稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

No.62(昭和62年6月1日)

2019年08月20日 | 長井長正範士の遺文


ままを受け入れ、生かしたのです。人の失敗を許す心、とがめない心は、
まさにすべてを受け入れることの出来る開かれた心と言えましょう。

○利己心は心を曇らせる。
我々の心には」、こうしたい、ああもしたい、これが欲しい、
あれが欲しいというような、さまざまな欲求があります。

それ自体は善でも悪でもありません。然しともすると他人や社会の利害を考えないで、
自分の欲求だけを満足させたいとする自分中心の心が働きやすいので、
これ等は利己心と言えましょう。

相手の立場に立ち、相手を理解し、受け入れる心を開かれた心というなら、
閉ざされた心はこの利己心と言えるでしょう。

人を非難したり、妬んだり、自分をよく見せたいというような気持も利己心です。
これは仏教でいう煩悩にあたるでしょうか。

物や名誉、権力などを限りなく欲しがる心、このような利己心をもっていると、
物事を正しく見、正しく考え、正しく行動することが出来なくなります。
その結果、失敗しても「すみません」という素直にあやまることが出来なかったり、
人の善意を「有難う」と素直に受けとれなくなってしまいます。

更に、自分の間違いを正す勇気も持てずに、
色々と理屈をつけては自分の立場を貫こうとします。
然もそれが正しいことだと思い込んで人に痛みや、苦しみを
与えているのにも気ずかないことが多いのです。
人生のさまざまな悩みのタネはこの利己心が作っているのではないでしょうか。

○利己心を取り除いていく
「論語」の中で、門人が孔子の人格をたたえて
「意なく、必なく、固なく、我なし」と述べています。

「意」とは自分の考えだけで判断するということ。
これは自分勝手な考え、自分本位の行動が全くなく、どのような場合でも
相手の立場を思いやって行動することの大切さを述べています。
つまり自己にとらわれる心、利己心を取り除くことが大切だということでしょう。

では私たちの心を曇らせている利己心を取り除いていくにはどうしたらよいのでしょう。
それには先ず一つの例をとって話してみたいと思います。

○ここにガラスのコップの中に墨汁が一杯入っているとします。
その中へ、少しずつ綺麗な水を注ぎ込んでゆくうちに、
やがてコップの中は綺麗に澄んだ水へと変わっていくます。

かりにこのコップを私たちの心とします。中の墨汁は利己心です。
すると注ぎ込む綺麗な水は一体何でしょう。
それは相手の立場に立ち、相手を受け入れる素直な心、開かれた心と言えるでしょう。

例えば人を育てようとする低い、やさしい心、すべての人に対する深い思いやりの心です。
人に満足や安心を与える心、人の長所や功績を認め、欠点があれば補っていく温かい心です。
これ等を道徳心、又は慈悲の心とも言えます。
このような考えから自分の閉ざされた心がだんだんと開かれ、向上し、
思いやりにあふれてくれば、相手のよい点がよく見えてくるものです。

以上はニューモラル(新しい、これからの道徳)の教えであり、
私自身、一刀流の切落の精神と相まち剣道即実生活の實を挙げたく、
これからも益々修養を重ね剣は愛愛なりの精神を体得すべく
皆さんと共に精進して行きたいと思っております。
この項 終り
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