お盆なので、ちょっと古い記事ですが、
産経WESTの記事(2015.6.25 07:00)を紹介します。
昨年亡くなった父、粕井貫次の記事です。
https://www.sankei.com/west/news/150625/wst1506250011-n1.html

2015-6-25
【戦後70年・出撃30分前(上)】
「ライフジャケットに刺さったロケット弾の破片」特攻隊員、粕井貫次さんが語る奇跡の生還
第二次世界大戦の末期、神風特別特攻隊(特攻)の飛行士として出撃命令を受けた後、悪天候で取りやめになり奇跡的に生還した粕井(かすい)貫次さん(91)=奈良市=が今月中旬、大阪市内で「特攻出撃30分前」と題して講演した。悪化する戦況、仲間の死、そして常に死と隣り合わせの特攻隊員としての日々…。「生きて終戦を迎えるとは思わなかった」と語る粕井さん。その講演内容を2回にわたって紹介します。
ごめんね、すまんね
たくさんの方がお越しになって非常にうれしく思います。厚く御礼申し上げます。靖国神社や各地の護国神社に祀られている英霊に参拝したりしています。そういうところへ行きますと、なんで亡くなった彼らと私がこんなに違うんか。ごめんね、すまんね。いつもそんな思いでいっぱいになります。
粕井さんが海軍に入隊したのは昭和18年9月。その少し前の5月にはアリューシャン列島のアッツ島が玉砕しました。全部、兵隊は死にまして。その次のキスカ島というのはうまい具合に霧を利用して全員が撤退した。そしてミッドウェー海戦では日本は大打撃を受けた。それで結局、日本とアメリカとの形勢が太平洋上で逆転しまして、日本本土も空襲を受けるという風になっていったわけです。
昭和20年3月下旬、沖縄にはすでに米軍が上陸して、6月23日に日本軍の組織的な抵抗は全くなくなる。それまでに特攻出撃は随分とあったわけですよね。アメリカの資料から戦後わかったことですが、11月3日の明治天皇の誕生日、その明治節を期して一斉に日本上陸すると。これは九州の日南海岸、それから東京の方では九十九里浜というようなあちこちでアメリカ軍が上陸する。敵が日本本土に接近してきたときに、少しでも敵の上陸を阻止しなければいかんという切羽詰まった状態で出撃するわけです。そうすると私らの運命というのは、長くて11月3日になるわけです。
特攻出撃の話の前にその頃の日本の状態を申し上げますが、ともかく情勢が厳しくなって燃料も足りない。それで訓練ができないわけですけども、特別の特攻のできる人間だけに訓練をして、最終の本土決戦に備えようというわけですね。
すぐそばにロケット弾が…
国分(鹿児島)におって非常に空襲が激しい。それで人吉(熊本)に行って、特攻の最初の訓練として夜間飛行訓練をしたのですが、そこで私が飛行作業にかかる寸前に敵機がやってきた。その7機の攻撃を受けて私の左の一間(約1・8メートル)くらいのところにロケット弾が落ちまして、その破片が頭の方々、一つがライフジャケットに、足のファスナーを1つ切りました。
防空壕(ごう)に入ろうと思って走っていったら足がガクンとするんです。飛行服のファスナーがやられてしまって、足下で止まってしまっていた。それからすぐ防空壕(ごう)に逃げたのですが、2弾目の攻撃を受けたときに、私の隣の防空壕(ごう)にロケット弾が直撃しましてそこで14人死んでいるんです。
人吉も怖い、そして四国の観音寺に行ったんですよ。その観音寺でもって、18キロの沖合の小島に向かって照明弾を落として、パッと明るくなったところで突っ込むちゅうわけです。ところがお星さんが出て月が出ているような晩ならよろしいが、曇り空で上も下もわからんようなときにやりますと、飛行機というのは操縦桿(かん)を引っ張ったらこう上がりますわね。その間に2機落ちましたね。そして死にました。
戦死したおうちは“英霊の家”
そのときに殉職になると下士官の場合は、その当時のお金で2万円弔慰金が入るんです。ところが戦死になるとお金が出ない。4人とも親御さんが来て「どちらにしますか」と言うと、どの父兄も「殉職はいやです。戦死にしてください」というぐらいに、戦死というものに対する栄誉を考えていたんです。街を歩いてましても表札の横に戦死したおうちは「英霊の家」という表示がありました。その家の前を通り過ぎるときは会釈して通ったものです。それぐらい戦死というものが尊いという感じはあったんですね。
いよいよ出撃するというときに、私の2番機が豊後水道にはまって墜落しまして、一番近い大分航空隊の方へ進路を変更してそこへ急遽(きゅうきょ)着陸しました。搭乗員と整備員が漁船に助けられてほっとしました。ところがそのとき大分で空襲を受けまして私は民家の2階で寝てたんですけど、大急ぎで下へ降りていったんです。横穴式の防空壕(ごう)へ逃げたんです。隣の民家にいた整備員が一人、爆弾の直撃を受けています。
そんなことで再び国分まで移動していくわけですが、そのときに2機が霧島にぶつかっているんです。搭乗の技術もだめですし、整備もだめです。アメリカ軍は前線へ来るときに最低千時間は乗らなければ前線に立たない。私は教官をしていますから割と時間かせいでいるんです。私で550時間。航空隊の中でも上位のうちに入るんです。それぐらい日本の場合は搭乗員も少なくなっている状態でした。やがて、上官から国分でもって「特攻出撃の待機をせよ」という命令を受けたのです。 =つづく
【プロフィル】粕井貫次(かすい・かんじ) 大正12年12月、大阪生まれ。昭和18年9月、大阪専門学校卒業と同時に第13期海軍飛行専修予備学生として三重海軍航空隊に入隊。19年1月に博多海軍航空隊で練習機教程を終え、4月に詫間海軍航空隊へ転属になり実用機教程を終了。7月に九州の出水海軍航空隊国分分遣隊(後の国分航空隊)で分隊士兼教官として勤務する。20年1月に神風特別攻撃隊(特攻)が結成され、乾龍隊に所属。人吉海軍航空隊へ移動し特攻訓練に入る。4月に観音寺海軍航空隊に移動し、7月に特攻出撃のため国分基地で待機。8月に特攻出撃命令が下り、出撃30分前を体験。終戦により帰還する。元会社社長、奈良市在住。
産経WESTの記事(2015.6.25 07:00)を紹介します。
昨年亡くなった父、粕井貫次の記事です。
https://www.sankei.com/west/news/150625/wst1506250011-n1.html

2015-6-25
【戦後70年・出撃30分前(上)】
「ライフジャケットに刺さったロケット弾の破片」特攻隊員、粕井貫次さんが語る奇跡の生還
第二次世界大戦の末期、神風特別特攻隊(特攻)の飛行士として出撃命令を受けた後、悪天候で取りやめになり奇跡的に生還した粕井(かすい)貫次さん(91)=奈良市=が今月中旬、大阪市内で「特攻出撃30分前」と題して講演した。悪化する戦況、仲間の死、そして常に死と隣り合わせの特攻隊員としての日々…。「生きて終戦を迎えるとは思わなかった」と語る粕井さん。その講演内容を2回にわたって紹介します。
ごめんね、すまんね
たくさんの方がお越しになって非常にうれしく思います。厚く御礼申し上げます。靖国神社や各地の護国神社に祀られている英霊に参拝したりしています。そういうところへ行きますと、なんで亡くなった彼らと私がこんなに違うんか。ごめんね、すまんね。いつもそんな思いでいっぱいになります。
粕井さんが海軍に入隊したのは昭和18年9月。その少し前の5月にはアリューシャン列島のアッツ島が玉砕しました。全部、兵隊は死にまして。その次のキスカ島というのはうまい具合に霧を利用して全員が撤退した。そしてミッドウェー海戦では日本は大打撃を受けた。それで結局、日本とアメリカとの形勢が太平洋上で逆転しまして、日本本土も空襲を受けるという風になっていったわけです。
昭和20年3月下旬、沖縄にはすでに米軍が上陸して、6月23日に日本軍の組織的な抵抗は全くなくなる。それまでに特攻出撃は随分とあったわけですよね。アメリカの資料から戦後わかったことですが、11月3日の明治天皇の誕生日、その明治節を期して一斉に日本上陸すると。これは九州の日南海岸、それから東京の方では九十九里浜というようなあちこちでアメリカ軍が上陸する。敵が日本本土に接近してきたときに、少しでも敵の上陸を阻止しなければいかんという切羽詰まった状態で出撃するわけです。そうすると私らの運命というのは、長くて11月3日になるわけです。
特攻出撃の話の前にその頃の日本の状態を申し上げますが、ともかく情勢が厳しくなって燃料も足りない。それで訓練ができないわけですけども、特別の特攻のできる人間だけに訓練をして、最終の本土決戦に備えようというわけですね。
すぐそばにロケット弾が…
国分(鹿児島)におって非常に空襲が激しい。それで人吉(熊本)に行って、特攻の最初の訓練として夜間飛行訓練をしたのですが、そこで私が飛行作業にかかる寸前に敵機がやってきた。その7機の攻撃を受けて私の左の一間(約1・8メートル)くらいのところにロケット弾が落ちまして、その破片が頭の方々、一つがライフジャケットに、足のファスナーを1つ切りました。
防空壕(ごう)に入ろうと思って走っていったら足がガクンとするんです。飛行服のファスナーがやられてしまって、足下で止まってしまっていた。それからすぐ防空壕(ごう)に逃げたのですが、2弾目の攻撃を受けたときに、私の隣の防空壕(ごう)にロケット弾が直撃しましてそこで14人死んでいるんです。
人吉も怖い、そして四国の観音寺に行ったんですよ。その観音寺でもって、18キロの沖合の小島に向かって照明弾を落として、パッと明るくなったところで突っ込むちゅうわけです。ところがお星さんが出て月が出ているような晩ならよろしいが、曇り空で上も下もわからんようなときにやりますと、飛行機というのは操縦桿(かん)を引っ張ったらこう上がりますわね。その間に2機落ちましたね。そして死にました。
戦死したおうちは“英霊の家”
そのときに殉職になると下士官の場合は、その当時のお金で2万円弔慰金が入るんです。ところが戦死になるとお金が出ない。4人とも親御さんが来て「どちらにしますか」と言うと、どの父兄も「殉職はいやです。戦死にしてください」というぐらいに、戦死というものに対する栄誉を考えていたんです。街を歩いてましても表札の横に戦死したおうちは「英霊の家」という表示がありました。その家の前を通り過ぎるときは会釈して通ったものです。それぐらい戦死というものが尊いという感じはあったんですね。
いよいよ出撃するというときに、私の2番機が豊後水道にはまって墜落しまして、一番近い大分航空隊の方へ進路を変更してそこへ急遽(きゅうきょ)着陸しました。搭乗員と整備員が漁船に助けられてほっとしました。ところがそのとき大分で空襲を受けまして私は民家の2階で寝てたんですけど、大急ぎで下へ降りていったんです。横穴式の防空壕(ごう)へ逃げたんです。隣の民家にいた整備員が一人、爆弾の直撃を受けています。
そんなことで再び国分まで移動していくわけですが、そのときに2機が霧島にぶつかっているんです。搭乗の技術もだめですし、整備もだめです。アメリカ軍は前線へ来るときに最低千時間は乗らなければ前線に立たない。私は教官をしていますから割と時間かせいでいるんです。私で550時間。航空隊の中でも上位のうちに入るんです。それぐらい日本の場合は搭乗員も少なくなっている状態でした。やがて、上官から国分でもって「特攻出撃の待機をせよ」という命令を受けたのです。 =つづく
【プロフィル】粕井貫次(かすい・かんじ) 大正12年12月、大阪生まれ。昭和18年9月、大阪専門学校卒業と同時に第13期海軍飛行専修予備学生として三重海軍航空隊に入隊。19年1月に博多海軍航空隊で練習機教程を終え、4月に詫間海軍航空隊へ転属になり実用機教程を終了。7月に九州の出水海軍航空隊国分分遣隊(後の国分航空隊)で分隊士兼教官として勤務する。20年1月に神風特別攻撃隊(特攻)が結成され、乾龍隊に所属。人吉海軍航空隊へ移動し特攻訓練に入る。4月に観音寺海軍航空隊に移動し、7月に特攻出撃のため国分基地で待機。8月に特攻出撃命令が下り、出撃30分前を体験。終戦により帰還する。元会社社長、奈良市在住。