かぜねこ花鳥風月館

出会いの花鳥風月を心の中にとじこめる日記

信じることの恵み

2023-06-06 09:02:05 | 日記

令和五年陽暦六月六日芒種の未明、南西の空高く十六夜の月が雲間を出て煌々としている。雲は月の光を浴びて、やや彩りをみせる。瑞光という光なのだろう。昨朝の午前三時前には、近所の森でもホトトギスが盛んに鳴いていた。もう、屋外にいても冷えは感じない季節。月を眺めていると、星にはわれわれの祖先やわれわれの未来人が住んでいるという神話を信じたくもなる。

日曜日の朝、たまたまTVをつけて、NHKEテレの「こころの時代」をテレビに映っていた20年前の加賀乙彦さんのインタビューを「字幕で」聴く。

印象に残った発言を意訳すると「人間を唯物論的に考えると、死んでしまえば何も残らない。キリスト教徒は、天国の存在を信じる。唯物論者は、天国の存在を証明できるのか問うが、彼らだって天国の不存在を証明できない。だとすれば、信じるか信じないかはわれわれに任されている。歎異抄では、浄土真宗の祖、親鸞も何度もあの世=浄土=阿弥陀仏を信ぜよと何度も語っている。信じる信じないがわが身のことであれば、私は、信じる方に賭けた。信仰の道は困難を伴うが、そうすることで何かしらのこころの平穏が訪れた。」みたいなお話だった。

あらゆる宗教は「いかにして人はこころを穏やかにして死んでいけるか」をテーマにしており、死んだ後にで生きる世界を天国と呼ぼうが浄土と呼ぼうが、復活と言おうが輪廻転生と言おうが、そういったことを信じたほうが心穏やかになれるのなら、信じる道を選択したほうが賢い生き方なのだとは思う。

科学の発達で、やがて月にも火星にも、太陽系外の星にだってヒトは移住できるのかもしれない。おそらく彼らは、ヒトを克服下したAI型のヒトかもしれないし、姿かたちもヒトとは全く異なっているのかもしれない。はるかに優れた知能は、空間のみならず時間も克服しているだろう。そういったことが、輪廻転生や永劫回帰ということなのだろう。

 

日本最古の文学と言われる「竹取物語」に登場するかぐや姫や彼女を迎えに来た月人たちは、あるいは未来からやって来たヒトビトで、過去の記憶(データ)を消されたヒトビトだったのかもしれない。

月や星たちをしげしげと眺めながら、そのようなファンタジーを描きながら時を過ごすと、少しは心穏やかになっている。科学の発達を信じ、やがてオイラも光の粒子となって時空を飛び交う日があることを信じることもまた、宗教の一種なのだろう。

「信ぜよ、さらば救われん!」

NHKこころの時代アーカイブ

 

 

     

 

     

 

     

 

     

 

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