私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

ウエを仕掛けてナ・・・

2019-06-19 06:59:05 | 日記
 ジンム達一行が八咫烏の導きによって吉野河の上流に達した時、その河に筌を仕掛けて魚を取っている人がいます。
 
 この「筌<ウエ>」ですが、竹で籠を編んで川に沈めてウナギなどの魚を取る漁法です。俗に言う「鰻籠」で、書紀にある梁<ヤナ>ではありません。なお、「魚」は<ナ>と読み、「食用とする魚類」を言う、と辞書にあります。
 
 その人にジンムは尋ねます。
 「あなたは誰ですか」
 と。
 
 なお、ジンムを古事記では“天神之御子<アマツカミノミコ>”としていますが、書紀では“天皇”となっております。これも記紀の違いの一つです。

 すると「その“吉野河之河尻”で取魚人<ナトルヒト>は名乗ります。

          “贄持之子<ニヘモツノコ>

 だと。しかも、自分は“国神<クニガミ>”だとも。そして注釈として小字で
           “此者阿陀之鵜養之祖
 と書いてあります。これも念のために????
           

 

宣長先生の<エシヌ>について????

2019-06-18 04:44:52 | 日記
 宣長先生は“吉野河”について

        “吉野は延斯怒<エシヌ>と訓べし”

 と、万葉集の家持の歌を例に「べし」と強く断定的に説明しておりますが、どうでしょうかね???
 その歌は4099~4100の歌ですが、それには「吉野」について

        “余思怒”
        “与之怒”

 とあり、何処にも宣長先生の言う“延斯怒”は有りません。また、ある古事記の訳者はこれを<エシノ>と読ましておりますが、素直に、<ヨシノ>でいいのではありませんかね。これはごく浅はかな素人の考えですが・・・・・。
 
 なお、万葉集「巻十八の4098」には次のように書かれてありますが、どうでしょうかね

 天平感寶元年五月十二日於越中國守舘大伴宿祢家持作之
   
   為幸行芳野離宮之時、儲作謌一首并短謌 

 これも、例によって、どうでもいいことですが??????????  

「吉野河之河尻」とは・・・

2019-06-17 11:06:13 | 日記
 ジンム達一行は、八咫烏に従って

      “到吉野河之河尻<エシヌガハノ カハジリニ イタリマシキ>”

 河尻まで行きます。さて、「河尻」ですから川の下流、「川口に到る」ちょっと変ですね???

 そこで、又宣長先生です。すると、先生曰く

 “さて今熊野より山越に幸行<イデマシ>て、吉野へ出たまはむ地<トコロ>は、なほ川上というべきあたりにこそあらむを、河尻ととしもいへるは、地理<トコロノサマ>を考えるに違へるがごとし・・・・”

 として、どうして違うのかを細々と説明してあります。

 まあ、それは兎も角として、ジンムたちの一行は吉野河の上流に到着します。

 なお、この「吉野」ですが、<ヨシノ>ではないのです。では、如何に???

   驚くことなかれ!!!!!!!!!!<延斯怒エシヌ>と・・・・      

八咫烏<ヤタカラス>が・・・

2019-06-16 06:04:26 | 日記
         “今自天遣八咫烏”

 「今より高天原から八咫烏を遣わす。」と、古事記では高木神がジンムに伝えます。

 その教え通りにジンムは八咫烏の後に従って“幸行<イデマス>”進みますと

          “吉野河之河尻”

 に到着されます。

 話が違うますが、ジンムが高千穂を出発されて「吉備」に到着されて兵力を増強されますが、その地もやはり「吉」という字の付く土地です。この二つの地とも「幸先の良い」前触れが感じられるように、これも稗田阿礼独特の思いから綴られたものではないかと思っております。

 ちなみに、日本書紀には、「頭八咫烏<ヤタカラス>」に従って到った処は

           “莵田下縣<ウダノシモツアガタ>”

 です。「吉野河之河尻」ではありません。しかし、ジンムはこの烏が来たことは

            “自叶祥夢<オノズカラ ヨキユメニ カナヘリ>”

 と言っております。「吉」と「祥」の字の違いだけで、幸先の良い事を暗に告げているのです。なお、日本書紀には、次の様な言葉も使っております。

            “大哉、赫矣”
 
 「大きなるかも。赫(さかり)なるかも」です。『祥』と合わせて、古事記にある『吉』をくわしく説明しております。
  

日本書紀には「高木神」は・・・・

2019-06-15 07:17:36 | 日記
 昨日も書いたように、古事記には「高木神」がしばしば登場してきますが、「天之御中主神」や「神産巣日神」はその姿を見ることがありません。これに関して思うのですが、近頃、少々影が薄くなってきてはいますが、稗田阿礼が、何かの原因で、誰かに、あの『忖度』とやらをしたのではないかと思われて、それなればとばかりに「日本書紀」を覗いてみました。

     “・・・時夜夢、天照大神、訓于天皇曰、朕今遣頭八咫烏・・・”

 と出ていて、何処にも古事記の「高木神」の名前は見当たりません。誰かのように『忖度』などはしないという、より中立的思考の持ち主が書いたのではないでしょうか。一体誰れでしょうか???

 『続日本紀』の養老4年5月癸酉条には、

  「先是一品舎人親王奉勅修日本紀 至是功成奏上 紀卅卷系圖一卷」

 とあり、舎人親王が編纂したとあります。彼の歴史観がそうさせたものだろうと思いますが???????。やっぱり「阿礼」は???・・・・・???

 これも紀記の表記の違いの一つです。これも念のために??????