昨日は寒さのこたえる一日でした。しかし、横浜中華街の華福飯店4階の会場に入るや、寒さはどこかへ吹き飛んでしまい、熱気にセーターまで脱ぐありさま。暖房が良く利いているからだけではありません。赤ちゃん、子供、青年、壮年、そして老年。杜さん一族の熱気です。ゆうに50人は居るでしょう。若々しい命が発散するエネルギーに満ちあふれた、こんな家族の会合が今頃、どこにあるのでしょうか。
そこは招かれて出かけた「杜食品工業株式会社創立25周年記念新年会」です。
1979年に帰国した中国残留婦人の夫とその夫婦の子どもたちが築き上げてきた中国食品の製造・販売会社です。83年1月、江東区塩浜で父と次兄が干豆腐(かんどうふ)の製造・販売をはじめて以来四半世紀、今や、業界では知らない人の居ない中華食材の総合商社です。
創立者の杜錫濤さんは82歳、10人のこどもとその配偶者、孫たちが経営者であり、社員です。社長の宏さんは三男です、選挙で選ばれたそうです。「感謝」と「平等」が経営理念です。創立者たちの苦難を忘れず、互いの働きを認め合い、成果は等しく分け合うということでしょう。親兄弟姉妹12人が助け合うということは至難の業です。良くも続いて来たものだと感心します。
この日の会合には長穎(ちゃんい)くんの来日と智慧子さんとの結婚を祝うもうひとつの目的があります。長穎君は杜錫濤さんの兄(村の学校の校長)の末子で、両親を亡くした後、この兄弟と共に暮らしていました。兄弟たちが来日した79年以来、28年ぶりに再び兄弟の交わりに加えられたのです。
忠幸さん、純子さん、そして僕。都立北高校の元教師三人がお祝いの言葉を述べました。僕を除く2人は達者な中国語のスピーチで満場の喝采を浴びました。
社長の司会で新年会は進みますが、格別の式次第があるわけではありません。私たちも一族の会話の輪に加わります。僕は専務をしている次兄の長志さんと話し込みましたが、そこに石坂さんがやってきました。元北高生だといいます。この一族の娘さんと結婚して、この会社で働いています。3人の男の子が居ます。足立区内の都立高校と中学に通っています。
僕が着任する87年より2年前に入学したのですが「校長先生と意見が合わず」、一ヶ月もたたないうちに退学したそうです。忠幸さんは居たわけですが
出会う機会が無かったのでしょう。お互いに記憶がありません。日本に来て江戸川区立葛西中学の岩田忠先生をはじめ、いい先生に恵まれたと言います。しかし、無理解と差別の現実も厳しく、十代の一時期、やくざの世界に身を置きかけたこともあると言います。今は自分の母校でもある足立区の中学校のPTA副会長をしているそうです。
僕は着任以前でも在籍していた生徒は凡て、「北高中国クラブ同窓会名簿」に記載したつもりだったのですが、石坂くんの名は有りません。直ちに僕の名簿に記入して、同窓生の一員に加えました。嬉しい限りです。中学から高校生の時期は誰にとっても、つらい「第二の誕生」の季節です。無理解と差別の言辞にさらされた自分をどうすることも出来なかった青年が、自己確立の長い闘いに勝利したのです。PTA活動は、世話になった学校への恩返しだと言います。こういう人の話こそ、今を生きる子どもたちの琴線に触れるはずです。
当時の北高校の校長はどういう対話を石坂くんと交わしたのでしょうか。担任は話し合う暇も無かったのでしょうか。もう23年がたちますが、教育のあり方を廻って話し合ってみたいものです。
午後6時散会、寒さのしみ通る街に出ましたが、今日も温かい気持ちで帰途に就くことが出来ます。
そこは招かれて出かけた「杜食品工業株式会社創立25周年記念新年会」です。
1979年に帰国した中国残留婦人の夫とその夫婦の子どもたちが築き上げてきた中国食品の製造・販売会社です。83年1月、江東区塩浜で父と次兄が干豆腐(かんどうふ)の製造・販売をはじめて以来四半世紀、今や、業界では知らない人の居ない中華食材の総合商社です。
創立者の杜錫濤さんは82歳、10人のこどもとその配偶者、孫たちが経営者であり、社員です。社長の宏さんは三男です、選挙で選ばれたそうです。「感謝」と「平等」が経営理念です。創立者たちの苦難を忘れず、互いの働きを認め合い、成果は等しく分け合うということでしょう。親兄弟姉妹12人が助け合うということは至難の業です。良くも続いて来たものだと感心します。
この日の会合には長穎(ちゃんい)くんの来日と智慧子さんとの結婚を祝うもうひとつの目的があります。長穎君は杜錫濤さんの兄(村の学校の校長)の末子で、両親を亡くした後、この兄弟と共に暮らしていました。兄弟たちが来日した79年以来、28年ぶりに再び兄弟の交わりに加えられたのです。
忠幸さん、純子さん、そして僕。都立北高校の元教師三人がお祝いの言葉を述べました。僕を除く2人は達者な中国語のスピーチで満場の喝采を浴びました。
社長の司会で新年会は進みますが、格別の式次第があるわけではありません。私たちも一族の会話の輪に加わります。僕は専務をしている次兄の長志さんと話し込みましたが、そこに石坂さんがやってきました。元北高生だといいます。この一族の娘さんと結婚して、この会社で働いています。3人の男の子が居ます。足立区内の都立高校と中学に通っています。
僕が着任する87年より2年前に入学したのですが「校長先生と意見が合わず」、一ヶ月もたたないうちに退学したそうです。忠幸さんは居たわけですが
出会う機会が無かったのでしょう。お互いに記憶がありません。日本に来て江戸川区立葛西中学の岩田忠先生をはじめ、いい先生に恵まれたと言います。しかし、無理解と差別の現実も厳しく、十代の一時期、やくざの世界に身を置きかけたこともあると言います。今は自分の母校でもある足立区の中学校のPTA副会長をしているそうです。
僕は着任以前でも在籍していた生徒は凡て、「北高中国クラブ同窓会名簿」に記載したつもりだったのですが、石坂くんの名は有りません。直ちに僕の名簿に記入して、同窓生の一員に加えました。嬉しい限りです。中学から高校生の時期は誰にとっても、つらい「第二の誕生」の季節です。無理解と差別の言辞にさらされた自分をどうすることも出来なかった青年が、自己確立の長い闘いに勝利したのです。PTA活動は、世話になった学校への恩返しだと言います。こういう人の話こそ、今を生きる子どもたちの琴線に触れるはずです。
当時の北高校の校長はどういう対話を石坂くんと交わしたのでしょうか。担任は話し合う暇も無かったのでしょうか。もう23年がたちますが、教育のあり方を廻って話し合ってみたいものです。
午後6時散会、寒さのしみ通る街に出ましたが、今日も温かい気持ちで帰途に就くことが出来ます。
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