われこそは初代新潟奉行、川村
・・・ケ
いや、それはない(笑)。
「川村修就でR!(カワムラナガタカであ~る。)」
新潟の初代奉行が川村さんということで、新潟がもっと身近に感じられるようになりました。
とここまで書いてよもやの時間切れ(笑)。
うむ。やむおえぬ。
アーップ。
あ、追記は書きましたよー。よろしかったらー。
---で、と。
まぁ、これを読んだところで、どのくらい凄い人だったのかは、僕にもよくわからないわけです(笑)。
なので、こちらで僕がこう書きましょう。
実は、川村さんは、・・・幕府の隠密(まあ、語弊を恐れずわかりやすく言ってみれば、スパイ)で、しかも忍者だったのであーる。
・・・いや、ちょっと盛りました。すみません(笑)。
でもね、「お庭番」っていうのは、幕府(江戸時代ですからね。要するに、今で言う政府ね)の役職の一つで、その身分を隠して実際に町を歩き回って色々と市民の生活の実情を調べたりして、途中の人間をびゅーんと飛ばして将軍と直々に会って(←これ、身分制度のはっきりしていた当時では凄いこと)その内容を逐一報告して、将軍はその「生の情報」を頼りに政治を進めたりしていた、というね、現代でいう「監査官(←「マルサ」とか「Gメン」とかね)」みたいな、役職だったわけです。
でも、そんな調べ上手なお庭番は、実は身分が低いのです。そう簡単には出世はできないんですね。なんたって、時代劇では本当にスパイや忍者として描かれたりするくらい、いわば、影の人。裏から、こっそりと国の役に立つ人達、だったわけなんです。
でも、こちら川村さんは、そんな身分でありながら、その才能を高く買われて、なんと、当時は地方のいち港町だった新潟を、しかもなんと「お奉行さま」として任されてしまった、(超が100個付く位の、大抜擢中の大抜擢)すごーい人だったわけです。
着任すると、当時砂嵐が酷くて困りに困っていた新潟に、松をなんと3万本も植えて、その砂嵐から町を守って、現在の北陸の一大都市、新潟の基礎を作り上げたという、立志伝中の人なのであ~りまする。
松、松、松。であ~ります。海風で傾いておりますが、そこがまた、いい。
当時の新潟は「松と男は育たない」・・・なんて言われていたらしく、彼は「じゃあ松を植えて、・・・新潟の男も立たせてやろうじゃないか!」というね、なんとも男らしい発想の持ち主だったんですね。
その手腕を幕府に高く評価された川村さん、その後も、境、大阪、長崎と奉行を歴任して町を作っていったという、「お庭番」という役職から出発した中では、歴史上最も出世した人物なのであ~りまする。やればできる。なせばなる、っつーわけですね。盛り上がりますね。いい話ですね。
さて、ではそのお顔を、拝見いたしましょう。
松の中に、海を向いてりりしく立っておられます。では、もっと寄ってみましょう。
立派なご様子です。手にしたノートには、お庭番として集めた、貴重な庶民の声が書いてあったのでしょうか。
うむ。りりしい。いいなー、ちょんまげ(←そこか(笑))。
いやはや、凄い方。もちろん、想像も出来ないほど、色々と大変だったんでしょうけれどもね。同じ苗字でも、・・・僕なんかじゃとてもじゃないけど(笑)。
しかしなんか、結構川村さんの写真撮ったなぁ。やっぱり思わずとも親近感が出ちゃうものなんですかね(笑)。「じゃ、今度はこちらからいきますよ、川村さん」ってね。「チーズ」と何度言っても、笑ってはくれませんでしたが(笑)。
熱く川村さんを語りましたが、これで終わると単なる「川村さん祭り」で終わっちゃうので(笑)、あとひとつだけ。・・・観光案内みたいね(笑)。
町はずれの住宅街にひっそりと、「地獄極楽小路」なる小路があります。
向って左が、当時新潟で2本指に入ったという、超高級料亭の「行形亭(いきなりや)」そして、左が、刑務所だったという、まさに地獄と極楽を分けた小路だった、というわけです。現在は刑務所はありませんが(レンガの門は小さくなっているけど、残っています)、料亭は現在も営業されております。
小路は短くてすぐに終わってしまうんですけれど、・・・料亭から流れる三味線や小唄、宴席の笑い声が、刑務所の中にまで届く夜もあったのかなぁ。当時の料亭ですからね、おそらく艶っぽい場所だったんだろうしなぁ。なんだか痛々しいというか、切ない話だなぁ・・・なんて佇んで当時の様子を偲ぶのもまた一興。しかし、料亭と刑務所が隣同士だなんて、どっちが先に出来たのでしょうかね。
入るなら、僕もやっぱり、料亭の方がいいなぁ。
まぁでも料亭に入る機会なんてこの先も無さそうですけど、せめて決して右側にお世話になることのないように、ほどほどに清く正しく生きるとしましょう。
いやーしかし、興味深いところが、どの町にも沢山ありますね。散歩は、本当に楽しいです。
ではー。