朝鮮総連の機関誌『朝鮮新報』のHPをご覧ください。
http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/Default.htm
相変わらず、北当局の伝声管です。こんな組織が今なお生き続けているとはどういうことでしょう。そのこと自体に対して在日朝鮮人の闘いがないことにあきれます。70年代に韓国の民主化に動き回った人々はどうしているのでしょう。たとえば徐勝さんらは?
神戸朝高の記事があったので同校のHPを覗いてみると3年生の祖国訪問の記事があります。いわば修学旅行で6月に実施されるようです。
神戸朝高 高3のジオログ
http://geocities.yahoo.co.jp/gl/sobi1974/view/20090529/1243571851
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このようなことが今なお続いていることは僕にはほとんど信じられません。核実験を成功させ「強盛大国」をめざす独裁国家をたたえることが12年間の「民族教育」の総決算として行われるということです。ストップをかける人はいないのでしょうか。
『木苺』に連載された元智慧さんの「ある在日の告白」から関係の記事を紹介します。90年代に朝鮮高校生として「祖国訪問」を体験した人です。
「祖国」訪問
元智慧(うぉんちへ) 『木苺』124号(05年10月)
朝鮮学校へ通う生徒も日本学校の生徒同様、在学中に幾度か修学旅行というものを体験する。殊に重要視されているのが、高級学校(日本の高校に相当)三年の時に企画される、「祖国訪問」である。
全国にある高級学校の生徒のほぼ全員が、一年をかけて順次、新潟港より渡航する。船は、あの悪名高い「万景峰号」である。
拉致関連のニュースなどで、チマチョゴリ(朝鮮学校の女子の制服)を着た女子生徒やブレザーを着た男子生徒が一斉に下船する姿をご覧になった方も多いと思われるが、あの光景がまさにそれである。
一昔前、特に金日成が存命中は、この修学旅行の他に、芸術やスポーツなどの各分野で選抜された者が、「偉大なる首領様」の前で自らの腕を披露する公演などの機会もあったが、それも彼が亡くなった後は、下火になった様である。
さてこの修学旅行、私も例に洩れず参加した訳であるが、個人的にはその一昨年、別の機会に訪れており、結果的には二度訪朝する事となった。
船の中では、夜毎集会が開かれ、修学旅行中、より一層の国家と金一族への絶対なる忠誠、この修学旅行での「得難い」体験を、今後どの様に自らの人生に反映していくか、勿論それは前提に国家の為に生きるという事があるのだが、教師たちはいつになく力が入って、生徒たちにその決心を迫るのであった。
新潟港を出発した我々が、二泊三日の船旅を終えてまず目に入るのが、元山(ウォンサン)の港である。北朝鮮がどの様な国家であるか熟知していない殆どの生徒は、只々純粋に初めて見る「祖国」の光景に感無量になる。そして、次々と起こる歓喜の声。両足で祖国の地を踏む者もいれば、敢えて片足で踏みしめる者もいる。
到着後、まずパスしなければならない事は、厳しい荷物の検閲である。アメリカ製の全てのもの、そして北朝鮮の思想にそぐわないものは、否応無しに没収される。そして、それ以上に、北朝鮮の文化度の低さを露呈させる様なもの、例えば音楽機器など電子機器類は実に厳しかった。その行為自体、自らの後進性を露呈している様なものであるのだが。カセットテープやCD、そしてビデオテープなどはその内容まで調べられ、特に「問題」がなければ後日返却されるという状態であった。恐らく当局は、国家体制が文化によって崩されるという事を、熟知しているからであろう。
港町元山はお世辞にも美しい街とは云えず、特に目立っているものといえば、船舶と在日朝鮮人の生徒や、観光客相手に営業している飲食店ぐらいのものである。この飲食店、基本的には北朝鮮が外貨を得るためのものであり、そこに住む人たちは利用できない。海外より訪れた人たちが、山盛りの肉や松茸、そしてにぎり寿司などを頬張っている姿を、現地民、特に子どもたちが窓越しに生唾を飲み込んでいる光景に、この国が抱える経済や食糧事情などの一端を垣間見る様な気がした。日本と北朝鮮、そして現地民と在日朝鮮人の歪みきった戦後の関係を如実に物語っている。
元山には長居せず、我々は直ぐ様一路、首都平壌(ピョンヤン)へ向かう事となる。使い古されたバスに揺られ、道なき道をまっしぐらに走っていく。目に入る光景はとてものどかなものであり、人の姿はあまり見られない。禿山が多い北朝鮮の山道を数時間走り、我々は修学旅行の大半を過ごす事となる平壌へと入っていく。
平壌という街は、しばしば「写真用・写真用の街」と云われる。紛れもなく海外メディア向けの宣伝シティであり、そこに暮らす人々も、「選ばれた人」たちである。まるで、遊園地にでも入るかの様に、首都の入り口には、「ようこそ、平壌へ」という看板が掲げられており、周りは子どものようにはしゃいでいた。
平壌は北朝鮮の街の一つである事には違いないのであるが、それは北朝鮮の本当の姿ではない。朝鮮総連や在日の資本家から掻き集めた金を注いで、戦後「祖国復興」という名の元に労働を課せられた人たちの血と汗を思えば、何ともやりきれない想いが胸を占めた。それが平壌なのであり、労働を強いられた人たちはもう殆どいない。
首都に入った我々の最初の義務、それは金日成像に「礼を尽くす」事である。滞在中、事ある毎に訪れる事になる訳であるが、一昨年行っている事とは云え、私はうんざりする思いであった。人が人を奉り崇めるという事を何よりも嫌っていた私は、もはや溜め息しか出なかった。そして、これから始まる想像も出来ない事に、皆胸をはずませている中で、この尋常ならざる国家体制に一人大いなる疑問を抱いていた。
永久保存された遺体
初日は慌しく過ぎ、宿泊先へと向かった我々は休む間もなく、クラスごと一同に会する事となる。これから始まるこの「意義ある」訪朝における、各々の決意を否応なしに述べさせられる。心にもない事を適当に述べた後、一息ついて夕食時間となる。
北朝鮮においてこの様なホテル住まいをしているだけでは、とても日本において報道されている様な貧困や飢餓に喘ぐ人々の姿は想像できない。それ程、平壌における宿所の食事は豪勢である。
しかし、それ以上に驚くのは、それを見て何も感じない同級生たちの姿である。北朝鮮の人民が飢えようと死のうとまるで他人事、という顔で目の前の食事にありついている。ここでそういった話は禁句だと思っているのか、或いは只単に無関心なのか、とにかくその様な話題が出る事は、最後までなかった。
北朝鮮では、言論の自由がない。言論の自由のみならず、一切の自由が許されない。しかし、その様な説明を事前に受ける事など一切ないし、教師はいかに素晴らしいかを連呼するばかりである。真の意味においての修学旅行であるならば、現実をあるがままに伝えるべきである。生徒たちは戦後の北朝鮮がどの様な道のりを歩んできたのか知らないし、いうなれば北朝鮮という国についてまるで無知である。
さて、その翌日我々は、北朝鮮において「第一の聖地」と呼ばれる、錦繍山記念宮殿へと向かう事となる。他でもない。故・金日成の遺体が安置されている、建築物全てが大理石という贅を尽くしたものである。独裁者の遺体を永久保存する事は、何も北朝鮮が初めてではなく、旧ソ連などで既に行われている。その昔、スターリンがレーニンの死後、遺体を永久保存する様に命じた事は有名な話である。因みに、レーニン廟付属研究所の遺体保存技術者たちは、第二次世界大戦後も共産圏の独裁者たち、金日成の他にもベトナムのホー・チ・ミンらの遺体永久保存を次々と手掛ける事となる。
話を元に戻して、とてつもなく巨大な建物で、どこが入り口なのかすら分からない。我々は一列に並び案内されるままに進んでいく。この宮殿には、彼にまつわるものが数々展示されており、とにかく圧巻である。そして、ついに遺体安置場へと入る事となるが、その前に全身に殺菌シャワーを浴びせられる。ここまでして見る価値があるのかと疑問にも思ったが、良くも悪くも歴史上の人物との「対面」はもう目の前である。誰もが息を殺して、やや緊張感を伴って、赤く薄暗い照明だけがあるその場へと向かう。
ここを訪れるのは二度目であるが、まるで初めて訪れたかの様な緊張感が身を包む。一歩一歩踏みしめながら、その瞬間が近付く。透明な箱の中に彼はまるで生きているかの如く眠っていた。どの様な想いを秘めている人でも、これを目の当たりにすれば、激動の歴史を生き抜いてきた指導者を偲ばずにはいられないであろう。
しかし、静かにその厳かな空間を抜け出した次の瞬間、やはり大いなる疑問を抱かずにはいられない。彼がどれ程の人物か定かではないにしても、これ程の建築に一体どれ程莫大なる工費がかけられているのであろう。聞く所によると、優に数十億はつぎ込まれていると。当然、朝鮮総連の強力なバックがある訳であるが、一方で人民が刻一刻と倒れていく姿を想像すると、やはり憤りを抑えきれない。かつての共産国家がそうであった様に、こういった体制の下では、一人の人民の命よりも、「偉大なる指導者」の遺体の方がよほど価値があるのであろうか。
政治的指導者の遺体を永久保存して神格化してしまうという何とおぞましい事。しかしそれよりさらにおぞましいのは、そういった事を推し進める共産主義体制そのものである。
金日成という人物の事に関しては、実の所現在でも謎が多いとされている。確かな事といえば、元来スターリンの傀儡政府としてソ連軍の後押しで彼は北朝鮮に入り込んだが、政治闘争で親ソビエト派であった政敵を粛清する事で権力を掌握し、息子に権力を譲る事で、体制を盤石なものとしたという事である。
いつの世も、独裁国家は滅びの途を歩む事となる。何もかもが完全に常軌を逸した世界、それがプロレタリアート独裁という名のファシズムがもたらしたものの正体である。
現在に至るまでこの国を取り巻く情勢は常に緊迫しており変化し続けているが、北朝鮮の歴史は、血塗られた「粛清」の歴史でもある。有史以来、最も悲惨な歴史の一つとして名高い在日朝鮮人の帰還事業。あの十万近い人々は今いずこへ。金日成によりその殆どが粛清され、信じた自らの指導者と国家により裏切られ、物言わず逝った事を思うと、今ここにいる己の姿が滑稽に思われた。
国境の町
訪朝した者が必ず訪れなければならない場所、それはもう一つの北朝鮮の聖地である白頭山である。飛行機に乗り平壌からさらに北へと向かう。聖地と呼ばれる所以、ここは金正日生誕の「伝説」の地であり、朝鮮民族の霊峰とも言われる。
しかし、山脈が連なる土地は特有の気候があり、「天池」があるとされる頂上付近はおろか、登る事さえ余程天候が芳しい時以外は難しいとされている。私は結局二度訪れ、この山に登る事はなかった。
中国との国境があるこの町、両江道恵山市はやはり、首都平壌とはかけ離れた田舎町である。我々は殆ど何も手が加わっていないこの町で一泊する事になる。
その日、北朝鮮では電力不足で頻繁に起きる停電が止まず、私は急に思い立ち友人数人と部屋を抜け出し、町へと繰り出した。北朝鮮でのむやみな行動は慎むようにと厳しく指導されてはいたが、時間を持て余していたので、やや興奮気味で教師たちの目を盗んで出掛けていった。
まず眼に飛び込んで来るもの、それは町に人の姿が見当たらない事、そして禿げた山々である。恐る恐る歩き始めてしばらくして、やっと民家らしいものが見えてきた。勿論人もいる。
日本の服を身にまとった我々をじっと睨む様に凝視する貧しい人たち。民家といっても日本の様なそれではない。只、人がやっと住めるか住めないか、といった程度の何ともお粗末なものである。
そして、恐らくまともに食べていないのであろう。顔色はひどく悪く、頬も黒ずみこけている。
我々はそれらを尻目に、先へと進んでいく。やがて、何やら行列をなしている光景が目に入った。一体何なのか、確かめるべく近付いてみる。行列の原因はすぐに判明した。食糧の配給である。
戦後日本においても、配給が行われたが、自由経済がないこの国では、いまだに(当時)配給制度なのである。トラックが到着し、皆抱えている幾つもの袋を差し出す。米なのか、他の食糧もあるのだろうか。初めて見る、めったに見る事のできない光景に、我々はしばらく立ち尽くしていた。
「食べる」事が決して当たり前ではないこの国で、人々は一体何が人生の歓びなのであろうか。それが生まれた時からそうなので、そういった感覚はもはや麻痺されているのであろうか。その様な事をふと考えながら、さらに先へと進んだ。
しばらく怖い程静かな町を歩き続けた我々の前には、大きな金日成とスローガンが描かれた看板があった。「偉大なる首領、金日成大元帥は永遠に我々といらっしゃる」、確かこの様な内容であったと記憶する。
思わず吹き出してしまった私は、次の瞬間には呆れ果て、妙な脱力感に見舞われた。この様なスローガンを突き付けられて、しかしその結果は極度の飢えと貧困である。何故この国は、これ程までに貧しく、一向に発展しないのか、歴史や国家体制の歪みから生じた仕方のない事なのであろうか。そして、国民はその様な体制に反旗を翻し立ち上がる気力すら、もはやないのであろうか。先程我々を見つめていた人々の目には妙な鋭さがあったが、しかし光は失せ、目は完全に死んでいた。
しばらく様々な事に想いを巡らせていたが、あまり宿所を離れすぎると問題になる恐れがあるので、適当の頃合いを見て、戻る事とした。
ここで見た光景はいまだに私の目に焼き付いて離れない。国家が抱える矛盾をこの目で見た感覚は、日本にいては決して体験出来るものではなかったであろう。
宿所へ戻ったが特にお咎めはなしで、何事もなかったかの様に、しばらくは所内で過ごした。
その昔、日本では「国境の町」という歌が流行った。国境というものは、人の心を揺さぶる何かがあるのだろう。この歌が流行った頃、日本にはまだ国境というものがあり、人々は何か言いようのない魅力がある国境に想いを馳せて、この歌を口ずさんだに違いない。
国境の向こうはもう中国である。近年脱北、つまり飢餓や政治的な迫害により北朝鮮を抜け出し、中国を始めとする近隣諸国へと逃げる者が後を絶たない。北朝鮮では、移動の自由もない為、幾ら苦しかろうと、現住している場所から離れる事は至難の業である。事実、国境付近に住む者たちは、決死の覚悟で越境する者が多い。リスクが多過ぎるこの命懸けの亡命は、彼らに残された最後の生きる道なのであろう。失敗し強制送還され、死の収容所が待っているにもかかわらず決行する。ここに住む者たちが、最低限の「人間らしさ」をも与えられず、国家の奴隷と化しているその姿を見ていると、私はもはや修学旅行以上のものを見た充足感と、愚かな体制への怒りが微妙に入り混じり交差していた。(つづく)
http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/Default.htm
相変わらず、北当局の伝声管です。こんな組織が今なお生き続けているとはどういうことでしょう。そのこと自体に対して在日朝鮮人の闘いがないことにあきれます。70年代に韓国の民主化に動き回った人々はどうしているのでしょう。たとえば徐勝さんらは?
神戸朝高の記事があったので同校のHPを覗いてみると3年生の祖国訪問の記事があります。いわば修学旅行で6月に実施されるようです。
神戸朝高 高3のジオログ
http://geocities.yahoo.co.jp/gl/sobi1974/view/20090529/1243571851
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このようなことが今なお続いていることは僕にはほとんど信じられません。核実験を成功させ「強盛大国」をめざす独裁国家をたたえることが12年間の「民族教育」の総決算として行われるということです。ストップをかける人はいないのでしょうか。
『木苺』に連載された元智慧さんの「ある在日の告白」から関係の記事を紹介します。90年代に朝鮮高校生として「祖国訪問」を体験した人です。
「祖国」訪問
元智慧(うぉんちへ) 『木苺』124号(05年10月)
朝鮮学校へ通う生徒も日本学校の生徒同様、在学中に幾度か修学旅行というものを体験する。殊に重要視されているのが、高級学校(日本の高校に相当)三年の時に企画される、「祖国訪問」である。
全国にある高級学校の生徒のほぼ全員が、一年をかけて順次、新潟港より渡航する。船は、あの悪名高い「万景峰号」である。
拉致関連のニュースなどで、チマチョゴリ(朝鮮学校の女子の制服)を着た女子生徒やブレザーを着た男子生徒が一斉に下船する姿をご覧になった方も多いと思われるが、あの光景がまさにそれである。
一昔前、特に金日成が存命中は、この修学旅行の他に、芸術やスポーツなどの各分野で選抜された者が、「偉大なる首領様」の前で自らの腕を披露する公演などの機会もあったが、それも彼が亡くなった後は、下火になった様である。
さてこの修学旅行、私も例に洩れず参加した訳であるが、個人的にはその一昨年、別の機会に訪れており、結果的には二度訪朝する事となった。
船の中では、夜毎集会が開かれ、修学旅行中、より一層の国家と金一族への絶対なる忠誠、この修学旅行での「得難い」体験を、今後どの様に自らの人生に反映していくか、勿論それは前提に国家の為に生きるという事があるのだが、教師たちはいつになく力が入って、生徒たちにその決心を迫るのであった。
新潟港を出発した我々が、二泊三日の船旅を終えてまず目に入るのが、元山(ウォンサン)の港である。北朝鮮がどの様な国家であるか熟知していない殆どの生徒は、只々純粋に初めて見る「祖国」の光景に感無量になる。そして、次々と起こる歓喜の声。両足で祖国の地を踏む者もいれば、敢えて片足で踏みしめる者もいる。
到着後、まずパスしなければならない事は、厳しい荷物の検閲である。アメリカ製の全てのもの、そして北朝鮮の思想にそぐわないものは、否応無しに没収される。そして、それ以上に、北朝鮮の文化度の低さを露呈させる様なもの、例えば音楽機器など電子機器類は実に厳しかった。その行為自体、自らの後進性を露呈している様なものであるのだが。カセットテープやCD、そしてビデオテープなどはその内容まで調べられ、特に「問題」がなければ後日返却されるという状態であった。恐らく当局は、国家体制が文化によって崩されるという事を、熟知しているからであろう。
港町元山はお世辞にも美しい街とは云えず、特に目立っているものといえば、船舶と在日朝鮮人の生徒や、観光客相手に営業している飲食店ぐらいのものである。この飲食店、基本的には北朝鮮が外貨を得るためのものであり、そこに住む人たちは利用できない。海外より訪れた人たちが、山盛りの肉や松茸、そしてにぎり寿司などを頬張っている姿を、現地民、特に子どもたちが窓越しに生唾を飲み込んでいる光景に、この国が抱える経済や食糧事情などの一端を垣間見る様な気がした。日本と北朝鮮、そして現地民と在日朝鮮人の歪みきった戦後の関係を如実に物語っている。
元山には長居せず、我々は直ぐ様一路、首都平壌(ピョンヤン)へ向かう事となる。使い古されたバスに揺られ、道なき道をまっしぐらに走っていく。目に入る光景はとてものどかなものであり、人の姿はあまり見られない。禿山が多い北朝鮮の山道を数時間走り、我々は修学旅行の大半を過ごす事となる平壌へと入っていく。
平壌という街は、しばしば「写真用・写真用の街」と云われる。紛れもなく海外メディア向けの宣伝シティであり、そこに暮らす人々も、「選ばれた人」たちである。まるで、遊園地にでも入るかの様に、首都の入り口には、「ようこそ、平壌へ」という看板が掲げられており、周りは子どものようにはしゃいでいた。
平壌は北朝鮮の街の一つである事には違いないのであるが、それは北朝鮮の本当の姿ではない。朝鮮総連や在日の資本家から掻き集めた金を注いで、戦後「祖国復興」という名の元に労働を課せられた人たちの血と汗を思えば、何ともやりきれない想いが胸を占めた。それが平壌なのであり、労働を強いられた人たちはもう殆どいない。
首都に入った我々の最初の義務、それは金日成像に「礼を尽くす」事である。滞在中、事ある毎に訪れる事になる訳であるが、一昨年行っている事とは云え、私はうんざりする思いであった。人が人を奉り崇めるという事を何よりも嫌っていた私は、もはや溜め息しか出なかった。そして、これから始まる想像も出来ない事に、皆胸をはずませている中で、この尋常ならざる国家体制に一人大いなる疑問を抱いていた。
永久保存された遺体
初日は慌しく過ぎ、宿泊先へと向かった我々は休む間もなく、クラスごと一同に会する事となる。これから始まるこの「意義ある」訪朝における、各々の決意を否応なしに述べさせられる。心にもない事を適当に述べた後、一息ついて夕食時間となる。
北朝鮮においてこの様なホテル住まいをしているだけでは、とても日本において報道されている様な貧困や飢餓に喘ぐ人々の姿は想像できない。それ程、平壌における宿所の食事は豪勢である。
しかし、それ以上に驚くのは、それを見て何も感じない同級生たちの姿である。北朝鮮の人民が飢えようと死のうとまるで他人事、という顔で目の前の食事にありついている。ここでそういった話は禁句だと思っているのか、或いは只単に無関心なのか、とにかくその様な話題が出る事は、最後までなかった。
北朝鮮では、言論の自由がない。言論の自由のみならず、一切の自由が許されない。しかし、その様な説明を事前に受ける事など一切ないし、教師はいかに素晴らしいかを連呼するばかりである。真の意味においての修学旅行であるならば、現実をあるがままに伝えるべきである。生徒たちは戦後の北朝鮮がどの様な道のりを歩んできたのか知らないし、いうなれば北朝鮮という国についてまるで無知である。
さて、その翌日我々は、北朝鮮において「第一の聖地」と呼ばれる、錦繍山記念宮殿へと向かう事となる。他でもない。故・金日成の遺体が安置されている、建築物全てが大理石という贅を尽くしたものである。独裁者の遺体を永久保存する事は、何も北朝鮮が初めてではなく、旧ソ連などで既に行われている。その昔、スターリンがレーニンの死後、遺体を永久保存する様に命じた事は有名な話である。因みに、レーニン廟付属研究所の遺体保存技術者たちは、第二次世界大戦後も共産圏の独裁者たち、金日成の他にもベトナムのホー・チ・ミンらの遺体永久保存を次々と手掛ける事となる。
話を元に戻して、とてつもなく巨大な建物で、どこが入り口なのかすら分からない。我々は一列に並び案内されるままに進んでいく。この宮殿には、彼にまつわるものが数々展示されており、とにかく圧巻である。そして、ついに遺体安置場へと入る事となるが、その前に全身に殺菌シャワーを浴びせられる。ここまでして見る価値があるのかと疑問にも思ったが、良くも悪くも歴史上の人物との「対面」はもう目の前である。誰もが息を殺して、やや緊張感を伴って、赤く薄暗い照明だけがあるその場へと向かう。
ここを訪れるのは二度目であるが、まるで初めて訪れたかの様な緊張感が身を包む。一歩一歩踏みしめながら、その瞬間が近付く。透明な箱の中に彼はまるで生きているかの如く眠っていた。どの様な想いを秘めている人でも、これを目の当たりにすれば、激動の歴史を生き抜いてきた指導者を偲ばずにはいられないであろう。
しかし、静かにその厳かな空間を抜け出した次の瞬間、やはり大いなる疑問を抱かずにはいられない。彼がどれ程の人物か定かではないにしても、これ程の建築に一体どれ程莫大なる工費がかけられているのであろう。聞く所によると、優に数十億はつぎ込まれていると。当然、朝鮮総連の強力なバックがある訳であるが、一方で人民が刻一刻と倒れていく姿を想像すると、やはり憤りを抑えきれない。かつての共産国家がそうであった様に、こういった体制の下では、一人の人民の命よりも、「偉大なる指導者」の遺体の方がよほど価値があるのであろうか。
政治的指導者の遺体を永久保存して神格化してしまうという何とおぞましい事。しかしそれよりさらにおぞましいのは、そういった事を推し進める共産主義体制そのものである。
金日成という人物の事に関しては、実の所現在でも謎が多いとされている。確かな事といえば、元来スターリンの傀儡政府としてソ連軍の後押しで彼は北朝鮮に入り込んだが、政治闘争で親ソビエト派であった政敵を粛清する事で権力を掌握し、息子に権力を譲る事で、体制を盤石なものとしたという事である。
いつの世も、独裁国家は滅びの途を歩む事となる。何もかもが完全に常軌を逸した世界、それがプロレタリアート独裁という名のファシズムがもたらしたものの正体である。
現在に至るまでこの国を取り巻く情勢は常に緊迫しており変化し続けているが、北朝鮮の歴史は、血塗られた「粛清」の歴史でもある。有史以来、最も悲惨な歴史の一つとして名高い在日朝鮮人の帰還事業。あの十万近い人々は今いずこへ。金日成によりその殆どが粛清され、信じた自らの指導者と国家により裏切られ、物言わず逝った事を思うと、今ここにいる己の姿が滑稽に思われた。
国境の町
訪朝した者が必ず訪れなければならない場所、それはもう一つの北朝鮮の聖地である白頭山である。飛行機に乗り平壌からさらに北へと向かう。聖地と呼ばれる所以、ここは金正日生誕の「伝説」の地であり、朝鮮民族の霊峰とも言われる。
しかし、山脈が連なる土地は特有の気候があり、「天池」があるとされる頂上付近はおろか、登る事さえ余程天候が芳しい時以外は難しいとされている。私は結局二度訪れ、この山に登る事はなかった。
中国との国境があるこの町、両江道恵山市はやはり、首都平壌とはかけ離れた田舎町である。我々は殆ど何も手が加わっていないこの町で一泊する事になる。
その日、北朝鮮では電力不足で頻繁に起きる停電が止まず、私は急に思い立ち友人数人と部屋を抜け出し、町へと繰り出した。北朝鮮でのむやみな行動は慎むようにと厳しく指導されてはいたが、時間を持て余していたので、やや興奮気味で教師たちの目を盗んで出掛けていった。
まず眼に飛び込んで来るもの、それは町に人の姿が見当たらない事、そして禿げた山々である。恐る恐る歩き始めてしばらくして、やっと民家らしいものが見えてきた。勿論人もいる。
日本の服を身にまとった我々をじっと睨む様に凝視する貧しい人たち。民家といっても日本の様なそれではない。只、人がやっと住めるか住めないか、といった程度の何ともお粗末なものである。
そして、恐らくまともに食べていないのであろう。顔色はひどく悪く、頬も黒ずみこけている。
我々はそれらを尻目に、先へと進んでいく。やがて、何やら行列をなしている光景が目に入った。一体何なのか、確かめるべく近付いてみる。行列の原因はすぐに判明した。食糧の配給である。
戦後日本においても、配給が行われたが、自由経済がないこの国では、いまだに(当時)配給制度なのである。トラックが到着し、皆抱えている幾つもの袋を差し出す。米なのか、他の食糧もあるのだろうか。初めて見る、めったに見る事のできない光景に、我々はしばらく立ち尽くしていた。
「食べる」事が決して当たり前ではないこの国で、人々は一体何が人生の歓びなのであろうか。それが生まれた時からそうなので、そういった感覚はもはや麻痺されているのであろうか。その様な事をふと考えながら、さらに先へと進んだ。
しばらく怖い程静かな町を歩き続けた我々の前には、大きな金日成とスローガンが描かれた看板があった。「偉大なる首領、金日成大元帥は永遠に我々といらっしゃる」、確かこの様な内容であったと記憶する。
思わず吹き出してしまった私は、次の瞬間には呆れ果て、妙な脱力感に見舞われた。この様なスローガンを突き付けられて、しかしその結果は極度の飢えと貧困である。何故この国は、これ程までに貧しく、一向に発展しないのか、歴史や国家体制の歪みから生じた仕方のない事なのであろうか。そして、国民はその様な体制に反旗を翻し立ち上がる気力すら、もはやないのであろうか。先程我々を見つめていた人々の目には妙な鋭さがあったが、しかし光は失せ、目は完全に死んでいた。
しばらく様々な事に想いを巡らせていたが、あまり宿所を離れすぎると問題になる恐れがあるので、適当の頃合いを見て、戻る事とした。
ここで見た光景はいまだに私の目に焼き付いて離れない。国家が抱える矛盾をこの目で見た感覚は、日本にいては決して体験出来るものではなかったであろう。
宿所へ戻ったが特にお咎めはなしで、何事もなかったかの様に、しばらくは所内で過ごした。
その昔、日本では「国境の町」という歌が流行った。国境というものは、人の心を揺さぶる何かがあるのだろう。この歌が流行った頃、日本にはまだ国境というものがあり、人々は何か言いようのない魅力がある国境に想いを馳せて、この歌を口ずさんだに違いない。
国境の向こうはもう中国である。近年脱北、つまり飢餓や政治的な迫害により北朝鮮を抜け出し、中国を始めとする近隣諸国へと逃げる者が後を絶たない。北朝鮮では、移動の自由もない為、幾ら苦しかろうと、現住している場所から離れる事は至難の業である。事実、国境付近に住む者たちは、決死の覚悟で越境する者が多い。リスクが多過ぎるこの命懸けの亡命は、彼らに残された最後の生きる道なのであろう。失敗し強制送還され、死の収容所が待っているにもかかわらず決行する。ここに住む者たちが、最低限の「人間らしさ」をも与えられず、国家の奴隷と化しているその姿を見ていると、私はもはや修学旅行以上のものを見た充足感と、愚かな体制への怒りが微妙に入り混じり交差していた。(つづく)