川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

千年の森構想はいま

2008-04-27 06:16:26 | 自然と人間(震災・津波・原発事故)
土曜日は支援相談員の受験者から合格の知らせが続き嬉しい一日でした。お陰で僕の足先の冷えも改善され、ブログ書きが出来ます。


 以下はカツヨシさんがコメント欄に書いてくれた文章です。

 けいすけさんオススメ(?)の「湾岸の落日風景」を眺めながら帰途につきました。ゆりかもめから見る真っ赤な太陽、林立する高層ビル群、低く力なく波打つ海。気恥ずかしい表現になりますが、僕らが子どものころ思い描いていた「未来都市」がそこに広がっていました。けれど、その「未来都市」の光景も、山々のまばゆいばかりの新緑の命あふれる情景には及ばない、と「大自然」教の一教徒としては思ったものでした。


 湾岸生活も1週間が過ぎました。僕の病室からは遠くに若洲海浜公園の発電用の風車が見えます。手前には海面が広がっていますがそのほとんどがコンクリートで囲まれた貯木場です。湾岸とはいっても海とも港ともいえない構造物の固まりばかりが目立ちます。命の息づかいはどこにも感じられず、励ましを受けることはありません。
 
 だいぶ昔のことになりましたが、千年の森構想というのがあったことを思いだして検索してみました。
  
   千年の森づくり構想
 明治維新以来、日本人の暮らしは、西洋近代化の波が押し寄せるなかで、大きな変化を強いられてきました。

  近代工業化、そして戦後の高度経済成長は、世界有数の経済大国を築き上げた一方で、それまで何千年来と大切に育て、受け継いできた、誇るべき身近な自然や文化を犠牲にし、瀕死の状態に陥れてしまいました。

  このような過去の歴史を教訓に、森づくりを通して伝統的な自然観や自然生態系を回復させ、世界の人々の範となるような日本人の心を取り戻していきたいと考えています。
 かつての東京-江戸-は、当時世界で最大の人口を抱えながらも、豊かな自然、高度な文明と文化によって、今日でいう循環型社会を形成していました。しかし、現在、巨大都市東京はその自然環境の豊かさを失い、そこに住む人々の心まで荒廃してきています。共生の心が失われた結果、人間のエゴがはびこって対立的な社会になっています。東京湾のゴミの埋立地はその象徴です。

 私たちはこのゴミの島に、自然生態系を取り戻すための本格的な森づくりをし、その活動を通して人々の心をも回復してゆきたいと考えています。

 この事業は単に緑を増やすというものではなく、森の持つ自然の力を最大限に生かしながら、破壊した環境を百年、千年というスパンで修復し、持続可能な地域循環型の社会モデルを提示しようというものです。この事業の実現には、計画段階から、行政・市民・企業のみなさんの積極的な参加や協力を欠くことはできません。

 この文章の出典
http://members.at.infoseek.co.jp/milforest/011026/sennenHP/pege02.htm

 

 大自然教の信徒になり始めの頃かで、哲学のある構想と期待する気持ちがありました。その候補地であるゴミの島が右手後方の国際展示場の屋根の向こうに見えます。クレーンのようなものが見えますがこの構想はどうなったかを調べてみました。東京都の施策で「海の森」として整備されるようです。

 海の森構想
http://www.kouwan.metro.tokyo.jp/jigyo/uminomori/index.html


 調べていくと都立の大きめの公園が島の一角に新たに作られるだけで、千年の森構想とは似て非なるもののように思えます。僕としては少なくともこの島全体を照葉樹などの森として東京圏の生態系に多少でも影響を与える構想をイメージしていたのです。将来は鳥獣も住める森、栄養豊かな水を生み出す魚付きの森。そんな夢を目指して老幼助け合って森づくりに励むのです。砂漠よりもひどい足尾の山肌に
みどりを育てる取り組みが進められています。ゴミの島がたとえ毒の島であっても何百年かかけて蓬莱の島に変えられないとはいえないはずです。
 東京都港湾局の構想について市民の間でどんな意見が出ているのか知りたいのですが、発見出来ません。みなさんはどう思われますか。
 この病院の反対側の窓からは高層ビルの屏風が望まれます。石原さんの時代になってそれはいっそう豪華になったようです。海辺で育った僕の素朴な考えによればこれは東京圏の炎熱地獄を加速させ、遠くない将来に東京を廃虚とする謀略です。海辺に広大な森を作り、少しでも清浄になった空気を海風に載せて内陸に運んで貰う。そんなことを考えていたのです。高層ビルの屏風はこれを不可能にしてしまいます。
 海の森公園は灼熱地獄から車で脱出して涼みに来るところのようですが、こことて風の通らない熱帯であることを免れないでしょう。僕の住む川越あたりは昨年40度近い気温に苦しめられました。東京の炎熱が北上してきたのではないかと思います。抗ガン剤治療で疲れた体には耐えられそうもありません。避難地をさがさなければなりません。

 石原さんは大きなことを決断できる人ではなかったのですか。どうも方向がまちがっているようですぞ。