渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

昭和残像

2024年10月10日 | open

30代にもなって結婚できなか
った結果、気づけばイタイ女
になってました。


全然イタくないよ。
ある動画で徳井さんが「絶対
同世代や。おっさんやん」と
アッキーの事を言っていたけ
どさ(笑
(うちのMC全国メンバーは
ほぼ全員が
アッキー動画を観
ている)


フライパンでラーメンは私は
経験はないが、鍋からそのま
まラーメンは学生時代にはご
く普通だった。
1970年代末期
~1980年代前半
の学生時代。
私だけでなく野郎どもはみん
そんな感じだった。
炊飯器からそのままご飯とか。
昭和時代の学生はうちらの周
囲は男はみんなそんな感じだ
った。
だが、隣りの部屋の慶應義塾
FX乗りの奴は違った。
お上品でびっくらこいたよ(笑
慶應のキャンパスに一緒に
遊びに行っても、皆さまなぜ
かお上品。どこかの中退者大
量排出の大衆大学とはかなり
違っていて驚いた(笑

ただ、ラーメン作って鍋から
そのままとかはごく普通。
電子ジャーなんて持ってなか
ったから(そもそも電子炊飯
ジャーなんてあったのか?)、
炊飯器のままのご飯も普通。
大学生の昭和残像はそんな
感じだった。
部屋に風呂がある学生なども
医学部とかの学生くらいなも
のだったのでは。
そもそも、四輪車なんて殆ど
大学生あたりは持ってなかっ
たしよ~。下宿組の学生など
は。
バイク持ってるだけマシとい
うような感じだった。
というか、バイクはかなり実
は安かった。学生でも節約す
れば新車のバイクが買えた程。
今のオートバイの金額が異様
なんだよなぁ。ほんとのとこ
ろは。中古車なんて異常すぎ
る。
つい何年か前までNSR250Rは
中古で10万円程だったし、高
いのでも20~30万円台だった。
ゼファーなんて5万でいいから
持って行く?みたいな感じだ
ったのにさ。いや、ほんと。

令和時代ながら、アッキーさ
んにはアッキーさん
独特の魅
力がある。
フライパンから直にラーメンと

かなどは関係ない。子どもでき
たら真似するとあれだけどさ。
鍋から直ラーメンなんてのは
キャンプで
はごく普通でしょ?
それ考えたら、家でも一人暮ら
しならなんてこたないさ。
そのうち良縁もある事だろう。
ヲタクなだけで、人間性はとて
も良さ
そうな人だし。
「一目会ったその日から」(古)
みたいな感じのがそのうちある
さ。
おいら感動したのは、父上の

農作業手伝いに帰省してガン
ガンやってたのを見た時だな。
これはこの人、いい感じ、と
思ったもの。
あと、被災地支援の活動とか。

お父様も娘思いのいい感じの
人だしさ。
かけがえのない「幸せな今」

があると思う。







沖縄

2024年10月10日 | open



飲み屋に勤めるR-1乗りは
沖縄に旅行に行ってるらし
い。
あいにくの天気が続いたそ
うだ。
私が行った時は正月だった
ので天気は最高だった。

これらの画像は私が行った
のものの一部。
本州では見られない絶景を
能した。
車を借りて走ったが、ほんと
ならレンタルバイクで走りた
かった。
家族旅行なので、それはでき
なかったが、いつかは沖縄を
バイクで走りたい。










沖縄、最高。





雑誌『歴史人』 〜保存版特集 日本の古代史 空白の4世紀〜

2024年10月10日 | open



今月号、めちゃくちゃ面白い。
書店だけでなくコンビニでも
売ってます。



 

表現技法

2024年10月10日 | open


コルトSAA初期型実銃。
1883年製。


海外でレプリカガンと呼ばれ
るリアルなトイガンを世界で
初めて発明して作ったのは日
本人だ。
その模型玩具銃は「モデルガ
ン」という固有名称が付けら
れた。一切実弾の発射機能は
持たない。
しかし、不法改造をする者が
多発したため、日本国は1971
年10月に銃刀法を改正し、金
属製モデルガン(当時は金属
製しか存在しなかった)は黄
色もしくは白色に塗装し、発
火の際にガスが銃口から抜け
るのを禁じて銃口を閉鎖させ
た。
これにより、一時期日本の
映像作品では銃使用のシーン
で困難を極めた時期があった。

だが、モノヅクリの人たちは
知恵を絞った。
黒いモデルガンが「金属性」
であるのが法で禁じられたな
らば、金属フレームにプラス
ティックの衣を被せる方式で
「黒い銃」を再現させる事を
発明した。
(ライフルや小銃等の長物は
現在までも金属製の黒色仕様
でも合法)
プラスティックモデルガンの
黎明期においてはプラ素材そ
のものの開発がまだ未発達で、
よく割れるプラしか存在しな
かったが、その後素材メーカ
ーとの提携で開発も進み、粘
りのある強靭なプラが玩具銃
にも採用されるようになって
きた。
それが1970年代末期~1980年
代初頭だ。

さらに時代が進み、玩具銃は
発火させるだけのアクション
モデルから、プラ製弾頭を飛
ばす「エアソフトガン」が
登場し、モデルガン人気と逆
転した。
これが1985年以降だ。
作動性を確保するために、さ
らにプラ素材は進化して頑丈
さを備えるようになった。
初期において金属を骨として
いたテンプラとかモナカと
呼ばれていた構造も徐々に
消滅し、プラ素材単体で作動
に耐えるような質の向上が
みられるようになった。

そして、あまりにもオモチャ
然としたプラ素材の表面の色
を実銃然とさせるプラ素材も
1980年代に登場した。
それが金属粉をプラと混ぜて
化学変化のガンブルー処理が
できる「ヘヴィウエイト素材」
だった。
ただし、粘りあるプラよりは
耐久性が低い。
しかし、ブルーイングできる
素材というのは、1971年に
禁止された金属性の黒いモデ
ルガン以来の事で、トイガン
ファンたちは大喜びした。

こうなると、「実銃まがいだ
から色は白色か黄色にする」
という趣旨の71年法改正は
ザルになってしまう。
しかし、幸いにプラ製のハン
ドガンの表面処理については
法改正の規制は設定されない
まま現在まで継続している。
今では実銃以上に実銃ぽい
表面処理もトイガンでは可能
となっている。

ところが、だ。
ここからは私的意見なのだが、
プラ製トイガンのブルーイン
グの表面処理をする人は、私
も含めてだが、あまりにも綺
麗に処理しすぎるきらいがあ
る。これは全般的に。
まるで新品ピカピカの状態に
仕上げてしまうのだ。
そんな銃、実銃の世界では
使用者は誰も持っていない
よ、みたいな仕上げで。
そうした傾向が続いた中、エ
イジングという観点からブル
ー処理を施す上級者も現れた。
しかし、よ~く観察すると、
それは「エイジング加工され
た物」というのがどうしても
現出してしまっているのだ。

私のプラ素材SAAのブルーイ
ング。実用銃的なパティー

感は出したつもりだが、ま

まだ全然甘い。



例えば、西部開拓時代に本当
に実用に供された本物の銃は
こんな感じなのだ。(実銃)

つるつるピカピカの銃などは
大西部で誰も使ってはいない。
そうした実情を正確に表現し
ている古いハリウッド映画も
あった。題名は失念したが、
西部の若いカウボーイが銃の
遣い手のガンマンと牧場で射
撃の腕
を見せ合うシーンで、
若い
カウボーイがガンスリン
ガー
の銃を見せてもらう。
その時、「これすげえな!」
と言って目を輝かせるのだ。
その銃はまるでウインドケー
スの中に展示されているよう
な極上に美しいブルーイング
されたままの状態のSAAだっ
た。
そうした銃を使っている人な
どは現実にはほぼいないのだ。
つまり、新品ホヤホヤの完品
状態のSAAを腰にしていた、
という映像表現描写だった。
納車したての高級新車みたい

な感じで。

トイガンのエイジング加工は
非常に難しい。
「やれた感じ」を違和感なく
出すのは、映像作品の表現者
たちでさえ、一部の製作者以
外ではやっていない。
邦画などでは使われるプロッ
プステージガンは全部が全部、
新品状態の銃が使われている(笑
これは海外映画やドラマでも
そうで、エイジングをきっち
り表現しているのは戦争映画
位のものだ。
日本の映画監督の黒澤明は早
くからこの
映像的な表現齟齬
を何とかし
ようとしていた人
だっ
た。
そのため、モノクロフィルム
作品においては、血などは
墨汁を使ってどす黒くリアル
に描く
事を実行し、さらに登
場する
物品にもエイジングと
いう手
法を国際的に映画の世
界で初
めて誕生させた。
クロサワが採用した大発明は
マルチカムという世界革命を
起こした撮影法だけでなく、
日本語で「時代付け」と呼ば
れた物の経年変化をあえて加
工で再現、表現した技法を
前面に出した事もクロサワ発
明の一つだった。


だが、黒澤明が世界の映画人
に大影響を及ぼして、その後
の映画製作の主流となった
「エイジング」は、実は日本
の日本刀文化の中に数百年も
存在していたのである。
それは主として金工作品に
おいて採用される伝統工芸
の技法で、それはまさに「時
代付け」
と呼ばれている。
新作の鍔なども、単に色揚げ
と呼ばれる表面処理をするだ
けでなく、あたかも何百年も
経年変化したような風合いを
金工技術を駆使した加工によ
って表現
する、という日本独
自の芸術
文化の歴史があるの
である。

クロサワはその日本固有の文
化を映像作品の中に投入した
のだった。

トイガンもただ綺麗にブルー
イングしただけでは、それは
実は現実味からどんどん乖離
していくのだ。
そのような新品銃は開封した
直後しか存在しないから。
そのあたり、日本のトイガン
ブルーイ
ング加工施工者は、
まだまだ研究
勉強する余地が
あると私は思
う。
邦画映画やドラマで全員全部
が新品銃を使用、というのが
安直な非現実的表現であるの
と同じく、趣味の世界でも
モノヅクリをする場合には、
もっと深みがほしいところ。
クロサワの深い考えの一端
のようなものが。



ピースメーカー

2024年10月10日 | open




もし1880年代のアメリカ西部
に自分がいたとしたら、私も
確実にピースメーカーを保持
していただろう。
私の20代は1980年代だが、そ

の丁度100年前にアメリカにい
たとしたら。






黒色火薬の初期型SAAを持っ
ていた事だろう。


1872年に完成したコルトの
ソリッドフレームを持つ金
属薬莢用の銃は著しく革新
的な銃だった。
S&W社が押さえてていた金
属薬莢用銃器のパテントが
ようやく切れるので、コルト
社が巻き返しを狙って完成
させた歴史的な名銃がコルト
シングルアクションCal.45
だ。(Calはキャリバー=口
径。インチサイズで表され
る。これは銃身の口径であ
り、弾頭の径ではない)
コルト社の新式拳銃は米軍
制式銃トライアルに参加し、
1873年に軍用制式銃に採用
されてコルト・シングル・
アクション・アーミーと命
名された。
一般民間向けの発売は1875
年から。
その圧倒的作動性の信頼の
高さから、ウィンチェスター
M73と並んで「西部を征服
した銃」とも呼ばれるよう
になったのは日本人も知る
有名な話だ。
特に、最大パワーの.45口径
だけでなく、ウィンチェス
ター連発式ライフルと弾薬
が共通の.44-40口径のタイプ
は西部においてフロンティア
シックスシューターと別名
で呼称されて多用された。
アメリカ人がやたらと「45」
という数字が好きなのは、
長らく最大最強威力の弾薬
だったこのコルトSAAの.45
口径に由来するものだ。
ギターのマーティン社など
も最高上位機種に45という
名称を付けたも、それはア
メリカ文化を代弁したもの
だったからだ。
しかし、西部開拓時代の実際
では、コルトのフラッグシッ
プモデルである.45口径より
も.44-40(.44口径で40グレイ
ンの発射薬の弾薬。フォーテ
ィーフォーフォーティーと
呼ばれる)が一番普及率が
高かった。
やはり、ライフルと弾が共用
できるのが大きかったのだろ
う。
ところが、もう一つの事実
として、西部開拓時代には
拳銃は非常に安かったのだ
が、開拓農民や市民たちは
古くからの金属薬莢式では
ないパーカッション拳銃や、
金属薬莢式に改造されたパ
ーカッションのコルトの銃
(コンバージョンモデル)
などを1880年代に入っても
まだ多く使用していた事実
がある。主として.38口径あ
たりだ。
1881年のOKコラールの決闘
で有名なドク・ホリデイも
コンバージョンモデルの銃を
愛用していたという説もある。
(遺品から)
映画『クイック・アンド・デ
ッド』(1995)の中で、若き
レオナルド・ディカプリオ
の銃砲店にて最新型の銃を
見せるシーンがある。
その時、多くの高額な銃を
払いのけて町の悪徳保安官
(ジーン・ハックマン)が
牧師(ラッセル・クロウ)
に与えるのに旧式のパーカッ
ションのコンバージョンモデ
ルを与える場面で「5ドル」
という値を銃砲店店主のディ
カプリオがつける。1980年
代の事だ。
この映画作品に出て来る銃
器はかなりリアルにえがか
れている。それはガンアド
バイザーが長年早撃ち全米
チャンピオンだった天才マ
ーク・リードが監修してい
るからだ。
ただ、良品ピースメーカー
が100ドル超えというのは
いささか法外だ。当時の1
ドルは現在の約6000円~
1万円。100ドルは80万円程
になってしまう。80万円の
拳銃などがあっただろうか。
また、かなり普及していた
古式のパーカッション改造
金属弾薬銃が5ドルという
のは、実はピースメーカー
の実勢価格の半額以下だが
「激安価格」という事には
ならないのではなかろうか。

かつての開拓時代のコルト・
ピースメーカーの金額はいく
らか。

私の手元にある資料を見てみ
よう。



(リーダースダイジェスト 
「ザ・ヒストリー・オブ・ア
メリカ」/1973年)

英語の勉強のために父が買っ
てくれた分厚い英語の百科事
典のような書籍。
1973年までのアメリカの歴史
が具に記された大量写真掲載
の書だ。中1で英語学習が始
まるので学習教材として父が
買い与えてくれたが、読めな

いながらも辞書と首っ引きで
読もうと努力した記憶がある。
コルトSAAが1871とあるのは
誤記で、これは1873が正であ
ろう。

これによると、SAAは1880年
代に12ドル20セントだった。

西部開拓時代末期当時のコル
ト社のカタログを見ると、
.45ロングコルト弾薬は1000
発で
19ドル45セント、1発で
2セントである。現代(2010頃)
は50発で25ドル程。1発
50セ
ント。1ドル100円計算で現代
価格.45ロングコルトが1発50
円相当になる。


当時の物価相場を見てみる。
・最高のカウボウーイの給与
 →月に25ドル~30ドル(宿
 泊費込み)。

・高級良質サドル→200ドル。
・良質のカウボーイスタイル
 のサドル→60ドル。

・一般サドル→40ドル。
・カウボーイスタイルのブーツ
 →15~23ドル。

・帽子→5ドル。
・葉巻→5~10セント。
・上質のウイスキー
 →サルーンで1杯50セント。


.45ロングコルト弾の価格は
1880年前後当時で1発2セン
トだった。

現在(2010年頃)は50発で
25ドルだから1発50セント。

この弾丸の価格を基準とする
と現代は当時に比べて貨幣価
値が
25倍下がり物価が25倍上
昇ということになる。

コルトSAAで見ると、当時は
12ドル20セントだったSAAが
現代の
コルト社の販売価格で
は1,799ドルだ。
実に西部開拓時代当時からす
ると174.45倍になっている。
弾丸は25倍なのに銃は174倍
以上に
値上がりしている。
物価の時代ごとの相場を見る
場合、何か
一つだけを基準に
すると見誤るということの典
型例になる。
例えば
日本の江戸期も貨幣価
値が時代と共に下がり物価が
著しく上昇
したが、米相場も
暴騰しているので、米価基準
のみで現代との相場
を比較す
るのは危険だ。
1両にしても、江戸期の時期
により現代価格
で12万円~
3万円相当という差が出てく
る。幕末などは1両は約3万円
程の実勢貨幣価値だ。
金の価値がどんどん下がる。
それは貨幣経済がインフレ
によって動くから物価が上昇
し、それによって貨幣の価値
がどんどん下がっていくのだ。

とにかく、コルトSAAを見る
限り、他の物品の現代相場と
比較しても西部開拓時代には
かなり入手しやすい価格だっ
たのではと思われる。
サルーンでウイスキーが50
セント。かなり高い。現在
だと約80セントほどだ。ほ
んのわずかしか価格は上昇
していない。
カウボーイの給与が一ヶ月
で25ドル(上級職)、中級
職だと15ドル程。
日割りにしたら1日の給与が
50セント。ウイスキー1杯は
日の稼ぎと大体同じ金額とい
うことになる。
カウボーイはかなりの低賃金
労働であったのは確かだが、
ウイスキーが高すぎる。
相対的に総合的に考えると、
西部開拓時代の1ドルという
のは大体現在の日本円で凡そ
5,000円~8,000円相当なので
はなかろうか。
あるいは物によっては当時の
1ドルは現在の100ドル程かも
しれない。
弾丸の価格は現代工業化によ
る量産化で格別に安くなった
のだろう。
となると、1ドル銀貨があっ
たのだから、荒野の1万円銀
貨があったことになる。

さて、当時の1ドルを現代の
5,000円としてみよう。
すると、コルトSAAの12ドル
20セントは現在日本円で6万
1,000円となる(1ドル100円
の円高時代の計算
)。大体
そのあたりの価格帯ではな
かったろうか。
上掲の図史料を見て気付く
のが、馬が35ドルであるの
に鞍が40ドルであることだ。
当時の1ドルが現代日本円の
5,000円計算とすると、換算
で175,000円。
1ドル1万円計算でも35万円
で馬は買えない。それは犬
の値段だ。
単品種目のみでのレート換
算は誤りを呼ぶ。

ウイスキーの1杯をショット
と呼ぶのは、カウボーイの
銃の弾丸の金額から来てい
るといわれている。
だが、1発=ワンショットの
弾丸が当時は2セント。ウイ
スキー1杯が当時は50セント
だから、ウイスキー1杯は弾
丸25発分になってしまう。
計算が合わない。
ここらあたりの言われのカラ
クリを私はよく知らない。
ただ、各種史料の総合比較か
らして、西部開拓時代は以下
の事が言える。
・銃は今よりもずっと格安
 だった。
・馬は今とは比較にならない
 程に安かった。
・鞍は馬より高かった。
 (よく西部劇でも馬が死に
 鞍だけ担ぐシーンがある)
・ウイスキーは超高額だった。
・カウボーイの給与の額は格
 別に低かった。

明治時代の日本の奉公人の
給与などは雀の涙だった。
同時代の西部開拓時代のカ
ウボーイの賃金も極度の低
賃金だったのではなかろう
か。
今も米国に残るニュアンス
で、「カウボーイ」という
と猪突猛進の男やいきり立
ったのぼせ上りや跳ねあが
りを指し、イナカモンを馬
鹿にするときにも使われた
りする。あまり良いケース
で人を「カウボーイ」と呼
ぶ時には使われない。
西部劇においても、カウボ
ーイは「歓迎される者」も
のとして描かれることはま
れで、町の者たちはカウボ
ーイを「異なる者」「よそ
者」「流れ者」と見なして
煙たがる様子がよく描かれ
ている。
これはカウボーイがキャト
ルドライブという牛追いを
して旅をする職業だからだ
ろう。
それを考えると、カウボー
イという男たちは、流れ者
(キャトルドライブ=牛追
いの数千キロに亘る販売の
為の移動による各地の長旅)
たちの浮浪性を忌避したが
る都市定住者から疎まれる
ような存在だったのかもし
れない。
OKコラールの決闘でワイア
ット・アープたちと銃撃戦
を繰り広げたアイク・クラ
ントンの一味はカウボーイ
ズと呼ばれた。
彼らは列車強盗も繰り広げ
た今でいうマフィアのよう
な存在だったが、OK牧場
は大統領までも巻き込む全
米の旧北軍派と南部の州の
対立を再び生む程の大事件
のきっかけとなった。
カウボーイズは悪人の代表
名詞ともなっていた。
だとすると、都市生活者の
ほうが開明的ではなく閉鎖
的な田舎者感覚の持ち主の
ような気もするが、これは
駅馬車を請け負うウエスト・
ファーゴ社という資本がOK
コラールでの紛争とその後
のアープ派とクラントン派
の殺し合いの顛末に介入し
たゆえのフレームアップと
いう面も大いにある。
とかくOK牧場(牧場ではな
く牛取引の一時置き場)の
決闘はワイアットとアイク
の対立銃撃戦とだけ見られ
がちだが、実はかなりの全
米を揺るがす大事件のきっ
かけとなった出来事だった
のだ。アイク・クラントン
側にも支持者が多かったの
だが、クラントンは米軍が
介入した(パットン将軍)
ら腹いせに街に放火して
一つの街を壊滅させている。
ワイアット側は銃撃を受け、
兄バージルは歩けない体に
され、弟モーガンはビリヤ
ードプレー中に銃殺された。
ワイアットはドク・ホリデ
ーと共に復讐の旅に出るが、
クラントン一味を殺害し続
けたために殺人犯のお尋ね
者になってしまう。
最終的には大統領命令で米
軍が出動してアリゾナの無
法状態を終息させるに至り、
ワイアットとアイクの決着
は遂につかず仕舞だった。
ワイアット・アープは南部
において汚名を着せられた。
犯罪者であったアイク・ク
ラントンが地場勢力を政治
的に利用して有利な「世論」
を作っていたからだ。
ワイアットは法を逸脱して
までも復讐の鬼となってア
イク一味を追ったが、最終
的な決着はつけられなかっ
た。
だが、このOKコラールの決
闘に至る両者の対立は、南
北戦争の戦後混乱の延長線
上にあったもので、戦争の
20年後に北部資本と南部の
酪農勢力の対立として再浮
上した全米の大問題だった
のだ。

さて、現代にも繋がる無煙
火薬のコルトSAAが登場した
のは1896年以降である。
なので、殆どの西部劇で無
煙火薬仕様のピースメーカー
を使用しているのは非現実
的な表現だといえる。
リアルな映画作品では初期
型のコルトシングルアクシ
ョンが使われている事もあ
るが、多くは黒色火薬仕様
ではなく1896年以降の無縁
火薬方式のSAAが映像作品
では使われている。
コルトSAAは無煙火薬方式
になってから、フレームに
革命的な改良が施された。
シリンダーを強固に確実に
固定し、かつ、ワンタッチ
でシリンダーを脱着できる
ような方式に改めた。


これは、さりげないようで
革命的な大発明だった。
発明とはどれもが得てして
こうしたもので、「なぜ今
までこの方法を思いつかな
かったのか」というような
ケースが多い。
フォールディングナイフの
ライナーロックなどもそう
した一例だろう。