「育てる会」のHPを見ていると学ぶことばかりです。山村留学の子どもたちの日々の生活の様子はたとえば、このHPで知ることができます。
山村留学 大岡ひじり学園
http://www.grn.janis.or.jp/~o-hijiri/main/mainFrame.html
学園と地域と学校が力を合わせて子どもたちを育む様子がわかります。40年におよぶ実践を積み重ねてきたリーダーの考えのいったんは機関誌『育てる』の巻頭言にうかがえます。
2007年12月10日
472号:特集 山村留学の収穫祭1
巻頭言
子どもの中に二つの「自分」をつくる
―「主従自我蘇生教育」の実践―
まず、何をおいても、子どもたちの作文、いや、ややオーバーな表現かもしれないが、文章による子どもたちの心の叫びに耳を傾けてほしい。
これは、長期間親元を離れて、集団生活と自然体験活動をしてきた子どもたちの記録である。
作文の課題は、「僕の(私の)心の収穫」である。
洗濯と歩くこと・・・小学三年生
「家族とはなれて、知らなかった人と一緒に生活できるようになったことと、自分で洗濯できるようになったことと、たくさん歩けるようになったことです。洗濯は、早く干すことができなかったけれど、今は、早く干すことができるようになったことと、早く歩けるようになったことです。」
いろんなことが見えるようになった・・・小学五年生
「最初はホームシックで眼に涙をためていた。だんだんなれて、いろんなことが見えるようになってきた。余裕ができたら、自然などにも興味が向いてきた。今思えばバカバカしい事も、あの時は真剣だった。親がいなくても大丈夫になったし、大勢の共同生活にも慣れたし、自分で自分をほめたいくらいだ。」
受験のための勉強でなく自分のための勉強・・・小学六年生
「今年は受験がある。目標は勉強だ。受験だから勉強するのではなく、自分のための勉強をするのだ。」
洗濯と歩くこと・・・小学三年生
「反省がある。一番の問題点は、勉強をやらないことだ。充分わかってはいるが、ついついほっぽらかしにしてしまうことだ。」
「こん畜生」と言わないか、寝言が心配だ・・・小学六年生
「学校ではおこられっぱなし、センターでは大忙し、農家ではいまいち、夜、寝る時だって、「こん畜生」とか、「世の中、どうなっているんだ」とか、寝言で叫ばないか心配だ。授業中まじめにやろうとしたし、困っている人を助けようともしたし、忘れ物をなくそうと、手を代え、品を代えやってみた。信じてもらえないと思うが、僕は一生懸命努力した。それなのに、僕の稲穂はちっとも実ってくれそうにない。もう、ため息ばかりの生活はいやだ。せめてため息をつくのは控えよう。うん、何をすればいいのか・・・わからない。だからこれから考えるのだ。」
四つできるようになったこと・・・小学六年生
「まずは、忘れ物をそんなにしなくなったこと。去年は毎日していた。具立つ目は、自分の部屋がきれいになったこと。去年は部屋の半分を自分の荷物で占めていた。今年は別人のようにきれいになった。三つ目は、洗濯がちゃんとできるようになり、着るものがなくて人のものを借りることがなくなった。今年はまだ一回も借りていない。四つ目は、なんと言っても学校が楽しくなったことだ。友達ができた。次の目標は、言葉使いを直すことだ。」
今の自分と今までの自分・・・中学一年生
「ここに来るまでは、外で遊ぶことが少なく、友達の家でゲームをしたり、ゲームセンターに行って、夜遅くまで遊んだりしてダメな人間だった。でも、ここに来て自分がすごく変わったように思う。自然の中の片道5キロの通学路を歩きとおしたし、今までやったことのない活動をたくさんやって、一歩一歩成長しているのだと思う。」
私が「私に」なれるまで・・・中学三年生
「今年、私が決意したこと、それは、無遅刻、無欠勤、無保健室だ。去年はひどかった、遅刻4回くらい、欠席は6回くらい、保健室へは週2~3回通いだった。それが、遅刻は腹痛で1回だけ。欠席ゼロ。保健室は風邪っぴきで1回だけ。とりあえず、自分を褒めてあげたい。
も一つの決意。去年は、つっ立ったままで動かなかった自分を捨てて、ちゃんと動く、新品の自分を作り上げたことだ。自己評価になるけれども。
私が、「私に」なれるまで、その期間は長く、予想以上に悩めるものだった。」
紙面の都合で、ここでは数例しか掲載できないが、多くの子どもたちの文章を繰り返し読むうちに、それぞれの文章の中に、二人の子どもが存在することに気がついた。
上記の文章例を再読してほしい。それぞれの文章には、一人の自分と、もう一人の自分が存在し、相互の比較、葛藤が述べられている。言うなれば、以前の自分と現在の自分との比較を通しての、今の心情の「吐露」であるとみられる。
この仕事を続けて四十年が経過した。千数百人の、長期間の自然体験と集団寝食体験を積んだ子どもたちの後姿を眺めてきた。そして、この教育活動の優れた教育効果について確信を深めてきた。と同時に、その教育効果の奥に「核」となって存在するもの、子どもの内部に変革をもたらす原動力、それは何か、と問い続けてきた。
それは、子どもの内部に、従来の自分と、もう一つ違った自分をよみがえらせることではないかと洞察する。子どもの内部に二つの自分を醸成させること、これこそが長期自然体験と集団生活の使命ではなかろうか。
子どもの従来の家庭生活、都会生活での自分(自我)と、新しい体験生活によって得られた自分(自我)、この両者の葛藤こそが、子どもを成長させる「核」であり、原動力となる。そして、後者の自我(新しい自我)が主自我となり、前者の自我を従自我として、それの優位に立つ、これだ、と看た。
新しい自我は、その子のその後の生活での価値基準となり、人生のケルンとなるであろう。「主自我の蘇生教育」、ここに育てる会の課題がある。
この文章の出典http://www.sodateru.or.jp/blog/gekkan/archives/2007/12/post_13.html
親元を離れる、集団生活。遠い徒歩通学、正座での食事、TVやTVゲームのない生活、農作業……。新しい環境の中で四苦八苦しながら「もう一つ違った自分を蘇らせる」のだという。それが人生の核になる。指導者には実践から得た確信があります。
僕は中学から親元を離れ、都市の学校に行くため下宿生活という集団生活を体験しました。山村留学とは「逆」の留学といえるかも知れません。大きくなるに従い、この生活で得たもの、失ったものを吟味しながら生きてきたように思います。山村留学の体験をした人たちはその後、どんなふうに自分の歩みを振り返っているのでしょうか。そういう方の文章も捜して読んでみたいと思います。
山村留学 大岡ひじり学園
http://www.grn.janis.or.jp/~o-hijiri/main/mainFrame.html
学園と地域と学校が力を合わせて子どもたちを育む様子がわかります。40年におよぶ実践を積み重ねてきたリーダーの考えのいったんは機関誌『育てる』の巻頭言にうかがえます。
2007年12月10日
472号:特集 山村留学の収穫祭1
巻頭言
子どもの中に二つの「自分」をつくる
―「主従自我蘇生教育」の実践―
まず、何をおいても、子どもたちの作文、いや、ややオーバーな表現かもしれないが、文章による子どもたちの心の叫びに耳を傾けてほしい。
これは、長期間親元を離れて、集団生活と自然体験活動をしてきた子どもたちの記録である。
作文の課題は、「僕の(私の)心の収穫」である。
洗濯と歩くこと・・・小学三年生
「家族とはなれて、知らなかった人と一緒に生活できるようになったことと、自分で洗濯できるようになったことと、たくさん歩けるようになったことです。洗濯は、早く干すことができなかったけれど、今は、早く干すことができるようになったことと、早く歩けるようになったことです。」
いろんなことが見えるようになった・・・小学五年生
「最初はホームシックで眼に涙をためていた。だんだんなれて、いろんなことが見えるようになってきた。余裕ができたら、自然などにも興味が向いてきた。今思えばバカバカしい事も、あの時は真剣だった。親がいなくても大丈夫になったし、大勢の共同生活にも慣れたし、自分で自分をほめたいくらいだ。」
受験のための勉強でなく自分のための勉強・・・小学六年生
「今年は受験がある。目標は勉強だ。受験だから勉強するのではなく、自分のための勉強をするのだ。」
洗濯と歩くこと・・・小学三年生
「反省がある。一番の問題点は、勉強をやらないことだ。充分わかってはいるが、ついついほっぽらかしにしてしまうことだ。」
「こん畜生」と言わないか、寝言が心配だ・・・小学六年生
「学校ではおこられっぱなし、センターでは大忙し、農家ではいまいち、夜、寝る時だって、「こん畜生」とか、「世の中、どうなっているんだ」とか、寝言で叫ばないか心配だ。授業中まじめにやろうとしたし、困っている人を助けようともしたし、忘れ物をなくそうと、手を代え、品を代えやってみた。信じてもらえないと思うが、僕は一生懸命努力した。それなのに、僕の稲穂はちっとも実ってくれそうにない。もう、ため息ばかりの生活はいやだ。せめてため息をつくのは控えよう。うん、何をすればいいのか・・・わからない。だからこれから考えるのだ。」
四つできるようになったこと・・・小学六年生
「まずは、忘れ物をそんなにしなくなったこと。去年は毎日していた。具立つ目は、自分の部屋がきれいになったこと。去年は部屋の半分を自分の荷物で占めていた。今年は別人のようにきれいになった。三つ目は、洗濯がちゃんとできるようになり、着るものがなくて人のものを借りることがなくなった。今年はまだ一回も借りていない。四つ目は、なんと言っても学校が楽しくなったことだ。友達ができた。次の目標は、言葉使いを直すことだ。」
今の自分と今までの自分・・・中学一年生
「ここに来るまでは、外で遊ぶことが少なく、友達の家でゲームをしたり、ゲームセンターに行って、夜遅くまで遊んだりしてダメな人間だった。でも、ここに来て自分がすごく変わったように思う。自然の中の片道5キロの通学路を歩きとおしたし、今までやったことのない活動をたくさんやって、一歩一歩成長しているのだと思う。」
私が「私に」なれるまで・・・中学三年生
「今年、私が決意したこと、それは、無遅刻、無欠勤、無保健室だ。去年はひどかった、遅刻4回くらい、欠席は6回くらい、保健室へは週2~3回通いだった。それが、遅刻は腹痛で1回だけ。欠席ゼロ。保健室は風邪っぴきで1回だけ。とりあえず、自分を褒めてあげたい。
も一つの決意。去年は、つっ立ったままで動かなかった自分を捨てて、ちゃんと動く、新品の自分を作り上げたことだ。自己評価になるけれども。
私が、「私に」なれるまで、その期間は長く、予想以上に悩めるものだった。」
紙面の都合で、ここでは数例しか掲載できないが、多くの子どもたちの文章を繰り返し読むうちに、それぞれの文章の中に、二人の子どもが存在することに気がついた。
上記の文章例を再読してほしい。それぞれの文章には、一人の自分と、もう一人の自分が存在し、相互の比較、葛藤が述べられている。言うなれば、以前の自分と現在の自分との比較を通しての、今の心情の「吐露」であるとみられる。
この仕事を続けて四十年が経過した。千数百人の、長期間の自然体験と集団寝食体験を積んだ子どもたちの後姿を眺めてきた。そして、この教育活動の優れた教育効果について確信を深めてきた。と同時に、その教育効果の奥に「核」となって存在するもの、子どもの内部に変革をもたらす原動力、それは何か、と問い続けてきた。
それは、子どもの内部に、従来の自分と、もう一つ違った自分をよみがえらせることではないかと洞察する。子どもの内部に二つの自分を醸成させること、これこそが長期自然体験と集団生活の使命ではなかろうか。
子どもの従来の家庭生活、都会生活での自分(自我)と、新しい体験生活によって得られた自分(自我)、この両者の葛藤こそが、子どもを成長させる「核」であり、原動力となる。そして、後者の自我(新しい自我)が主自我となり、前者の自我を従自我として、それの優位に立つ、これだ、と看た。
新しい自我は、その子のその後の生活での価値基準となり、人生のケルンとなるであろう。「主自我の蘇生教育」、ここに育てる会の課題がある。
この文章の出典http://www.sodateru.or.jp/blog/gekkan/archives/2007/12/post_13.html
親元を離れる、集団生活。遠い徒歩通学、正座での食事、TVやTVゲームのない生活、農作業……。新しい環境の中で四苦八苦しながら「もう一つ違った自分を蘇らせる」のだという。それが人生の核になる。指導者には実践から得た確信があります。
僕は中学から親元を離れ、都市の学校に行くため下宿生活という集団生活を体験しました。山村留学とは「逆」の留学といえるかも知れません。大きくなるに従い、この生活で得たもの、失ったものを吟味しながら生きてきたように思います。山村留学の体験をした人たちはその後、どんなふうに自分の歩みを振り返っているのでしょうか。そういう方の文章も捜して読んでみたいと思います。