知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~
「ほんと芦毛が好きよねえ」
妻と競馬を観ていると言われる。
芦毛の馬が好きである。
それは、芦毛が私には鋼色に見えるから。
そして、歳と共にだんだん白くなって行く
のも好きだ。
白毛は生まれた時から白いが、芦毛は重ね
た歳と共に色が変わるのが見ていて楽し
い。
私が芦毛を決定的に好きになったのは、
オグリキャップからだ。
本当はヤエノムテキやメジロライアンが
好きだった。というか推していた。
だが、心奪われたのはオグリキャップだ
った。
特に1990年の有馬記念ではまじで泣いた。
オグリはもうだめだとか世間で見捨てられ
つつある中、第35回有馬記念でのオグリ
の不死鳥のような復活は、本当に涙した。
この武豊のウルトラ前傾姿勢の気合いの
入れよう。
もう、前見ていないのではという程の前傾
フォームだ。
オグリキャップこそは、競馬を単なる バクチから「お馬さんの競争」として
日本国内に知らしめた歴史的な馬だ。
それはシンザンでもハイセイコーでも
ない。
オグリキャップと武豊こそが、日本人の
多くの人たちに「競馬」を広めた功労者
だった。街の若い女の子でさえオグリ
キャップと武豊の名前を知るようになっ
た。あと、二代目貴乃花(笑)。若貴が
大相撲を観る女性を日本で生み出した。
オグリキャップは、多くの人たちが一生
心の中から消えない史上最高の「記憶に
残る馬」で間違いないと思う。
涙無くしては語れないテンポイントの悲劇
のような事にはならなくて良かったと、私
は思っている。
「汚れた英雄」北野晶夫のような走りを 見せる1990年度最終戦第35回有馬記念
でのオグリキャップ。
慎重に行かないと基礎疾患ある高齢者
とかワクチン接種で結構死亡している
からなあ。
根岸競馬場跡地。現根岸森林公園。
かつて横浜競馬場と呼ばれた。
幕末の1866年に外国人向け遊興地として
根岸競馬場が開かれた。
一周2400mの本格的コースだ。江戸時代の1866年から1942年に戦争に より閉鎖されるまで競馬場として機能し
た。一等馬見所の建造物が威風を示す。
戦後は米軍に接収され、何度も返還交渉 をしてようやく日本に戻った。
そして、一等馬見所の建造物は政府指定 の遺跡となったが、一切修復工事はされ
ず、野ざらしの手付かずのまま廃虚のよう
に朽ち果てて行っている。
日本政府はこの貴重な遺産をパルテノン
神殿のようにしようと思っているのだろ
うか。
横浜住まいの時はちょくちょく行ってた
が、最後に競馬場跡地に行ったのは2005
年だった。弁当持って行ってみんべと行っ
てホゲホゲとただ飯食って寝っ転がって
た。
ちょい乗りバイク外出場所としてもおすす
め。山手の高台にある。
あの山手の高台は、路地裏に亘るまで私
は全て走った。全網羅。横浜らしい地形と
雰囲気で面白いエリアだ。
横浜いこいのスポット。ここはおすすめ。
似たように廃止された競馬場に、私の生
まれた場所のほんのそばに「目黒競馬場」
があった。
こちらは1907年に開始され、1933年まで
存続した競馬場だ。
一周1600mのマイルコース。
何といっても、1932年4月24日に第一回日本ダービーが開催された事が歴史的だ。
ここの跡地はもう学生時代から社会人に
なってからも嫌という程通った。目黒通り
ぞいだからだ。やたらめったら通った。
最後に通ったのは2018年だが、馴染みの
の東急バスはここを通る。
かつては碑文谷に碑文谷デニーズがあって
よく行ったが、いつの間にか無くなってし
まった。
目黒通りの環七付近は、その頃は中央分離
ガードレールが設置されていなかった。
目の前で起きた女の子のバイク乗りの即死
事故以降、分離ガードレールが設置され
た。急にUターンした同一車線の車に激突
して、死んでしまった悲惨な事故だった。
一緒にいたバイク乗りの弁護士と目の前
で目撃した。救急車をすぐ目の前のヒモ
デニからうちらが呼んだが、残念ながら
女性は亡くなった。
クリーム塗ってスポンジこすりしたら、
それなりに光ってきた。
マックで復活だって(笑)。
しょうがねえなあ、とか思ったら、
しょうがあるだった。
しょうが焼き( ・∇・)
粉末鋼は良いという。
しかし、使う上でどれが粉末鋼かどうか
は、私には判断できない。
実際には使ってみて、高硬度であること
は判別はつくが、鋼種からくる違いは粉末
鋼の場合、よく分からない。
具体的にいうならば、ATSとの差異は私は
知覚できない。