続きです。
産経WEST(2015.6.26 07:00)です。
https://www.sankei.com/west/news/150626/wst1506260003-n1.html
2015-6-26
「刻一刻と時間が過ぎていった」「爆弾を抱いて突っ込むしかない」特攻隊員、粕井貫次さんが語る奇跡の生還
第二次世界大戦末期、神風特別攻撃隊(特攻)として出撃命令を受けながら天候不良によって奇跡的な生還を果たした粕井貫次さん(91)。今月中旬、大阪市内で講演した粕井さんは「出撃30分前待機」という命令を受けた際の、死と隣り合わせの緊迫した状況を克明に語った。
なるべく長男ははずし、次男か三男を人選
国分基地では、毎日待機。しかしもう訓練できないんですよ。制空権はアメリカ軍にあるから。だから出撃というと、あわてて飛行機を組み立てて爆弾を積み込んで攻撃することになるわけです。
あるとき「攻撃3時間待機に入れ」という命令が出たんです。日向灘沖に敵の艦艇らしきものが航行中。それを偵察機が発見したから3時間待機に入れということで、飛行場に張り出された搭乗割を見ると一番先頭に私の名前がありました。私は次男でもあるし、特攻員の人選も私自身がしたわけなんです。うちの軍隊から練習生だけで40人ほど選考してなるべく長男ははずし、次男か三男を入れて技能が優秀でしかもやる気のある人を入れた。それらを1月に発表していました。
8月6日に広島に原爆が投下されましたね。9日には長崎に落ちた。ソ連が日ソ不可侵条約を結んでいたのにもかかわらず参戦。アメリカはいつ日本に上陸してくるかわからない。国内では女の人は竹やりの訓練をしている。そんなもん考えてみたら向こうは自動小銃があったり火炎放射器があったりするでしょ。竹やりを持って戦うなんてそんなもん話になりませんわな。
ちょっとでもお役に立って敵を倒す。武器もたくさん持っている、それをやっつけるには爆弾を抱いて突っ込む以外にないと、そういう風に思いますわな。それがその当時の人間の考え方でした。
出撃3時間待機が30分待機に
まず「出撃3時間待機」になって、組み立てた飛行機に爆弾は積んであるし、飛行機というのは暖機運転をしないといけない。シリンダーの中を温かくしなければうまく回転してくれないので、たえずシリンダーの中を熱くしとかないかん。しかし、あんまり暖機運転をするとガソリンが減っちゃう。しばらく休憩し、シリンダーが冷えてきたらあかんからまた運転して待機、運転を繰り返していたわけです。それを昼ごろからずっとしていた。
次の情報がくるかどうか待っていたのですが、こないのです。そのうち「出撃3時間待機」が「30分待機」に変更となった。ところがね、30分待機になっても敵の艦船の位置がはっきりわからず、どのような動きをしているか、全然入ってこないんです。ただ3時間が30分になっただけで。私は550時間乗っていますからある程度夜間飛行できますが、昼間に2機が霧島にぶつかっていますし、まして星もない月も出ていない、低い雲が垂れ下がっているときに、当然相手は灯火管制していますから真っ暗けですわな。それを見つけてぶつかっていくというのは、とてもじゃないけど無理な話。どうかなあと私も心配しながら刻一刻と時間が過ぎていくわけですね。
日が暮れかかってきて「出撃30分待機解除。3時間待機に移す」と。非常に不安定な心理状態でずっとおったわけですが、それが中止になった。中止になったからほっとしたかというと、終戦の天皇陛下の玉音放送を聞いたときもそうだったのですが、これで命が助かったというより、30分待機をやめろといわれたら、今日はやめるのか、だけど次はいつかわからんということでしょ。
幽霊と違う、脚がある…
私は8月18日に家に帰れるというわけで大分で一泊して、燃料がないというんで仕方なしに岩国に飛んで陸軍の飛行場で燃料を補給して、呉市の南を通って大阪へ帰ることにしました。私は梅田から市電に乗って実家のある上本町まで来たら、周りはほとんど空襲で焼け野原なのに残っているんですよねえ。家に着いて声を落として「ただいま」と言うと、母親は死んでおりませんが、ばあさんがおりましてね、「ああ、たもつ(貫次の旧名)か」と私の脚にくらいついて「幽霊と違う、脚がある」。私がそんなに早く帰ってくると思わなかったんでしょうね。涙をぽろぽろこぼしました。そんなことでありがたいことに命拾いをしました。
ここで私と親しかった男が遺書を書いてますので紹介したいと思います。この人は北海道出身の富澤といい、北海道の第二師範学校出身で、三重海軍航空隊で私と一緒に毎日食事をしていたわけです。フィリピンで特攻で死んでいるんですね。富澤幸光という人は20年の1月6日に死んでいるんです。特攻としては一番早い部類。他の連中はだいたい4月、5月が多い。絶筆になった遺書の一部を読み上げさせていただきます。
【お父上様、お母上様、益々御達者でお暮しのことと存じます。幸光は闘魂いよゝ元気旺盛でまた出撃します。お正月も来ました。幸光は靖国で二十四歳を迎へる事にしました。靖国神社の餅は大きいですからね。同封の写真を見て下さい。猛訓練時、下中尉に写して戴いたのです。幸光を見て下さい。この拳を見て下さい。
父様、母様は日本一の父様母様であることを信じます。お正月になったら軍服の前に沢山御馳走をあげて下さい。雑煮餅が一番好きです。ストーブを囲んで幸光の想ひ出話をするのも間近でせう。靖国神社ではまた甲板士官(軍紀を取り締まる職です)でもして大いに張切る心算です。母上様、幸光の戦死の報を知っても決して泣いてはなりません。靖国で待つてゐます。きつと来て下さるでせうね。本日恩賜のお酒を戴き感激の極みです。敵がすぐ前に来ました。私がやらなければ父様母様が死んでしまふ。否日本国が大変な事になる。幸光は誰にも負けずきつとやります。ニツコリ笑つた顔の写真は父様とそつくりですね。母上様の写真は幸光の背中に背負つてゐます。母様も幸光と共に御奉公だよ。何時でも側にゐるよ、と云つて下さつてゐます。母さん心強い限りです】
私これを読んでから思うのは、人間には魂というものがあって一つ上の段階があるように思う。命というのは心臓があって頭で考える。でも魂というのはそれより一本上の立派なものだと思う。=おわり
【プロフィル】粕井貫次(かすい・かんじ) 大正12年12月、大阪生まれ。昭和18年9月、大阪専門学校卒業と同時に第13期海軍飛行専修予備学生として三重海軍航空隊に入隊。19年1月に博多海軍航空隊で練習機教程を終え、4月に詫間海軍航空隊へ転属になり実用機教程を終了。7月に九州の出水海軍航空隊国分分遣隊(後の国分航空隊)で分隊士兼教官として勤務する。20年1月に神風特別攻撃隊(特攻)が結成され、乾龍隊に所属。人吉海軍航空隊へ移動し特攻訓練に入る。4月に観音寺海軍航空隊に移動し、7月に特攻出撃のため国分基地で待機。8月に特攻出撃命令が下り、出撃30分前を体験。終戦により帰還する。元会社社長、奈良市在住。
産経WEST(2015.6.26 07:00)です。
https://www.sankei.com/west/news/150626/wst1506260003-n1.html
2015-6-26
「刻一刻と時間が過ぎていった」「爆弾を抱いて突っ込むしかない」特攻隊員、粕井貫次さんが語る奇跡の生還
第二次世界大戦末期、神風特別攻撃隊(特攻)として出撃命令を受けながら天候不良によって奇跡的な生還を果たした粕井貫次さん(91)。今月中旬、大阪市内で講演した粕井さんは「出撃30分前待機」という命令を受けた際の、死と隣り合わせの緊迫した状況を克明に語った。
なるべく長男ははずし、次男か三男を人選
国分基地では、毎日待機。しかしもう訓練できないんですよ。制空権はアメリカ軍にあるから。だから出撃というと、あわてて飛行機を組み立てて爆弾を積み込んで攻撃することになるわけです。
あるとき「攻撃3時間待機に入れ」という命令が出たんです。日向灘沖に敵の艦艇らしきものが航行中。それを偵察機が発見したから3時間待機に入れということで、飛行場に張り出された搭乗割を見ると一番先頭に私の名前がありました。私は次男でもあるし、特攻員の人選も私自身がしたわけなんです。うちの軍隊から練習生だけで40人ほど選考してなるべく長男ははずし、次男か三男を入れて技能が優秀でしかもやる気のある人を入れた。それらを1月に発表していました。
8月6日に広島に原爆が投下されましたね。9日には長崎に落ちた。ソ連が日ソ不可侵条約を結んでいたのにもかかわらず参戦。アメリカはいつ日本に上陸してくるかわからない。国内では女の人は竹やりの訓練をしている。そんなもん考えてみたら向こうは自動小銃があったり火炎放射器があったりするでしょ。竹やりを持って戦うなんてそんなもん話になりませんわな。
ちょっとでもお役に立って敵を倒す。武器もたくさん持っている、それをやっつけるには爆弾を抱いて突っ込む以外にないと、そういう風に思いますわな。それがその当時の人間の考え方でした。
出撃3時間待機が30分待機に
まず「出撃3時間待機」になって、組み立てた飛行機に爆弾は積んであるし、飛行機というのは暖機運転をしないといけない。シリンダーの中を温かくしなければうまく回転してくれないので、たえずシリンダーの中を熱くしとかないかん。しかし、あんまり暖機運転をするとガソリンが減っちゃう。しばらく休憩し、シリンダーが冷えてきたらあかんからまた運転して待機、運転を繰り返していたわけです。それを昼ごろからずっとしていた。
次の情報がくるかどうか待っていたのですが、こないのです。そのうち「出撃3時間待機」が「30分待機」に変更となった。ところがね、30分待機になっても敵の艦船の位置がはっきりわからず、どのような動きをしているか、全然入ってこないんです。ただ3時間が30分になっただけで。私は550時間乗っていますからある程度夜間飛行できますが、昼間に2機が霧島にぶつかっていますし、まして星もない月も出ていない、低い雲が垂れ下がっているときに、当然相手は灯火管制していますから真っ暗けですわな。それを見つけてぶつかっていくというのは、とてもじゃないけど無理な話。どうかなあと私も心配しながら刻一刻と時間が過ぎていくわけですね。
日が暮れかかってきて「出撃30分待機解除。3時間待機に移す」と。非常に不安定な心理状態でずっとおったわけですが、それが中止になった。中止になったからほっとしたかというと、終戦の天皇陛下の玉音放送を聞いたときもそうだったのですが、これで命が助かったというより、30分待機をやめろといわれたら、今日はやめるのか、だけど次はいつかわからんということでしょ。
幽霊と違う、脚がある…
私は8月18日に家に帰れるというわけで大分で一泊して、燃料がないというんで仕方なしに岩国に飛んで陸軍の飛行場で燃料を補給して、呉市の南を通って大阪へ帰ることにしました。私は梅田から市電に乗って実家のある上本町まで来たら、周りはほとんど空襲で焼け野原なのに残っているんですよねえ。家に着いて声を落として「ただいま」と言うと、母親は死んでおりませんが、ばあさんがおりましてね、「ああ、たもつ(貫次の旧名)か」と私の脚にくらいついて「幽霊と違う、脚がある」。私がそんなに早く帰ってくると思わなかったんでしょうね。涙をぽろぽろこぼしました。そんなことでありがたいことに命拾いをしました。
ここで私と親しかった男が遺書を書いてますので紹介したいと思います。この人は北海道出身の富澤といい、北海道の第二師範学校出身で、三重海軍航空隊で私と一緒に毎日食事をしていたわけです。フィリピンで特攻で死んでいるんですね。富澤幸光という人は20年の1月6日に死んでいるんです。特攻としては一番早い部類。他の連中はだいたい4月、5月が多い。絶筆になった遺書の一部を読み上げさせていただきます。
【お父上様、お母上様、益々御達者でお暮しのことと存じます。幸光は闘魂いよゝ元気旺盛でまた出撃します。お正月も来ました。幸光は靖国で二十四歳を迎へる事にしました。靖国神社の餅は大きいですからね。同封の写真を見て下さい。猛訓練時、下中尉に写して戴いたのです。幸光を見て下さい。この拳を見て下さい。
父様、母様は日本一の父様母様であることを信じます。お正月になったら軍服の前に沢山御馳走をあげて下さい。雑煮餅が一番好きです。ストーブを囲んで幸光の想ひ出話をするのも間近でせう。靖国神社ではまた甲板士官(軍紀を取り締まる職です)でもして大いに張切る心算です。母上様、幸光の戦死の報を知っても決して泣いてはなりません。靖国で待つてゐます。きつと来て下さるでせうね。本日恩賜のお酒を戴き感激の極みです。敵がすぐ前に来ました。私がやらなければ父様母様が死んでしまふ。否日本国が大変な事になる。幸光は誰にも負けずきつとやります。ニツコリ笑つた顔の写真は父様とそつくりですね。母上様の写真は幸光の背中に背負つてゐます。母様も幸光と共に御奉公だよ。何時でも側にゐるよ、と云つて下さつてゐます。母さん心強い限りです】
私これを読んでから思うのは、人間には魂というものがあって一つ上の段階があるように思う。命というのは心臓があって頭で考える。でも魂というのはそれより一本上の立派なものだと思う。=おわり
【プロフィル】粕井貫次(かすい・かんじ) 大正12年12月、大阪生まれ。昭和18年9月、大阪専門学校卒業と同時に第13期海軍飛行専修予備学生として三重海軍航空隊に入隊。19年1月に博多海軍航空隊で練習機教程を終え、4月に詫間海軍航空隊へ転属になり実用機教程を終了。7月に九州の出水海軍航空隊国分分遣隊(後の国分航空隊)で分隊士兼教官として勤務する。20年1月に神風特別攻撃隊(特攻)が結成され、乾龍隊に所属。人吉海軍航空隊へ移動し特攻訓練に入る。4月に観音寺海軍航空隊に移動し、7月に特攻出撃のため国分基地で待機。8月に特攻出撃命令が下り、出撃30分前を体験。終戦により帰還する。元会社社長、奈良市在住。