キュウリが五本・・・窓枠の設置作業は捗らず・・・右目の眼圧高く頭痛・・・オフクロ高熱・・・「科学と化学」の結集技術、イプシロン飛んだ・・・台風デスか・・・「科学と化学軍事兵器」・・・日常生活は「科学と化学危険物」が蔓延・・・シリアの問題・・・「戦争」で儲け、それによって「生活」している「人々」が世界中に存在させしめているシステム・・・
ーーーーー
枕草子
(一三六段)・・・百三十六段・壱佰参拾六段・壱参六段・陌参足陸段
1+3+6=10=十=壱拾=足
1×3×6=18=十八=拾捌=足捌
「頭辨の・・・トウのベン=蔵人頭を兼務する弁官
↓
蔵人(くろうど・藏人)
律令制下の令外官の一
天皇の秘書的役割を果たした
唐名は
侍中(じちゅう)・・・字中
夕郎(せきろう)・・・籍中
夕拝郎(せきはいろう)・・・籍は遺漏
蔵人所は
事務を行う場所
内裏
校書殿の北部に置かれた
蔵の出納・管理を職掌とする下級官人
倉人とも書く
奈良時代の
造東大寺司に置かれ
史生・案主等の
下位に位置付けられた
810年(弘仁元年)三月に設置された
蔵人も「蔵人所」が
「校書殿(きようしよでん)」に置かれた
・・・「蔵人」は字面からすれば
「蔵の番人・管理人」であるが
「帳簿・書籍」の蔵である
・・・歌舞伎では
忠臣蔵の
「大石蔵之助」・・・息子は「主税」である・・・
弁官・・・弁=わきまえる
↓
弁=ム+廾
異体字=辯(辩)・辨・辧・瓣・辮(辫)
辦(办)
花弁→花しべ→はなしべ=話し部
↓
花蕊・花蘂=カズイ・花のしべ
雄しべと雌しべ
花心
王建
蜀一国を平定
903年朝廷より蜀王に封
唐滅亡後
五代十国の前蜀の高祖
妻
「花蘂夫人(カズイフジン)」
名は「小徐妃」(しょうじょひ)
女流詩人で「宮詞(キュウシ)」を作る
また、後に
「花蘂夫人」とは別人の
「二花蘂夫人(にカズイフジン)」が登場
姓は「費 or 徐」?
--
前蜀を乗っ取った
孟知祥(もうちしょう)
五代十国の
後蜀の初代皇帝
在位期間は明徳元年(934年)
姓・諱は孟知祥
字は保胤
諡号は
文武聖英烈明孝皇帝
廟号は高祖
咸通十五年四月21日
(874年5月10日)
~
明徳元年七月二十六日
(934年9月7日)
父は孟道
皇后は李皇后(李克用の姪)
陵墓は和陵
邢州龍岡に孟道の子として生まれる
父や叔父と共に
後唐の荘宗の武将
後唐が前蜀を滅ぼすと、
荘宗より
西川節度使に封
長興元年(930年)
後唐に叛旗挙兵
長興二年(932年)
蜀の地より後唐勢力を駆逐
懐柔策の明宗より蜀王に封
応順元年(934年)
国号を大蜀とし皇帝を称し、
明徳と改元
即位後
七か月で崩御
--↓
孟知祥
の三男、
↓
孟昶(永+日)=モウチョウ・昶)
後蜀の第二代皇帝
「後主」と称されている
↓
行軍司馬を務め、
明徳元年(934年)
東川節度使に封
旧臣の李仁罕や張業らを誅殺
農業
養蚕を推奨
科挙を実施
諫言を重用し政治改革実行
彼の後宮に
花蕊夫人
晩年は奢侈に溺れ、朝政が乱れた
広政十八年(955年)
西北四州が後周に略奪され
広政二十七年(964年)
宋に攻められ
広政二十八年(965年)
宋に降伏し後蜀は滅亡
亡国後は
検校太師兼中書令、
秦国公に封ぜられ、
乾徳三年(965年)に
開封で没した(趙光義による毒殺説)
死後は楚王に追封され、
恭孝の諡号が贈られた
この
孟昶(永+日)
の寵妃
↓
「二花蘂夫人」を
宋帝国の太祖・趙匡胤が
蜀の都・成都を陥とし、
この花蘂夫人に惚れたが
「貞女二夫にまみえず」
「二花蘂夫人」は皇帝・匡胤の前で、
亡国を偲んだ詞を詠み
匡胤の弟の
趙匡義が弓で「二花蘂夫人」を射殺
↓
ーーーーーーーーーーー
弁える(わきまえる)・見分ける・物事の違いを識別
理解する・心得る・善悪を判断し処理する
弁別する=捌
是非・善悪を区別する
思弁
けじめをつけて処理する
弁済・弁償・勘弁・支弁・自弁
弁当・駅弁・腰弁(こしべん)
わきまふ
区別する
物事の道理をよく知っている・心得ている
↓
房室弁
心房と心室の境にある弁
左房室弁を僧帽弁・二尖弁(にせんべん)、
右房室弁を三尖弁
半月弁
心臓の心室から動脈への出口にある
半月形をした三枚の弁膜
大動脈弁と肺動脈弁の総称
心室が収縮すると開いて血液を送り出し、
弛緩(しかん)すると閉じて逆流を防ぐ
三半月弁
↓
弁識
弁舌=speech
方言=a dialect〈なまり〉
↓
弁官(べんかん・辨官)
朝廷の最高機関、
太政官の職で
左大弁(さだいべん)
右大弁(うだいべん)
左中弁(さちゅうべん)
右中弁(うちゅうべん)
左少弁(さしょうべん)
右少弁(うしょうべん)
の総称
唐名(漢風名称)は
尚書・通説は四等官
律令制の官職組織の一
和訓は弁官〈おおともいのつかさ〉
↓
左弁官と右弁官は
太政官(だいじようかん)に所属
これを構成するおもな官職は
左、右弁(大弁、中弁、少弁の三等・定員各一)
と
史(大史・少史)
↓
左弁官は
太政官に属し、
八省のうち
中務(なかつかさ)
式部
治部(ジブ)
民部
を監督
↓
弁官=辨官
律令制で、太政官(だいじょうかん)に属し、
文書事務や、
諸官司・諸国との連絡などを司どった官
左弁官と右弁官に分かれ、
それぞれ
大弁・中弁・少弁が置かれ、
その下に
大史・少史があった
ーーーーーーーー↓
弁韓(べんかん)
紀元前二世紀末から四世紀にかけて
朝鮮半島南部に存在した
三韓の一つで
弁辰とも言う
弁韓十二ヶ国
三韓時代の
駕洛国(金官伽耶)
「卞韓」・「牟韓」とも記録
「弁辰」という名は、
「半跛国」・・・「跛(ハ)」は「足なえ」
跛行→爬行
↓
以下、「差別用語」としてではなく、
「歴史的使用言語」としてブログ記事から抜粋し、
そのコトバを添付します
「現存・古事記」の
ヤマトタケルの息吹山から下山した
三重(村)懸でのタギタギしい状況の重なりです
↓
跛(ちんば)
片方の足に障害がありうまく歩けないこと
対になっている物の形・大きさ・色が
揃っていないこと
両方の端がちがう「かたちんば」
片足が不自由で、普通に歩けないこと
対(つい)のモノが形や大きさが揃わないこと
めくら(視力障害者)、
つんぼ(耳の不自由な人)
あきめくら(字の読めない人・文盲)
おし(口の不自由な人・聾唖者)
どもり(言語障害者・吃音)
びっこ・ちんば・いざり(足の悪い人)
かたわ(身体障害者)
がちゃ目(ロンパリ・斜視)
ちんばの同義語
足萎(なえ)・片ちんば・不揃い・片跛
博多弁・・・?
ほんらい食い違っている様子
↓
・・・「ベートーベン」の
交響曲第9番、
「ミサ・ソレムニス
(misa solemnis)=荘厳ミサ(祭儀)」
・・・「座頭市・検校」の按摩
・・・「高橋竹山」の三味線
・・・「平家物語」を語る「琵琶法師」など・・・
↑
「歴史的使用言語」として理解すべし・・・
ーーーーーーーー↓半跛国
を中心とする
韓の諸国の意味
三世紀には「十二国また王あり」
狗邪国・安邪国・半跛国が強国
弁韓
古代に朝鮮半島の南部に居住した韓族の名称
「弁辰(弁辰韓)」
「三国志・魏志東夷列伝・韓の条」による記録
↓
弁韓
弁韓(弁辰)「後漢書・弁辰伝」
弁辰與辰韓雜居、城郭衣服皆同、
言語風俗有異。
其人形皆長大、美髮、衣服清。
而刑法嚴峻。其國近倭、故頗有文身者。
紀元前3世紀~2世紀に掛けて
朝鮮半島の南部の辰国
中国の春秋戦国時代に
韓の国が蓁の国に滅ぼされ、
山東半島に移住した韓族
韓族が山東半島経由で朝鮮半島の南部に
馬韓・辰韓・弁韓等を建国・・・
弁韓
古代朝鮮の三韓の一
現在の慶尚南道西南部
後、
加羅(から)(任那(みまな))となり、
六世紀に
新羅(しらぎ)に併合
朝鮮半島南部
馬韓、辰韓、弁韓
「弁韓」とは - 紀元前二世紀から四世紀にかけて
朝鮮半島南部に存在した三韓の一
十二ヶ国に分かれ
馬韓の東で
辰韓の南
後の任那である・・・・・・?
↓
当弁・答弁・唐弁・問う弁
ーー↓枕草子のツヅキ
御許
より」とて、
主殿司、・・・主伝詞・取伝史
繪
など
やうなる物を、
白き
色紙につつみて、
梅の花の
いみじく
咲きたるに
つけてもてきたり。
繪にやあらんと
急ぎ取り入れて
見れば、
餠餤・・・・・・・へいだん、べいだん、へいたん
↓
餅腅
食べ物の一つ
阿比留、鴨の卵と
野菜を煮て
餠の中に入れこみ、
四角に切ったもの
↓
兵団・兵站・兵端・米談
平談→平家物語
とい・・・・問
ふ・・・・・譜
ものを、
二つ
竝べて
つつみたるなり。
添へたるたて
文に、
解文の
やうに書きて
「進上餠餤・・・・「真情・心情・身上・信条」兵団・平談
ピアノ、楽器の「進上の併弾」
一つ
つみ、・・・・・・罪・摘み・抓み・積み・詰み
例によりて
進上
如件、・・・・・如件(くだんのごとし)
くだん・九段・句段・苦談・件(くだん)
少納言殿に」・・章名言伝爾
とて、
月日かきて、・・・解通比
「任那成行」・・・任那の成り行き・・・日本府
南朝鮮の東端・・・辰韓・弁韓
駕洛国(金官伽耶)
とて、
奧に、
「この
男は・・・・・・音故葉
みづ・・・・・・自・「水=壬・癸」
から
參・・・・・・・まい
サン・纂
らん・・・・・・乱・覧・蘭
と・・・・・・・徒・賭・渡
するを、
晝は・・・・・・晝(昼・ひる・チュウ)
類字は書(かく・ショ)
畫(画・えがく・限る・エ・カク)
かたち
わろし
とて
まゐらぬ
なめり」
と、
いみじく
をかしげに
書き給ひたり。
御前に
參りて
御覽ぜさすれば、
「めでた・・・・目出度
く・・・・・・句
も・・・・・・模
かかれ・・・・懸か例
たる
かな。
をかしう
したり」
など
譽めさせ給ひて、
御文はとらせ給ひつ。
「返事は
いかが
すべ
か
らん。
この
餠餤もてくるには、
物
など
や
とらす
らん。
知りたる
人
もがな」
といふを
聞しめして、
「惟仲・・・・これなか・「イチュウ・ユイチュウ」
が
聲し
つる、
呼びて
問へ」
との給はすれば、
はしに出でて、
「左・・・・・よこしま(邪)・ひだり(比拿理)
大・・・・・代
辨・・・・・弁・偏・篇・変
に
もの
聞えん」
と、
侍・・・・・・はべら(葉部等)
して
いはすれば、
いと
よく
うるはしう
てき
たり。
「あらず、
私事なり。
もしこの
辨
少
納
言
などの
もとに、
かかる物
もてきたる
下部などには、
することやある」
と問へば、
「さる事も侍らず、
唯とどめて
くひ侍る。
何しに
問はせ給ふ。
もし
上官のうちにて、
えさせ
給へるか」
といへば、
「いかがは」と答ふ。
唯返しを
いみじう
赤き
薄樣に、
「みづ
から
持て
まう
で
こぬ
下部は、
いと
れい
たう・・・・当・問う
なりと
なん
見ゆる」
とて、
めでたき
紅梅に
つけて奉るを、
すなはち
おはしまして、
「下部さぶらふ」
と
の給へば、
出でたるに、
「さやうのものぞ、
歌よみして
遣せ
給へると
思ひつるに、
美々しくも
いひ
たり
つる
かな。
女
少し
われはと
思ひたるは、
歌
よみがましく
ぞ
ある。
さらぬ
こそ
語ひ
よけれ。
まろなど
に
さる事
いはん
人は、
かへりて
無心
ならん
かし」
との給ふ。
「則光、・・・・・のりみつ・即効・速攻・即行
成康・・・・・・なりやす・成りやす・名理埜素
など、
笑ひて
止み
にし
事を、
殿の・・・・・伝之・出ん之・伝埜
前に・・・・・
人々
いと
多かりけるに、
語り
まを
したまひ
けれ
ば、
いと
よく言ひ
たる
と
なんの
給は
せし」
と
人の
語りし。
これこそ
見苦しき
我ぼめ
ども
なり
かし。
ーーーーー
・・・見苦しき、我ぼめどもなりかし・・・話例補目度摸名理可視・・・
ーーーーー
枕草子
(一三六段)・・・百三十六段・壱佰参拾六段・壱参六段・陌参足陸段
1+3+6=10=十=壱拾=足
1×3×6=18=十八=拾捌=足捌
「頭辨の・・・トウのベン=蔵人頭を兼務する弁官
↓
蔵人(くろうど・藏人)
律令制下の令外官の一
天皇の秘書的役割を果たした
唐名は
侍中(じちゅう)・・・字中
夕郎(せきろう)・・・籍中
夕拝郎(せきはいろう)・・・籍は遺漏
蔵人所は
事務を行う場所
内裏
校書殿の北部に置かれた
蔵の出納・管理を職掌とする下級官人
倉人とも書く
奈良時代の
造東大寺司に置かれ
史生・案主等の
下位に位置付けられた
810年(弘仁元年)三月に設置された
蔵人も「蔵人所」が
「校書殿(きようしよでん)」に置かれた
・・・「蔵人」は字面からすれば
「蔵の番人・管理人」であるが
「帳簿・書籍」の蔵である
・・・歌舞伎では
忠臣蔵の
「大石蔵之助」・・・息子は「主税」である・・・
弁官・・・弁=わきまえる
↓
弁=ム+廾
異体字=辯(辩)・辨・辧・瓣・辮(辫)
辦(办)
花弁→花しべ→はなしべ=話し部
↓
花蕊・花蘂=カズイ・花のしべ
雄しべと雌しべ
花心
王建
蜀一国を平定
903年朝廷より蜀王に封
唐滅亡後
五代十国の前蜀の高祖
妻
「花蘂夫人(カズイフジン)」
名は「小徐妃」(しょうじょひ)
女流詩人で「宮詞(キュウシ)」を作る
また、後に
「花蘂夫人」とは別人の
「二花蘂夫人(にカズイフジン)」が登場
姓は「費 or 徐」?
--
前蜀を乗っ取った
孟知祥(もうちしょう)
五代十国の
後蜀の初代皇帝
在位期間は明徳元年(934年)
姓・諱は孟知祥
字は保胤
諡号は
文武聖英烈明孝皇帝
廟号は高祖
咸通十五年四月21日
(874年5月10日)
~
明徳元年七月二十六日
(934年9月7日)
父は孟道
皇后は李皇后(李克用の姪)
陵墓は和陵
邢州龍岡に孟道の子として生まれる
父や叔父と共に
後唐の荘宗の武将
後唐が前蜀を滅ぼすと、
荘宗より
西川節度使に封
長興元年(930年)
後唐に叛旗挙兵
長興二年(932年)
蜀の地より後唐勢力を駆逐
懐柔策の明宗より蜀王に封
応順元年(934年)
国号を大蜀とし皇帝を称し、
明徳と改元
即位後
七か月で崩御
--↓
孟知祥
の三男、
↓
孟昶(永+日)=モウチョウ・昶)
後蜀の第二代皇帝
「後主」と称されている
↓
行軍司馬を務め、
明徳元年(934年)
東川節度使に封
旧臣の李仁罕や張業らを誅殺
農業
養蚕を推奨
科挙を実施
諫言を重用し政治改革実行
彼の後宮に
花蕊夫人
晩年は奢侈に溺れ、朝政が乱れた
広政十八年(955年)
西北四州が後周に略奪され
広政二十七年(964年)
宋に攻められ
広政二十八年(965年)
宋に降伏し後蜀は滅亡
亡国後は
検校太師兼中書令、
秦国公に封ぜられ、
乾徳三年(965年)に
開封で没した(趙光義による毒殺説)
死後は楚王に追封され、
恭孝の諡号が贈られた
この
孟昶(永+日)
の寵妃
↓
「二花蘂夫人」を
宋帝国の太祖・趙匡胤が
蜀の都・成都を陥とし、
この花蘂夫人に惚れたが
「貞女二夫にまみえず」
「二花蘂夫人」は皇帝・匡胤の前で、
亡国を偲んだ詞を詠み
匡胤の弟の
趙匡義が弓で「二花蘂夫人」を射殺
↓
ーーーーーーーーーーー
弁える(わきまえる)・見分ける・物事の違いを識別
理解する・心得る・善悪を判断し処理する
弁別する=捌
是非・善悪を区別する
思弁
けじめをつけて処理する
弁済・弁償・勘弁・支弁・自弁
弁当・駅弁・腰弁(こしべん)
わきまふ
区別する
物事の道理をよく知っている・心得ている
↓
房室弁
心房と心室の境にある弁
左房室弁を僧帽弁・二尖弁(にせんべん)、
右房室弁を三尖弁
半月弁
心臓の心室から動脈への出口にある
半月形をした三枚の弁膜
大動脈弁と肺動脈弁の総称
心室が収縮すると開いて血液を送り出し、
弛緩(しかん)すると閉じて逆流を防ぐ
三半月弁
↓
弁識
弁舌=speech
方言=a dialect〈なまり〉
↓
弁官(べんかん・辨官)
朝廷の最高機関、
太政官の職で
左大弁(さだいべん)
右大弁(うだいべん)
左中弁(さちゅうべん)
右中弁(うちゅうべん)
左少弁(さしょうべん)
右少弁(うしょうべん)
の総称
唐名(漢風名称)は
尚書・通説は四等官
律令制の官職組織の一
和訓は弁官〈おおともいのつかさ〉
↓
左弁官と右弁官は
太政官(だいじようかん)に所属
これを構成するおもな官職は
左、右弁(大弁、中弁、少弁の三等・定員各一)
と
史(大史・少史)
↓
左弁官は
太政官に属し、
八省のうち
中務(なかつかさ)
式部
治部(ジブ)
民部
を監督
↓
弁官=辨官
律令制で、太政官(だいじょうかん)に属し、
文書事務や、
諸官司・諸国との連絡などを司どった官
左弁官と右弁官に分かれ、
それぞれ
大弁・中弁・少弁が置かれ、
その下に
大史・少史があった
ーーーーーーーー↓
弁韓(べんかん)
紀元前二世紀末から四世紀にかけて
朝鮮半島南部に存在した
三韓の一つで
弁辰とも言う
弁韓十二ヶ国
三韓時代の
駕洛国(金官伽耶)
「卞韓」・「牟韓」とも記録
「弁辰」という名は、
「半跛国」・・・「跛(ハ)」は「足なえ」
跛行→爬行
↓
以下、「差別用語」としてではなく、
「歴史的使用言語」としてブログ記事から抜粋し、
そのコトバを添付します
「現存・古事記」の
ヤマトタケルの息吹山から下山した
三重(村)懸でのタギタギしい状況の重なりです
↓
跛(ちんば)
片方の足に障害がありうまく歩けないこと
対になっている物の形・大きさ・色が
揃っていないこと
両方の端がちがう「かたちんば」
片足が不自由で、普通に歩けないこと
対(つい)のモノが形や大きさが揃わないこと
めくら(視力障害者)、
つんぼ(耳の不自由な人)
あきめくら(字の読めない人・文盲)
おし(口の不自由な人・聾唖者)
どもり(言語障害者・吃音)
びっこ・ちんば・いざり(足の悪い人)
かたわ(身体障害者)
がちゃ目(ロンパリ・斜視)
ちんばの同義語
足萎(なえ)・片ちんば・不揃い・片跛
博多弁・・・?
ほんらい食い違っている様子
↓
・・・「ベートーベン」の
交響曲第9番、
「ミサ・ソレムニス
(misa solemnis)=荘厳ミサ(祭儀)」
・・・「座頭市・検校」の按摩
・・・「高橋竹山」の三味線
・・・「平家物語」を語る「琵琶法師」など・・・
↑
「歴史的使用言語」として理解すべし・・・
ーーーーーーーー↓半跛国
を中心とする
韓の諸国の意味
三世紀には「十二国また王あり」
狗邪国・安邪国・半跛国が強国
弁韓
古代に朝鮮半島の南部に居住した韓族の名称
「弁辰(弁辰韓)」
「三国志・魏志東夷列伝・韓の条」による記録
↓
弁韓
弁韓(弁辰)「後漢書・弁辰伝」
弁辰與辰韓雜居、城郭衣服皆同、
言語風俗有異。
其人形皆長大、美髮、衣服清。
而刑法嚴峻。其國近倭、故頗有文身者。
紀元前3世紀~2世紀に掛けて
朝鮮半島の南部の辰国
中国の春秋戦国時代に
韓の国が蓁の国に滅ぼされ、
山東半島に移住した韓族
韓族が山東半島経由で朝鮮半島の南部に
馬韓・辰韓・弁韓等を建国・・・
弁韓
古代朝鮮の三韓の一
現在の慶尚南道西南部
後、
加羅(から)(任那(みまな))となり、
六世紀に
新羅(しらぎ)に併合
朝鮮半島南部
馬韓、辰韓、弁韓
「弁韓」とは - 紀元前二世紀から四世紀にかけて
朝鮮半島南部に存在した三韓の一
十二ヶ国に分かれ
馬韓の東で
辰韓の南
後の任那である・・・・・・?
↓
当弁・答弁・唐弁・問う弁
ーー↓枕草子のツヅキ
御許
より」とて、
主殿司、・・・主伝詞・取伝史
繪
など
やうなる物を、
白き
色紙につつみて、
梅の花の
いみじく
咲きたるに
つけてもてきたり。
繪にやあらんと
急ぎ取り入れて
見れば、
餠餤・・・・・・・へいだん、べいだん、へいたん
↓
餅腅
食べ物の一つ
阿比留、鴨の卵と
野菜を煮て
餠の中に入れこみ、
四角に切ったもの
↓
兵団・兵站・兵端・米談
平談→平家物語
とい・・・・問
ふ・・・・・譜
ものを、
二つ
竝べて
つつみたるなり。
添へたるたて
文に、
解文の
やうに書きて
「進上餠餤・・・・「真情・心情・身上・信条」兵団・平談
ピアノ、楽器の「進上の併弾」
一つ
つみ、・・・・・・罪・摘み・抓み・積み・詰み
例によりて
進上
如件、・・・・・如件(くだんのごとし)
くだん・九段・句段・苦談・件(くだん)
少納言殿に」・・章名言伝爾
とて、
月日かきて、・・・解通比
「任那成行」・・・任那の成り行き・・・日本府
南朝鮮の東端・・・辰韓・弁韓
駕洛国(金官伽耶)
とて、
奧に、
「この
男は・・・・・・音故葉
みづ・・・・・・自・「水=壬・癸」
から
參・・・・・・・まい
サン・纂
らん・・・・・・乱・覧・蘭
と・・・・・・・徒・賭・渡
するを、
晝は・・・・・・晝(昼・ひる・チュウ)
類字は書(かく・ショ)
畫(画・えがく・限る・エ・カク)
かたち
わろし
とて
まゐらぬ
なめり」
と、
いみじく
をかしげに
書き給ひたり。
御前に
參りて
御覽ぜさすれば、
「めでた・・・・目出度
く・・・・・・句
も・・・・・・模
かかれ・・・・懸か例
たる
かな。
をかしう
したり」
など
譽めさせ給ひて、
御文はとらせ給ひつ。
「返事は
いかが
すべ
か
らん。
この
餠餤もてくるには、
物
など
や
とらす
らん。
知りたる
人
もがな」
といふを
聞しめして、
「惟仲・・・・これなか・「イチュウ・ユイチュウ」
が
聲し
つる、
呼びて
問へ」
との給はすれば、
はしに出でて、
「左・・・・・よこしま(邪)・ひだり(比拿理)
大・・・・・代
辨・・・・・弁・偏・篇・変
に
もの
聞えん」
と、
侍・・・・・・はべら(葉部等)
して
いはすれば、
いと
よく
うるはしう
てき
たり。
「あらず、
私事なり。
もしこの
辨
少
納
言
などの
もとに、
かかる物
もてきたる
下部などには、
することやある」
と問へば、
「さる事も侍らず、
唯とどめて
くひ侍る。
何しに
問はせ給ふ。
もし
上官のうちにて、
えさせ
給へるか」
といへば、
「いかがは」と答ふ。
唯返しを
いみじう
赤き
薄樣に、
「みづ
から
持て
まう
で
こぬ
下部は、
いと
れい
たう・・・・当・問う
なりと
なん
見ゆる」
とて、
めでたき
紅梅に
つけて奉るを、
すなはち
おはしまして、
「下部さぶらふ」
と
の給へば、
出でたるに、
「さやうのものぞ、
歌よみして
遣せ
給へると
思ひつるに、
美々しくも
いひ
たり
つる
かな。
女
少し
われはと
思ひたるは、
歌
よみがましく
ぞ
ある。
さらぬ
こそ
語ひ
よけれ。
まろなど
に
さる事
いはん
人は、
かへりて
無心
ならん
かし」
との給ふ。
「則光、・・・・・のりみつ・即効・速攻・即行
成康・・・・・・なりやす・成りやす・名理埜素
など、
笑ひて
止み
にし
事を、
殿の・・・・・伝之・出ん之・伝埜
前に・・・・・
人々
いと
多かりけるに、
語り
まを
したまひ
けれ
ば、
いと
よく言ひ
たる
と
なんの
給は
せし」
と
人の
語りし。
これこそ
見苦しき
我ぼめ
ども
なり
かし。
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・・・見苦しき、我ぼめどもなりかし・・・話例補目度摸名理可視・・・