3月30日に「打てない攻めは攻めでは無い」と書いた。
ちょっと補足しておきます。
ずいぶんと昔から「打って勝つな、勝って打て」と聞くことが多かったが、
長い間、さっぱり何のことかわからず、ともかく相手が動いた瞬間に打ちに出て、
たまたま当たったのが有効打突だった・・・という剣風だった。
養正会の師範であった古谷福之助は、指導の中で、二人一組に並ばせ、
「ハイ、攻め!」と号令をかけて剣先の攻め合いを練習させることがあった。
お互い、分からない者同士なので、剣先を表から押さえたり裏から回したり、
少し前に出たり下がったり、力まかせに中心を取るようなことをしていた。
意味も無く、中途半端な間合いに入って、
竹刀の表と裏を、下から往復するような変なクセがついたのもこの頃である。
六段審査前のある日、古巣の奈良尚武館に出稽古に行った。
審査前の立ち合い稽古があり、指導は天野秀治先生だった。
立ち上がってすぐ間合いに入り、相手の竹刀と交わると、
竹刀の先を、表と裏を下をくぐらせ行ったり来たりさせていたら、
「粕井さん、それ何してんのん?」と言われて赤面したのを憶えている。
意味の無い(目的の無い)竹刀操作は無意味であると言われたのだ。
最近は少しは「攻め」なるものがわかってきた。
わかってきたから自分自身に「攻め」が足りないのが良くわかる。
剣道は千差万別なので、攻めの無い人でも強い人はいる。
待ち剣で、相手の打ちを捌いて返す剣風である。
近間の攻防に強く、相手が攻めあぐねたら反撃に出るタイプである。
返せないがひたすら防御に徹する「負けない剣風」の人もいる。
実は私もこのような剣風に近かった。
六段キラー、七段キラーと自負して悦に言ってた頃である。
「なぜ六段に受からないのだろう」と悩んでいた。
今から思えば姿勢も構えも悪かったのだが、
何よりも「攻めの無い剣道」だったからだと思うのだ。
攻めの無い剣道は、審査員から見ても評価の低い剣道だったのだろう。
いまはある程度の「攻め」が出来るようになった。
しかしそれは「偽の攻め」である。本物とは言えない。
圧倒的な面打ちが出来ないので本物とは言いがたい。
誰にでも通用する強い攻めはどうしたら持てるのか。
それは「相手の構えを割って打つ面打ち」しかないのではないか。
「相手の構えを割って打つ面打ち」が出来てこそ強い攻めが身につく。
攻めが出来ると返し技も使えるようになる。
結局は、すべての基本は「面打ち」にあると言って過言では無い。
「攻められている」と感じている時は「打たれるかも知れない」と思う時。
打とうとして「返されるかも知れない」と思うのは迷っている時。
打とうとして「当たらないかも知れない」と思うのは間合いが遠い時。
攻められると感じる前に、
自分から(自分の打てる)間合いに入って迷わず面を打つ。
なかなか言うほど簡単では無いのだが、改めてここから出直したいと思う。