10日(土)小諸の弁天水をポリタンクに汲んで、午後早い時間に川越に帰りました。雨模様で急に気温が下がったため、やや体調を崩したので早めに休みました。夜になって元気を恢復したのでブログに篠ノ井の長谷寺のHPを追加しました。若麻績さんのおすすめです。読んでいるうちに真夜中になっていました。仏門に生きる人の真摯な学びに心が洗われます。皆さんも是非、訪れてみてください。
長谷寺
http://www.hasedera.net/blog/2008/04/post_43.html
ぼくはこの寺の住職がチベット問題を次のように我が身に引きつけて考え、学ぶ姿勢に共感します。
●今、僕らに何が出来るのか
中国が、チベットとの良好だった関係を変えて侵攻し、かつまたチベット独自の宗教とそれに基づく文化や政治体制などを崩壊させつつある(中国共産党の視点からは、人民の解放である)現状に対して、日本人の僕ら一市民が出来ることは何だろうか。
こうした近代化というものが、近代以前の伝統文化を壊してきた例を挙げれば、中国に限らず全世界規模で無数に指摘できるし、僕らの周囲にもたくさん挙げることが出来るだろう。それによって得られた幸福もあるけれども、失ったものも多い。
そんな中で、チベットの『解放』と近代化を進める中国政府がこの半世紀で120万人ものチベット人を殺害したということを知った。驚くべき数字に怒りがこみ上げてくるが、日本はどうなのだろうか。戦後の近代化と成長主義の中で、殺してきた人がいなかったのか。
自殺者はどうなのか。ここ近年は年間3万人もの人が自殺するという。もし3万人平均が戦後60年間続いたなら、180万人の自殺者だ。もちろん、以前はこの半分くらいで推移していた時期もあるが、100万人を下らない人間が、戦後の日本社会の中で自殺していると考えてよいだろう。中国がチベット人を「解放」し近代化するという建前の中で殺害したとされる死者の数と同等な、もしかするとそれ以上の数に達しよう。
僕ら日本人も、おそらく近代化や現代化、合理化という国づくりを推進する中で、宗教はもとよりかつて人間を守っていた文化も捨ててきてしまったに違いない。
その意味で、僕は、このチベット《問題》ということに取り組むことの中には、チベットと中国というローカルなことにとどまらない、近代化以降の国家建設や国づくり社会作りの方法論が根本的に有する「欠陥」を知り、それを克服していく可能性があるのだと考えている。
したがって、チベット《問題》は僕ら自身の問題と深くつながるであり、ダライラマの種々の発言に対しても、その点で深く耳を傾けなければならないと感じている。
もし、チベット《問題》から耳をそらすなら、日本人は身近な自殺者を減らすことは決して出来ないだろう。チベットを知り、チベットを考えることは、現代社会の本質的な非人間性の暗部に光を当てることに他ならない、と思う。
9日(金)若麻績さんに教えて貰った萬佳亭という見晴らしのよい料理屋で昼食のあと、小布施のKさんに電話。驚いたことに母上が4月13日にみまかったとのこと。急いでおたずねすると、Kさんが一人仏壇を護って居られます。
仏前で缶ビールをいただきました。酒類は久しぶりです。Kさんとはこうやって10余年交流してきたのですから、おばあちゃんも喜んでくれているはずです。
ちょうど一年前の5月9日、ケサ子ばあちゃんを訪ねた時のブログがあります。
ケサ子おばあちゃん http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/d/20070513
孫娘の教師であったというだけのぼくとその家族を春と秋、喜んで迎え続けてくれました。おばあちゃんの実家、おばあちゃんの子どもたち、親族のかた方も付き合ってくれます。私たちの方も義母や娘。昔からの親戚のようです。
ことに義母は年が近いせいもあって、おばあちゃんと話が弾みました。そのおばあちゃんが逝ってしまわれたのです。
仏壇に飾ってある写真はおばあちゃんを挟んでKさんとぼくが写っている写真を引き伸ばしたものです。長く母上の世話をし、孝養を積んできたKさんは母を失った寂しさにやっと耐えているような感じです。幾つになっても母親は特別な存在です。(そういえば今日は母の日で、妻に宛てて息子夫婦から例年のように感謝の品が届きました)。
一緒にドライブしたときのこと、お焼きをはじめ、そのたびごとにもてなしてくれた御馳走の数々、あれこれと思い出が尽きません。おばあちゃんを偲ぶ一時を過ごしました。
「ありがとう、ケサ子おばあちゃん」大きな声でお別れの言葉をかけて、帰途につきました。
おばあちゃんのお陰で信州・小布施はぼくにとって何番目かの特別な町となったのです。
長谷寺
http://www.hasedera.net/blog/2008/04/post_43.html
ぼくはこの寺の住職がチベット問題を次のように我が身に引きつけて考え、学ぶ姿勢に共感します。
●今、僕らに何が出来るのか
中国が、チベットとの良好だった関係を変えて侵攻し、かつまたチベット独自の宗教とそれに基づく文化や政治体制などを崩壊させつつある(中国共産党の視点からは、人民の解放である)現状に対して、日本人の僕ら一市民が出来ることは何だろうか。
こうした近代化というものが、近代以前の伝統文化を壊してきた例を挙げれば、中国に限らず全世界規模で無数に指摘できるし、僕らの周囲にもたくさん挙げることが出来るだろう。それによって得られた幸福もあるけれども、失ったものも多い。
そんな中で、チベットの『解放』と近代化を進める中国政府がこの半世紀で120万人ものチベット人を殺害したということを知った。驚くべき数字に怒りがこみ上げてくるが、日本はどうなのだろうか。戦後の近代化と成長主義の中で、殺してきた人がいなかったのか。
自殺者はどうなのか。ここ近年は年間3万人もの人が自殺するという。もし3万人平均が戦後60年間続いたなら、180万人の自殺者だ。もちろん、以前はこの半分くらいで推移していた時期もあるが、100万人を下らない人間が、戦後の日本社会の中で自殺していると考えてよいだろう。中国がチベット人を「解放」し近代化するという建前の中で殺害したとされる死者の数と同等な、もしかするとそれ以上の数に達しよう。
僕ら日本人も、おそらく近代化や現代化、合理化という国づくりを推進する中で、宗教はもとよりかつて人間を守っていた文化も捨ててきてしまったに違いない。
その意味で、僕は、このチベット《問題》ということに取り組むことの中には、チベットと中国というローカルなことにとどまらない、近代化以降の国家建設や国づくり社会作りの方法論が根本的に有する「欠陥」を知り、それを克服していく可能性があるのだと考えている。
したがって、チベット《問題》は僕ら自身の問題と深くつながるであり、ダライラマの種々の発言に対しても、その点で深く耳を傾けなければならないと感じている。
もし、チベット《問題》から耳をそらすなら、日本人は身近な自殺者を減らすことは決して出来ないだろう。チベットを知り、チベットを考えることは、現代社会の本質的な非人間性の暗部に光を当てることに他ならない、と思う。
9日(金)若麻績さんに教えて貰った萬佳亭という見晴らしのよい料理屋で昼食のあと、小布施のKさんに電話。驚いたことに母上が4月13日にみまかったとのこと。急いでおたずねすると、Kさんが一人仏壇を護って居られます。
仏前で缶ビールをいただきました。酒類は久しぶりです。Kさんとはこうやって10余年交流してきたのですから、おばあちゃんも喜んでくれているはずです。
ちょうど一年前の5月9日、ケサ子ばあちゃんを訪ねた時のブログがあります。
ケサ子おばあちゃん http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/d/20070513
孫娘の教師であったというだけのぼくとその家族を春と秋、喜んで迎え続けてくれました。おばあちゃんの実家、おばあちゃんの子どもたち、親族のかた方も付き合ってくれます。私たちの方も義母や娘。昔からの親戚のようです。
ことに義母は年が近いせいもあって、おばあちゃんと話が弾みました。そのおばあちゃんが逝ってしまわれたのです。
仏壇に飾ってある写真はおばあちゃんを挟んでKさんとぼくが写っている写真を引き伸ばしたものです。長く母上の世話をし、孝養を積んできたKさんは母を失った寂しさにやっと耐えているような感じです。幾つになっても母親は特別な存在です。(そういえば今日は母の日で、妻に宛てて息子夫婦から例年のように感謝の品が届きました)。
一緒にドライブしたときのこと、お焼きをはじめ、そのたびごとにもてなしてくれた御馳走の数々、あれこれと思い出が尽きません。おばあちゃんを偲ぶ一時を過ごしました。
「ありがとう、ケサ子おばあちゃん」大きな声でお別れの言葉をかけて、帰途につきました。
おばあちゃんのお陰で信州・小布施はぼくにとって何番目かの特別な町となったのです。
●今日のブログの二つの話題、どちらも感銘深く拝読しました。「今、ぼくらに何が出来るのか」と鋭く問い、「現代社会の本質的な非人間性の暗部に光を当てること」へと思索を深めていく長谷寺のご住職、人と人との絆を大切にされたケサ子おばあちゃん。二つの話題は一対をなすにふさわしく、最後のけいすけさんの「お別れの言葉」も万感の思いを乗せて届いたのでした。