稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

No.50(昭和62年1月26日)

2019年04月08日 | 長井長正範士の遺文


すべて武道要諦というものは、
自分の智慧に自分が欺かれないようになることだと思う。
自己の波長と宇宙の波長とがぴったり合って、
天地と隙間のない人間になりきった所が武道の極地です。
人が何んと言おうが、何んと思おうが、本当に自分を掴んで、
本当の自分だけは見失なはない。そして眞の自己に親しんでいる。
こういう人になれるよう、われわれは修錬をせねばならない。
(※この例の面白い話を№30に貧乏村の和尚として書いてある。)

「如実知自心(実のごとく自心を知るなり)」武道の奥義もここにある。
雲弘流の目録を見ても、そういう意味が一ぱい書いてある。
「負ける事なし、勝つことなし」とあるのもそれです。
「是非と言わず己れを全うして外を願わず」とあるのもそれです。

雲弘流は人間修養の立場から見て実に痛快と思う。
自分で自分に明徹しなければいかぬ。
自己という話なら現代人は得意である。
何かにつけて自己をふり廻したがる。
然し、その所謂自己はどうも本物の自己ではない。
他人が評価した自己であったり、月給の多寡や地位の高底等で、
評価の出来るような自己だと考えている者が多い。

川柳に“先生が、月給順に並びけり”月給で価値が定まるような自己が何んだ。
顔でも洗ってくるがいい。「一合とっても武士じゃ」という科白がある。
これは面白い。この意気である。この意気地あるところ、日本精神がある。
「一合とっても武士じゃ」これほど痛快な言葉はない。
大勲位菊花大綬章をぶら下げておらなければならないことはない。
勲一等、功一級でなければならぬことはない。
何んでも本当の自己を掴んでいるならば立派な人間である。
そこを「天上天下唯我独尊」というのである。

この言葉はお釈迦様が俺が一番偉いんだという自負心を表明されたものと思ったら大間違い。
そんな事じゃない。これは天地と一つになった悟りの境地である。
天地と波長の合う人間になって、
山を見ても、川を見ても、鳥とでも、獣とでも一つ気持ちになれて
「鶴の長きを羨やまず、鴨の短かきを嘲らず」
これはお釈迦だけのものでもない。われわれもその境地に居るのである。

月給順に並んで、一円でも多く取って上に座るような事ばかり考えているから、
その境地から離れて了うのである。
禅では月給順に並ばぬ自己の眞価を現わしてゆく、宇宙一杯の事故に親しむのです。
細川候が宮本武蔵に「巌の身」について問うた事がある。
(※余りにも有名な話で皆さんもご承知の事と思いますが、
老師のお話を忠実に書きしたためておきます。)

武蔵は一諾して、寺尾求馬介(細川候の小姓)を御前に呼ばれん事を乞うた。
彼は武蔵の弟子で既に武道の奥義に達していた。
呼ばれて、求馬介は殿様の前に出て、かしこまった。
やがて武蔵は厳かに「君命により切腹を仰せつける。直ちに用意を致せ」と言った。
求馬介は「ハハッ」と畏まり、静かに別室に下った。
その態度は神色自若、少しの乱るる所もなかった。
これを見送って武蔵は「只今の求馬介の態度こそ正しく巌の身でござる」と言った。
求馬介は勿論非常なお褒めにあずかったのである。
腹を切れ、といわれて、顔色一つ変えぬ、何が起ってもビクともせぬ、
この心構え、これであります。これでなくては本来の人間じゃない。
これを唯我独尊ともいうのです。
何事をするにも、命がけでやらねば本当のことは出来ない。

かって早稲田の剣道選手が優勝した時の事です。
勝った早稲田は皆端然として静座しておったという。
負けた方は今や将に泣き出しそうになった時、
相手の早稲田がじっとして静座しているのに気がついて、
それを見て一人坐り、二人坐り、三人坐りして、
負けた者も勝った者も両軍共に端然として静座したということを聞いた。
(以下続く)
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