昭和16年12月に大東亜戦争が始まった翌年の2月、食糧管理法が制定されお米は政府の管理になった。米穀通帳と言うものが各家庭に配られ、販売店も指定され配給量も決められてしまった。
配給量では足りないので農家等から買った米をヤミ米と言っていた。昭和20年の終戦後は満州、朝鮮、台湾からの引揚者により人口が急増したことで食糧不足が深刻であった。
警察当局によるヤミ米の摘発が盛んにおこなわれていた、汽車通学の中学生だった爺、列車内で怒号が飛び交う中で没収されるヤミ米、泣き崩れて警察官に泣きすがる女性の姿が忘れられない。
我が家でも、母が近くの農家から衣類と交換して米を求めてきた。配給米は玄米、農家から買った米は白米で一目でわかる。爺の白米の弁当を見て、農家の子たちにヤミ米だと騒がれたことも。