五武器は「そうか、それなら俺は行くぞ」といって、
武器を受取り悠々と山を越えたということであります。
われわれには死がある。死があるからまた生まれて働けるのだ。
楠木正成も死んで生きている。大石良雄も死んで生きている。
吉田松陰も死んで生きている。ここに負け勝ちの外に武士道がある。
山岡鉄舟は武道の奥義に“行く先に我家ありけり蝸牛、悟らぬも悟るも同じ迷いなり、
迷わぬ先を悟りぞという”とある。勝ちだ、負けだ、悟りだ、迷いだ、そんな事が何か。
迷わん以前、勝ち負け以前のものを掴め、そこに本当の自己がある。
洋々として限りのないものがある。底知れぬ人格がある。肝がある。
それに徹するのには本当の所、坐禅をして貰うより仕方が無いのだ。
要は実の如く本当の自分を知り、
本当の自分を見失はないように修練をするにあるのであります。
武道は敵を方便として前において
假(かり)に負け勝ちを論じ精一杯の力を出して眞の自己の、今の、ここの、
はたらきを鍛錬し創造するものである。
以上が「武道と禅」という題で澤木興道老師が老師が講演された要旨です。
謹んで拝写させて頂きました。
◎№20に書いた親友巽会長の社是の加筆(巽君の社是についての考えは
誠に見事であり我々剣道を志す者心すべきであるので№20の追加文と心得て頂きたい)
商売は商品の品質、価格が最も重要であるが、人間関係も大きなウエイトを占める。
心の結びつきのない商売は、単に物品の受渡し業となって味気ないものである。
一つの商品が完成されるまでには自然の恵みに加え、
多くの人々の汗の結晶がこめられている。
商品の大小にかかわらず、粗末にすることは、自からを粗末にし、
ひいては良い人間関係が結ばれない。
だが現在はそれのみでは利益確保はむずかしい。
変革、激動の時代にふさわしい合理化も必要である。
合理化はもともと一方が利すれば、他はシワ寄せを受けるケースが多い。
合理化の不便さを解消するには、相互理解で、
いくら乗せても重くない真心を通い合わせることである。
物皆に感謝し、人と物との恩恵を受け乍ら、
自分も社会に奉仕することで生き甲斐を感じる。
自分のあり方一つでは商売はさまざまに変化する。
その妙味をゲームと置きかえれば愉快で楽しく励むことができる。
欲で追う利は逃げやすい。寄ってきた利は去らないものである。
人の欲は無限であるけれども、自分の分を知り、感謝して商売を楽しめば、
もろもろの徳も期せずして寄ってくるだろう。
損得にこだわれば不得が生れ、徳にはげめば、
自ら利がついてくるのは理の当然ではなかろうか、というのが、
この社是で巽会長のこうありたい、そうあるべきだとの強い願望でもある。
念のため、もう一度このすばらしい社是を書いておく。
“売る商品に心を乗せて 物皆に感謝し 商売を楽しむ 無欲の欲”
尚、巽君は会長になってから「商売を楽しむ」の商売を人生に置きかえて
「人生を楽しむ」道を進んでゆきたいと言っており、もとより非才の身ながら、
更に知性と教養を積み重ねるべく、ここかしこに「我も良し、会社、社員はもとより、
人もまた良し」の道をさがし求めますと。
そして言う。「今、私が知っていることは子への孝行、会社、
社員への孝行をしたいの一念です」と。
竹馬の友とは言え、巽君は実に私の師であります。(完)