私は本の虫で、時間があれば書物を読んで
いるのだが、この正月休みは、年末に仕事
がハネてからはず~~~っと映画を観て
いる。
膨大な量を観ている。
飲み食い風呂、以外はずっと映画を観て
いる感がある。
自宅自室がまるで独居房のように、籠って
映画を観続けている。
一切読書は封印。
すべての時間を映画に傾注している。
身体は肩を壊しているので、刀振りも
律して禁じている。
せいぜいナイフを出したり火付け盗賊
ごっこを台所でするくらい。
あとはずっと映画三昧だ。
『泥の河』はやっぱり泣いてしまった。
(古刀三原)
古刀三原が製作された時期は、凡そ
鎌倉時代末期から南北朝時代および
室町を過ぎて戦国末期までです。
その当時、現在の三原は海であり、
三原城が洋上に築城されたのが戦国
時代末期であるので、古刀三原の刀
は、現在の三原の場所では作られては
いません。
古刀三原の駐鍛地は現在なお不明で
すが、三原鍛冶開祖とされる備州正家
の鍛造場所にはいくつかの説があります。
1.現在の三原市糸崎町。
⇒これは古墳時代から海に突き出た
半島付近に猫の額のような地面があった
ので、可能性はあります。
2.現三原市字貝野。
⇒備州(備前・備中・備後)ではない
安芸国なので論外。
3.尾道市貝ヶ原。
⇒古代山陽道沿いであり、これも可能性
として大いにあり。
なぜならば、備後鍛冶集団は、古代山陽道
沿いのルートに点在していた事実がある
ことが一つ。もう一つは、芦田川河川沿い
と鞆の浦の水運要衝の地においての鍛刀
が確認されています。河川および海路で
鞆三原鍛冶が糸崎三原鍛冶と繋がっていた
可能性も否定できません。
ただ、地名としては時代的な命名時期の
問題があるため、貝を以て比定すること
は危険です。
4.現尾道市内。
⇒これもまた可能性がかなり高い。
尾道の鍛冶が繁盛するのは戦国最末期
以降ですが、古代より出雲街道ならびに
海路の要衝として栄えた尾道(備後安芸
では最古級のミナト)においては、流通
の概括性からみて、刀工群がいたとして
もおかしくはありません。
しかし、現存刀等が確認されているのは、
すべて戦国末期から江戸期にかけての
作であり、江戸時代の広島藩が呼び出して
出頭させた取り調べにおいても、尾道鍛冶
の末裔で後に鍔工に完全に転じた五阿弥
などは「三代前以前は不明です」と広島
藩の役人の武士に申し述べています。
現在、尾道五阿弥の末裔と称する人が
先祖三原正家は日本刀の祖であり、天平
時代に奈良の都に存在したところ尾道
に下向し、当家はその末裔であり、尾道
の町を肩で風切って歩いていた、と称して
ネットで宣伝していますが、出鱈目も
いいとこです。さらに尾道市内に、日本刀
発祥の地なる石碑まで建ててしまいました。
行政たる尾道市役所は「学術的根拠は無い」
として一蹴しています。私的に勝手に
建てた銅像のようなもので、一切日本の
正しい真実の歴史とは関係がありません。
「私の先祖は卑弥呼である」として、石碑
を私的に勝手に街中に建てるようなもの
であり、観光地尾道にそのように歴史と
人をたばかる物品が堂々と建っているの
は、地元広島県人としてお恥ずかしい
限りで、本当に申し訳ございません。
三原鍛冶の末期になって、刀工銘に「貝」
を切る刀工が散見されるようになります。
これも現在ではどういう意味か分かって
いません。
貝は場所なのか、あるいは「甲斐」の
変字であるのか、または名字なのか
屋号なのか。
ただ、二代目正家は三原沖の因島にて
駐鍛という記録が広島藩にあり、また
現地においても古代鍛冶職と関連性の
あると思われる祭りも残されていた
ようです。(現在は私は未調査で不知)
あくまで想像ですが、古代の「三原」
の地がどこかというのは二つの可能性
があると思料できます。
1.古代みはら=柞原は古代山陽道沿い
のどこかにあった。
2.古代みはらとは、現在の三原から
尾道にかけての広範な尾三地区の
ことを広義に柞原と呼びならわして
いた。
一つだけ確実なことは、現在の三原城
のある三原が古代の「みはら(柞原)」
ではなかった、という事実です。
これは戦国時代最末期までは現在の三原
城近辺は一面海なのですから確定事項
です。
もう一つ可能性があります。
「三原」という呼称は、江戸末期あたり
までは、かなり西部までを「三原在」と
呼んでいた記録が江戸期にある。
これは庄屋屋敷の屋号の位置特定で
判明しているのですが、現在の西野川
上流(古代から地面あった場所)を
三原と呼んでいる。
となると、古代山陽道沿いの小坂(おさか)
や眞良(しんら)の地区も「三原」で
あった可能性もある。
このあたりは律令制で定められた古代
街道の駅家(うまや)があった場所で、
馬の牧草地として平地がかなり広く
広がっている場所です。
そのあたりが「原三原」であった可能性
もある。
そうなると、その地域に残っている
チンコンカンなる奇祭が、実は鍛冶と
密接な関係がある祭りであったという
こととも線で繋がる。
現在行政等はチンコンカンを単なる
五穀豊穣の牛祭りとしてしか説明して
いませんが、なぜ「チンコンカン」と
いう擬音であるのかについては言及
していません。
チンコンカンとは鍛冶仕事の擬音で
しょうね。
そして、その祭りには赤鬼と青鬼が
出てくる。しかも古代産鐵地域でそれ
だ。
もうこれは、産鐵もしくは小鍛冶
たる鍛冶職の集住エリアである地区
に残された祭りであるのが濃厚なの
です。民俗学的な見地からは。
そうなると、実は、大元の「みはら」
なる土地は、その地区であった可能性
もある。戦国武将の小早川の旧城の
ふもと一体のエリアです。古墳時代の
古墳群エリアとも重なる地区。
しかし、人権問題やプライバシーの
問題等もあってか、現在現地での調査は
一切学術的なメスが入れられていない
地区でもあります。
最近、ひょんなことから、その地区
出身育ちの古老と知り合いになり、
古い話を聞かせてもらいました。
同小坂地区近辺には「カナホリ」という
小字のゆるやかな山間部があり、それ
は金属鉱物を求めていくつも露天掘り
した遺跡がある、とのことです。
掘っては移動、掘っては移動を繰りかえ
したのか、無数に線上にあった、との
ことでした。昭和初期の事です。
その当時掘っていたのですか?と訊くと、
当時すでに遺跡だったそうです。
その方は「カネクサ」という草の名前
も、それらが群生していることも知って
いらっしゃいました。
さて、どうでしょう。
「チンコンカン」とは産鐵の大鍛冶
もしくは鉄器刃物を作る小鍛冶の
鍛冶仕事の擬音であること、そのエリア
一体は超古代には赤土製鉄のソブに
満ちた地帯であること、「カナホリ」と
いう字名の遺跡群らしき物がある場所
であること、小早川の城のすぐそばで
ある武器供給に適した場所であること、
等々を重ねて行くと、うっすらと浮かび
あがってくるものがあります。
私は第5の説として、三原鍛冶の祖は
現三原市小坂もしくは眞良であった
可能性がある、というこれまでに無い説
を唱えたい。つまり、古代~中世初期の
場所不明の「みはら=柞原」とは、古代
山陽道駅家(うまや)付近の現在の小坂・
眞良エリアのことであった、と。
もしくは第6の説としては、眞良(しんら)
の一つ手前の駅家(距離的にそこになけ
ればならないのに記録から抹消された
日本史古代史の中での謎とされる駅家
があっただろう場所。現在の三原市
八幡町垣内=かいち。現在のところ、
国内最古の製鉄炉が発見された地区)
のあたりが大元の柞原(みはら)で
あった、と。
三原鍛冶は「古三原」と「末三原」しか
ありません。「中三原」というのは便宜
上呼称することもありますが、中世から
の刀剣学では二つに分けている。
古三原とは鎌倉・南北朝の時代の作の
ことで、末三原とは室町・安土桃山の
時代の作品の事です。なにも戦国最末期
が末物ではないのです。刀剣の世界は。
備前物でも末備前と古備前はありますが、
中備前という呼称は存在しません。
時々、三原物を称して「中三原」と
呼ぶことが見られますが、ならいと
しては適切ではないでしょう。
積層鋼材の包丁やナイフ、まったく刃物と
して意味ないですよ。
また、「ダマスカス」と銘打っているのは
すべて出鱈目のインチキです。
ダマスカス工法はロストテクノロジーで
あり、現代では一切再現されていません。
唯一一番近いのが日本刀の折り返し鍛錬
による鍛え肌ですが、どうやらそれも
ダマスカス工法と鋼材とは異なる。
包丁やナイフの世界では、知らない人が
多いことをいいことに、嘘八百を並べて
ゲテモノを製品化して、あたかも本物の
ダマスカスであったり、日本刀に準じた
工法であるかのような触れ込みをして
売りぬく贋物商法が大手を振っています
ので、十分にご注意ください。
ナイフや包丁などでも「日本刀の技法
による」などとの触れ込みで売られている
量産包丁などはぜんぶインチキ詐欺商品
です。
日本刀と同じ技法で作られた包丁は、
岡山の上田刀工や岐阜の高羽刀工たちが
作る包丁以外にはありません。
また福岡の四郎國光刀工も包丁は作り
ますが、完全に包丁としての作り方で
あり、日本刀と同じく材料を折り返し
鍛錬などしていません。
包丁やナイフの鋼が中心部にあるよう
な鋼材は「利器材」といって、日立や
他の鋼材製作会社が製造する時点で
鋼と地鉄が鍛着剤=フラックスで
貼りつけられて板状に圧延された鋼材
なのです。出来合いの板材なの。
従って、カネ駒の肥後守の「青紙
割込」というのも割込み鍛えなどは
しておらず、最初から日立のメーカー
でプレス接着された鋼材を用いている
だけです。割込みとは鍛冶職が合わせ
鋼を鍛着させた物のことをいいます。
また、積層材を削ると木の模様のような
ものが出てきます。
ナイフのハンドル材のマイカルタなど
はそうですね。
包丁やナイフでそのような積層材に
するのは、削ったにその木目のような
大肌を出すためです。
刃物としての効能は全く一切微塵たり
ともありません。
しかし、あのような刺青肌のような
物が好きな人は買えばよい。
ただし、「日本刀の技法で」とか
「斬鉄剣か」とかは、全部出鱈目の
大嘘の詐欺まがいな広告文句ですので、
決してその気になって騙されないよう
にしてほしいと願います。
無知に付け込んでの悪徳商法です。
あとですね、炭素鋼を中心に据えて、
両側を別素材で挟んだ利器材の包丁
は、そのつなぎ目の部分(カイサキ)
が必ず錆びてきます。フラックスが
悪影響を与えているからです。
研げばサッと錆は落ちますが、使って
いるとまた真っ赤にそこが錆びます。
1万円ないしそれ以上出してそのよう
な包丁なのです。
積層材や中心に鋼挟み込み利器材の
刃物の販売宣伝文句等にはくれぐれも
騙されないでください。
モリブデンバナジウムの牛刀あたりの
ほうが遙かにドンと高度な出来です。
積層材と中心部炭素鋼の利器材を使用
した包丁とナイフにはくれぐれも
ご注意ください。
きちんとした張り合わせを鍛冶職が
行なっているのは、伝統和式刃物鍛冶
と日本刀の刀鍛冶のみです。
工場量産刃物でそうした利器材と積層材
を使いながら「伝統の云々」を出している
のは全部100%悪意ある嘘です。
本物の日本刀の地肌。
(南北朝乃至室町時代/所有者・撮影私)
所有者私・撮影町井勲氏)



薩摩焼きにて日本茶を飲む。

単なる湯呑みである。




試し切り。広告を宙に浮かせて包丁を

研ぎ上がりにOKが出たのであさげです。

野菜はかなり食べます。


























