて逃げた青森大火の、地を這う紫の炎の美しさが志功の胸に残った。
視力は弱いが全身で自然の美を感じ、ねぶた祭りの鮮烈なねぶたの色も志功の胸に残った。
オモダカの花を見て「こんな美しさを表現する人になりたい」と考える。
青森地方裁判所の弁護士控所の給餌として働き、帰りには街角で地べたをはうようにして絵を描いた。
「鍛冶屋のおんちゃ、絵バガのスコ」だと笑われるが、「ワ(おれ)は、ゴッホになる!」と言う。
仲間たちが募った資金で「帝展入選までは帰らない」と東京に行くが落選が続き、5回目でついに入選。
その後版画作品を次々に発表し、「大和し美し」という壮大な版画が美術家3人の目にとまり、3人の教えを吸収していく。
妻のチヤが戦火の中から救い出した「釈迦十大弟子」に二体の菩薩を加えた作品で、国際的な美術展でグランプリを受賞。
その後も世界的な賞を次々に受賞していき、世界の「MUNAKATA」と讃えられるようになった。
-伝染病病研究に命をかけて-医学者・野口英世(福島・堀米薫)
1歳半のとき囲炉裏でやけどを負い左手がこぶしのようになってしまった野口清作。
友だちに左手をからかわれ「勉強で生きていく」と一番の成績を取り続けた。
固まった指を切り離す手術で医者の仕事に憧れを持ち、医院に住み込み、医学の勉強をさせてもらう。
語学も身に付け、東京で医者の試験に合格し、動かない左手でもできる「細菌学」の道に進むことに。
「英世」と改名し、北里柴三郎が所長をつとめる伝染病研究所の助手となる。
アメリカ留学の夢を持ち、検疫医官として働き、船員のペストを発見、名を知られるようになる。
アメリカに渡り、フレキスナー博士の助手としてヘビ毒の研究をし、
ロックフェラー研究所で梅毒の研究をしていたとき、日本から母シカの「会いたい」という手紙を受けとる。
梅毒の患者の脳から菌をみつけ「ドクター・ノグチ」の名前は1期に一気に広まった。
ノーベル賞候補にもあがり、日本に帰った野口はようやく母に会えた。
黄熱病の原因菌を発見しワクチンを作ったが、ガーナで黄熱病で命を落とした。
「洋服のサムライ-新渡戸稲造」(岩手・岩崎まさえ)
「洋服のサムライ-新渡戸稲造」(岩手・岩崎まさえ)
妻のメリー・新渡戸万里の言葉で語られる新渡戸稲造。
盛岡市に生まれた稲造が6歳の時、黒船が来て武士の時代が終わる。
東京のおじの養子になり、東京英語学校に入学。
15歳のとき農学を志し、札幌農学校に入学、その後「太平洋の橋になりたい」と東京大学に入るが、
日本の学問が遅れているとアメリカで学びたいと考え、おじが工面した金でアメリカに渡る。
メリーはフィラデルフィアに留学していた稲造と知りあうが、その後稲造は農学校の助教授としてドイツに渡り、農学史・農業経済学・統計学などを学ぶ。
アメリカに帰った稲造はメリーと結婚し、29歳で日本に帰国し、札幌農学校の教授として働き始める。
長男が生後一週間で亡くなり、メリーは体調を崩しアメリカに帰国。
稲造は夜間学校を作るなど教育者としてずっと走り続けたが重い神経症で倒れ、アメリカのモントレーで休養することに。
日本人の心を西洋人に伝える「BUSHIDO」という本を出し、大評判に。
日本に帰り台湾総督府で働いたのち京都帝国大学の教授となり、国際連盟の事務次長に推薦される。
日本の軍部の力が強くなり国際連盟も脱退、「このままでは世界から日本が孤立してしまう」と考えた稲造は、
太平洋問題調査会の開かれるカナダへ出向き、会議のあと亡くなった。
巻末には、それぞれの記念館などの紹介ページが。
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この本で『東北6つの物語』が完結します。
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図書館などに並んだらうれしいなと思います。
東北に限らず、全国の子どもたちにも、届きますように。
昨日は本を送付し、創作いろいろやった。
今日午後は療育センターのリハビリ前診察と本読みで、夜は秋田市小児科医会で300回記念誌が出る。
今日もびよよよ〜〜ん (*^ __ ^*)
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