「読売」の記者が「オール5」を記事にしようとしているのを知って僕はやむなくインタビューに応じたが、この記者の姿勢は信頼に値するとは見えなかった。興味本位の話題造りか、何かの陰謀があるか…。
7月2日の「読売」の記事を知ったのはどこかの駅であった。偶然出会った学生時代の知人に教えられた。いやな感じの記事に思えた。
一番驚いたのは僕の写真。記者は撮影は求めなかった。どこから入手したのか。僕には「手配写真」のように見えて不愉快だった。この記者は自分の書いた記事の載った『読売新聞』をついに送ってこなかった。
記事内容にも問題がある。僕が拒否しているのは「評定」であって、学習における評価を否定しているのではない。もっとも肝腎のことがわかっていない。
それに僕は「理想教育」はかくあるべしと行動しているわけではない。自分の日々の授業が意味のあるものになっていない現実を何とか打開するために暗中模索しているのだ。「理想教育ふりかざし」等という見出しは不適切きわまりない。
この記事の影響でTVの「モーニングショー」にも出るはめになった。「評価」の難しさがテーマで、それはそれでいいとしても僕が提起している問題とは違う。
そんなこともあって僕は自分の考えを改めて社会に示す必要に迫られた。「なぜ、オール5にするか」という文章を『池商新聞』に掲載してもらった。
なぜ、オール5にするか 鈴木啓介(1971年7月20日『池商新聞』)
1 オール「5」提案の波紋
「私にとって池商とはなんであったか。一年の時から計算実務、簿記に苦しみ、二年になっても商業科目は大嫌いであった。三年になれば三年で実践というものに苦しみ、会社が決まって、あと卒業だけになった今も落第という恐怖にさらされている。私はどうしていつも、こういう不安にさらされているのだろうか?もしこれが出来ないと私たちは社会に出て行けないような欠陥人間なのだろうか。
私たちが三年になるまで数人の友達が学校を退学させられた。それも風紀的な悪いことをしたのではない。みんな一科目が出来なかったために、この学校から追放されたのだ。なんと恐ろしいことだろう。そういう不安の中で私は生きてきた。やはり池商にきたのは間違いだったのだろうか…」。
Yさんの『私にとって池商とは』の一節である。またM君は『俺にとって学校生活とは』で次のように述べる。
「…勉強は落ちない程度にやる。学校生活を続けるための手段のようなものだ。…」
熱意を持って学ぼうとしているように見えるYさんの手記の中に「卒業だけになった今も落第という恐怖にさらされている」という文章を読んだのは、意外でもあったし、多少オーバーな表現ではないかと思いもした。
しかし、「学校は真理を学ぶところだ」といった観念からではなく、あるがままの自分の姿を通して現実をみるとき、程度の差こそあれ、生徒諸君の多数がYさんの表現に共感するだろう。
『テストのために勉強する自分』『高卒の資格を取るために学校に来る自分』をそこに見いださなくてもすむ人はおそらくはいないからである。「落第」という「恐怖」にさらされ、「不安」にさらされて行う勉強のどこに、生活意欲をかきたてる要素がありえよう。「現在、俺にとって、学校は友と語り、自分を見つめる絶好の場であることがほとんどだ」と述べるMくんが、学校に居続けるための「手段」として、「落ちない程度に」やっているのは賢明であるかもしれない。学ぶことが、それ自体、生きること、それ自体、目的であるのではなくて、学ぶことが、恐怖に支配され、強制され、≪とにかく生きる≫ための手段になっている今日の学校、Mくんの生き方は、そのような現実のうえにひらきなおる生き方であろう。
昨年の4月、はじめての授業のとき、生徒諸君は正直であった。政治や経済をなぜ学ぶかと問うたとき、ともかくも関心を持って、いささかでも主体的に学ぼうとする人はごく少数であった。「時間割にきめられているから」「授業に出なければ卒業できないから」「とにかく高校では学ぶことになっているから」等々。そして、「できれば、政治の学習なんて避けて通りたい人」が圧倒的多数であった。YさんやMくんの指摘するようなことは現実の教育の中では、当然過ぎるほど当然なのかもしれない。そのような中で、私は次のような政経の授業に対する方針を提案した。
①教科書にとらわれることなく、私たちが生きていく上で、今これを学ぶ必要があると思うことをみんなで出し合って学ぼう。資料も私たちの手で作っていこう。
②学習の主体は生徒でなければならない。したがって、評価の主体も生徒各人でなければならない。教師の一方的な評定のために必要なテストはしない。
③成績評定はしない方向を追求したい。しかし、しなければ「卒業」が不可能になるという事態もありうるので、これから一年かかってみんなで考えていきたい。ぼくは、たとえば「全員5」という評定をすることを考えている。これはみんながよく学習したというのではなく、評定できない、評定してはならない、という意味でつける「5」ということになる。従って、空白、あるいは「0」ということと同じ「5」だ。
(つづく)