稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

【考察】現代剣道と古流の組太刀稽古について

2019年08月12日 | 剣道・剣術

毎週木曜日は、大阪の四条畷の木曜会で剣道の稽古をしている。
ここでは基本の稽古が中心で地稽古はほとんどしない。
たまに地稽古をしても基本から外れた稽古はご法度である。
「普段の稽古で基本技が使えるようにする」ことが目的だからだ。

基本の稽古と言っても実戦的な基本である。
例えばポピュラーな出小手。
懸かり手から一歩攻め込み、元立ちが反応して本気の面を打つ。
出小手など打たせてなるものか!の渾身の面である。
それを出小手に取る。未熟だと打てない。

そのような真剣味のある基本稽古を続け、自分の道場でそれを実践する。
ところが実践の場では相手はおいそれと面には打ってきてくれない。
「面に打ってきてくれ、打ってきてくれ」と願っても打って来てはくれない。
で、あれこれ迷って試行錯誤して「相手が面を打ってきてくれる入り方」を模索する。
相手によって反応は異なり、そう簡単には打たせてくれない。
何回も失敗し、タイプの異なる相手ごとにまた悩み考える。
これが錬度を高める稽古である。


(2019年5月3日、京都での小野派一刀流演武)


それでは古流の形稽古はどういう位置づけになるだろうか?

形稽古で初心者のうちは「打方が袈裟を切ってきたらこう対処する」
のように、打方が始動して仕方が対応するように教える。

これは剣道稽古の初心者用の基本稽古と同じで、
元立ち(打方)が面を打とうと手元を(ワザと)上げて小手を見せ、
そのがら空き状態の小手を懸かり手(仕方)が出小手に取る、と同じなのである。
なぜ打方が面を打ってくるのかは(初心者は)考えない。

実際は仕方が完璧に構えているところに打方が打ち込む隙は無い。
剣道で、しっかり構えている相手に打ち込んでも有効打突は難しい。

隙が無いのに打方が打ち込むのは、
打たなければ先に仕方に打たれるという焦りや恐怖心があるからか、
仕方がワザと(実際にはワザとで無いように見える)隙を見せるから、
その隙に向かって打方が打ち込むのである。

これを知らずに古流の形稽古をいくら数多く覚え、
武道の演武会で立派な形を披露するレベルになっていても、
それは踊りの域を超えるものでは無く本当の武道とは言えないのである。
お芝居の殺陣(たて)がいくら上手でも実戦に使えないのと同じなのだ。

似たような例は居合だけをやっている人にも当てはまる。
独りだけで稽古する居合いの相手は仮想の敵であり、
仮想の敵をいくら倒す稽古をしても本物の敵には対処は難しいだろう。
(居合の稽古が無駄だという意味ではありません)

私の小野派一刀流の稽古でも、
最初は形の数だけ覚えるのが精一杯で、その理合にまで考えが及ばなかった。

最初の一ツ勝においても、間合いに入り、なぜ、しっかり構えている仕方に、
打方は陰の構えから正面を打っていくのかがわからなかった。
わからないまま稽古を続け、わからないまま演武会にも出ていた。

今は、打方であれば、仕方の構えの中心を割って
先(せん)で打ち勝つ気持ちで切り込む。

仕方の場合は、打方が技を出そうとする
その先(せん)を超えて打ち込む気迫を出すようにしている。

具体的には、打方のレベルにもよるが、
打方よりも先に右足で間境を越えるようにしている。
仕方に待つ気持ちが少しでもあっては駄目だと考えている。

難しいのは先(せん)の気位が「打ち気にはやる」になっては駄目で、
「いつでも打てる」という気勢と体勢を持てるかどうかが最も大事である。
「打てるが打たない」が先(せん)の理想の状態なのだ。

結局は剣道も古流剣術も同じで、
懸かり手(仕方)から先(せん)の気勢と体勢で、
間境を越えようとするところ、その超え方に勝機があり、
元立ち(打方)が反応し、打ち出したところに応じて勝つのだ。

これは余談になるが、
「剣道はスピードとタイミングで打つスポーツだ」というフレーズは、
あまり武道を知らない者がたびたび言うフレーズだが、
タイミングはもちろん、スピードもまた大事な武道の要素である。
いくら理合に長けていても応じる速度が遅くては役には立たない。

以上、剣道で、実戦的な基本稽古をやっていて、
「ああこれは古流の形稽古と同じなんだ」と思った次第。


(未完につき、修正、加筆、別筆することがあります)

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