3月1日(火)雨
カツヨシさんが編集してくれる「きいちご」7号の原稿整理で一日くれました。夜は春の旅第二弾(4月)「九州の友人たちを訪ねて」の立案のため、霧島市(鹿児島県)・人吉市(熊本県)・武雄市(佐賀県)などの古い友人たちと交信しました。学生の頃から社会人一年生の頃につきあってもらい世話になった方々です。年齢もみんな同じ。今度はそれぞれの方々の故郷に世話になる旅です。骨格がほぼまとまってきました。有り難いことです。
あさ、高知のけんちゃんのブログの記事を読んで僕までもくやし涙を流しそうになりました。思い当たることがいろいろとよみがえってきます。
今日は県立高校の卒業式-2冊の卒業アルバム
39年前の1972年は、わたしは高校を卒業できませんでした。卒業を前提に前の年の春には卒業アルバムの写真も撮影し、アルバム代も支払っていたので、卒業できなかったにもかかわらず、クラス写真や個人写真にも掲載されています。(略)
卒業できなかっただけでなく、「連合赤軍事件」も表へ出て、浅間山荘の「立てこもり」だけでなく、陰惨な「仲間殺し」「リンチ殺害の現実」が発覚し、大きなショックを受けたものでした。
高校の勉学も放り投げ、当時「信仰」していた毛沢東主義が、その「象徴」の1であった連合赤軍。連合赤軍の支持者でもシンパでもありませんでしたが、毛沢東主義者の集団としてでは注目していましたから。それもすべて「幻想」であったことが、このときに明らかになりました。
自分のしていたこと。努力をしていたことが全く無駄であり、徒労であった事実は、辛く重たいものでした。実に情けない高校生でした。
主任の担任教師はしきりに自主退学を勧め、大検で大学を目指せ。留年しないでくれ、学校へこないでくれと言いました。15日の追卒業もさせてくれませんでした。一切の連絡もないまま、4月の登校日を迎える有様だったのです。
それが留年し、大学へ合格してから学校の教師の態度が豹変しました。まともに生徒扱いしてくれました。そして2冊目の卒業アルバムもあります。ですので私には2冊高校の卒業アルバムがあるのです。
遠い昔のことですが、「昨日のことのように」蘇ります。わたしを悪ざまにのにしった教師たちに街ですれ違うことがあったら、タダではすませないと思います。
と「熱い気持ち」もありますが、居酒屋で一杯やっても良いとも最近は思うようになりました。年の功なのでしょうか?
●出典http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-c1cb.html
「けんちゃんの今朝の文章(卒業)を読んで悔しくて涙が出そう になっていました。」とメールを送ったらけんちゃんから丁寧な返信
をもらいました。勝手ながらその一部を紹介します。
鈴木さんのような先生が当時の高校におられたら、 わたしは精神的に救われていたことであると思います。 執拗に私を自主退学に追い込もうとした担任教諭は 当時の県教祖(日本共産党系)の活動家でした。 彼らは当時わたしのことを「○○高校の反戦トロツキスト」と ビラに書いて批判していました。そのビラを持参して私は 県教組に「取り消せ!俺は毛沢東主義者であって トロツキストではない!」とか阿呆な怒鳴り込みをしましたから。 管理職は独立高等教組系でした。そのどちらの労組からも 嫌われていました。ですので自主退学を執拗に奨めてくれ、 春休み期間中には高校からは一切連絡をいただけませんでした。 母と2人で連合赤軍がひきおこした浅間山荘事件の テレビを見ていました。 当時母は頑張ってくれまして、世間体なんぞ気にせず 「この息子を留年させ、大学へ行かすから!」と啖呵をきりました。 「お母さんそれは絶対に無理です。自主退学して大検を 受けたほうが楽ですから。」と主任教諭は捨て台詞を残しました。 http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-03bd.html そして新学期になり、4月8日の登校日に高校へ行きました。 「僕はどこへ行けばええがよ。」と職員室へ行きました。 「まさかお前が来るとは!」と言われ、半時間くらい 校長室の応接で待たされました。 「臨時職員会でお前のクラスが決まったぞ。ホームルーム があるからそこへ行くように。」と教頭がいいました。 行くとクラスみんなの視線が注がれました。真ん中の席が空席が あり、そこへ座りました。(以下略)
70年代の初めは社会や政治のあり方に関心をもち、発言をする生徒たちが少なくない時期でした。高知の高校の教師たちの無惨な姿が
浮かび上がってきます。是が現実だったのでしょう。
ご両親の支えを得てけんちゃんは彼らのもくろみを打ち砕くことができ、今日までの道を切り開くことが出来ました。どなたの支えも得られず、文字通り
「孤立無援」を強いられて退学に追い込まれていく人の方が普通だったのです。東京でも事態は余り変わらなかったのではないかと思われます。
ぼくが働いていた池袋商業高校でもこの年は珍しく校内でビラまき等をする生徒が数人いました。72年3月の卒業式当日にはどうしても卒業式には
出たくないと言います。それで生徒部生徒会担当だった僕は卒業式には出ず、彼女らの教室で行われたいうならば自主卒業式に出席しました。
M・MさんとH・Mさん、二人の姿は今も憶えていますが、ほかにもいたのかどうか。どんなことを話し合ったかは記憶していません。僕も学校や教師のあり方に
根本的な疑問を抱いて自分なりの闘いをしている最中だったのでそれなりの信頼関係はあったのかもしれません。自分で考え行動することが大事で
政治組織のコマにはなるまい…などと語り合ったのかもしれません。
お二人はその後どんな人生をあるいたのか。
けんちゃんのブログに出会ってそろそろ4年になります。ほぼ欠かさず読ませてもらっています。高校生から大学の頃に身につけた思想ときちんと向かい
合って検証し、どう生きたらよいか、常に考えながら行動している人です。僕の目から見たらこれほどの人はそうはいない超一級の「市民」です。
この春の旅でけんちゃんやその友人たちにはお会いできるかと楽しみにしています。僕の生徒だったMさんやHさんにもあってみたいものです。この39年を
どんな風に生きてきたか、語り合ってみたいなあ。
>それで生徒部生徒会担当だった僕は卒業式には出ず、彼女らの教室で行われたいうならば自主卒業式に出席しました。
けいすけさんはそうやって、「問題」の生徒を「見守って」いただきました。それ以上の支援はないでしょう。
当時の私はとにかく「とんがって」いました。維新の時代の志士同様に、「革命家になる」と作文に書いたりして問題を起していましたから。
それと社会運動をするほうにも問題がありました。当時高校生は同じ運動する大学生の使い走りをさせられていました。
街頭署名カンパ活動で、わたしは1万5千円秘度集めましたが、すべて「上司」である大学生に取り上げられました。後で聞くと生活費になっていたそうです。
勉学もなにもかにもないがしろにして、頑張っていた運動体がこの有様でした。ほとほと嫌になりました。
わたしは1人息子でしたので両親が見捨てなかったんです。運も良かったです。
39年前の出来事ですが、つい昨日の出来事のように思い出されます。
翌年の卒業式にも、わたしも出たくないと、中学校の恩師の自宅へ押しかけていたそうです。ご主人が「式ぐらい出ろよ!」といわれ、説得され、自転車に載せてくれて高校まで送ってくれました。
やはり身近に「見守っていただく」人達の存在は必要です。