昨日の地震は69年の人生で初めて体験する「大地震」でした。2階の部屋で昼寝中でした。起きて、柱につかまりながら時の過ぎゆくのを待ちました。
時とともに揺れが大きくなり、この家が空中分解する時がついに来たのかと思いました。
この家は1971年3月に買った建て売りです。ちょうど40年になります。埋め立てた田んぼの上の「掘っ立て小屋」のようなものです。地震対策で定年時に退職金を奮発して補強することを考えたのですが大工さんから断られました。あまりにもざっとした造りで補強のしようがないのです。
大きな揺れは3,4分は続いたでしょう。横揺れの大きさの割には本棚の本も落ちません。空中分解も免れました。2階にいたせいか、比較的冷静でした。空中分解しても、ざっとした造りなどで「圧死」する要素は少ないのです。
二階の階段の踊り場の壁がはがれたのが最大の被害です。あとは食器戸棚のワイングラスが一個破損しただけです。
とりあえず、たいしたことがなく、「助かったなあ」という感じです。
近所でも大きな被害はありませんが裏の家の瓦屋根が破損しています。岩手県と福島県の出身の隣人が故郷の親戚の心配をしていますが電話が通じないとのことです。
TVが報じる東北沿岸各地の映像を見続けました。阿武隈川河口地区や名取川河口地区に津波が押し寄せて来るのをリアルタイムで見ました。このあたりは05年3月に訪ねたところです。白石から阿武隈川を下り、河口部の鳥の海に寄ったあと、伊達政宗が掘らせたという「貞山堀」(じょうざん堀)をたどって仙台にまでいきました。
●http://www.youtube.com/watch?v=NrQ9vkZlC-c
このあたりの村という村が壊滅したといいます。27日は「閖上」(ゆりあげ)という珍しい地名のところで泊まりました。閖上もただではすまなかったはずです。28日、貞山堀の藤塚という港で「建築板金」の嶺岸さんという方にあれこれと教えてもらいました。荒浜から仙台に向かいました。ここで浜に出て海を眺めました。北から南までどこまでも砂浜が続いている単調な海岸です。この荒浜に200人以上の遺体が放置されたままだと言います。
福島県の小名浜から「原発通り」を通って、相馬に抜ける海沿いの道も99年12月以来、何度か訪ねました。お隣の奥さんの故郷は浪江で、この通りにあります。相馬地方の集落の「壊滅」と福島原発の危機が伝えられています。
未曾有の大地震だといいます。高度成長期以後半世紀の間に作られた堅牢な防潮堤も自然の脅威の前には役に立たなかったのでしょう。今はただ、救出を待つ人が一人でも多く助け出されることを祈るばかりです。
東京の学校に勤めるカツヨシさんと精さんは昨夜、学校で泊まったということです。けさがた、地震があった長野県木島平村の高山さんとも連絡が取れました。無事、元気で何よりです。(正午過ぎ)