稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

No.53(昭和62年3月25日)

2019年04月24日 | 長井長正範士の遺文


○柳生宗矩兵法家伝書に、

一、おびき出す身とある。
これは身、足、手にて敵の先をおびき出して、敵に先をさせ勝つなり。
われから、さまざまな色を仕かけると、敵の色が表われる。
その色に従って勝つ也と教えてある。一刀流もそう言える。

一、心が一つの事に留まるのは病いである。
病いが心の中にある故、これを離れて心を整えるのである。

○昔の武士訓に心についてこう言っている。

一、心は一身に流行して暫くも止まらざるを要とす、
滞るところを名ずけて、死物という。俗にいう居つくというはこれなり。

一、心は身に従い、身に武具を従わしむべし、武具に身を従わしむること勿れ。

一、先をとるというは、技をもっていうに非ず、
かかるに非ず、待つにも非ず、気位をさして言えり。

一、技をつくして、技を捨つべし、技を放れざれば、芸を得たる人に非ず。

一、勝負は竹を割る如し。元の一節を割れば末まで割れる也。
軍書に破竹の勢いと記せり、然し一節だけ割ったまま止めれば、末まで割れない。
これを留まるといってきらった。瞬目のたるみもあるべからず。

一、柔よく剛を制するの理を辨(わきま)えるべし。
しいて強がらんと思えば、かえって弱きことあり、われ強ければ、彼も亦強し。

一、大極動いて陰陽生じ、陰陽合して万物を生ず、
もろもろの事にこの理なき事あたわず、武術にたとえて言えば、
太刀をひっさげたる所一大極なり。敵とむかいたてる所陰陽なり。
打ち合せたる所、陰陽合したるなり。万物の化生はたがいの心にあるなり。

一、はじめという名あれば、終りという名あり。
はじまるというものを、おこると名ずけてきらうなり。
始終一貫して不変不易なるべし。

一、勝負一にありて二にあらず。
一たびあやまりあれば、再びあらたむることあたわず。
勝負は瞬目の間にあり、手を打って音生ずるに似たり。
若し、それ武具を合せて後、千変万化のはたらきにありといわば、
世にいう人形兵法にて用に足らざるなり。
千変万化は発せざる前の心をさしていう。

一、勝負は石をもって水を打つが如くすべし。
石をもって石を打つが如くすべからず。
石をもって水を打つとは、気の位をもって敵を発して対応するをいう。
かく場をあわせて後勝つことをもとむるは愚にあらさればまどえり。

(以下省略させていただきます)以上、竹刀剣道の理合の資とされ度い。
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